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湖神の末裔  作者: 双鶴


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第7話 諏訪存亡を賭けた外交戦

 天正十年(1582年)六月下旬。

 諏訪湖は梅雨の雲を映し、重く沈んだ色をしていた。


 高島城を奪還し、諏訪氏の家督を継いだ頼忠は、

 まだ勝利の余韻に浸る暇もなかった。


 ――徳川が動く。

 ――北条も動く。

 ――木曽義昌も信濃へ触手を伸ばす。


 諏訪は、三勢力の狭間に置かれた。


 


 徳川家康は、本能寺の変の混乱を見逃さなかった。


 「旧武田領を掌握せよ。

  甲斐・信濃は徳川のものとする」


 家康は即座に軍を動かした。


 先手として大久保忠世・大須賀康高ら“先手七人衆”を甲斐へ派遣。

 さらに酒井忠次には奥三河から伊那へ進ませ、

 信濃衆を従属させながら諏訪へ向かわせた。


 忠次は三千の兵を率い、

 三河国吉田城を堂々と出陣した。


 家康自身も六月下旬に浜松を発ち、

 七月二日に駿河掛川城、

 七月九日には甲府尊躰寺に入った。


 徳川の大軍が、

 諏訪へ迫っていた。


 


 一方、信濃南部では下条頼安が動いた。


 小笠原信嶺、知久頼氏ら伊那衆を伴い北進し、

 酒井忠次と合流するため諏訪へ向かった。


 七月十四日頃、

 両軍は諏訪に到達し、

 高島城を包囲した。


 徳川の軍勢は、

 諏訪神軍とは比べ物にならぬ規模だった。


 城下の民は震え上がった。


 「徳川の大軍が……」

 「また戦になるのか……」


 頼忠は城内で静かに目を閉じた。


 ――諏訪は、まだ死ねぬ。

 ――ここで滅べば、諏訪の神事は途絶える。


 


 しかし、諏訪を狙っていたのは徳川だけではなかった。


 六月下旬、北条氏直も諏訪衆へ調略の手を伸ばしていた。


 北条家臣・斎藤定盛は、

 千野昌房に密書を送った。


 「諏訪は北条の庇護を受けるべし。

  氏直様に忠誠を誓えば、諏訪の安堵を約す」


 昌房は眉をひそめた。


 ――やはり北条も諏訪を狙っているか。


 さらに七日には、

 諏訪衆の樋口木工左衛門が北条への帰属を表明した。


 諏訪衆の中にも、

 徳川か北条かで揺れる者が出始めていた。


 


 頼忠は、城内の広間で諏訪衆を集めた。


 「大祝様……徳川は三千。

  北条も調略を進めております。

  いかが致しましょう」


 宮坂が問うと、

 頼忠は静かに答えた。


 「諏訪は、どちらにも従わぬ。

  だが、どちらにも従う」


 諏訪衆は息を呑んだ。


 頼忠は続けた。


 「徳川にも、北条にも、

  諏訪は敵ではないと伝えよ。

  諏訪は神領であり、

  いずれの軍も神域を荒らすべきではない、と」


 昌房が頷いた。


 「……両属の構え、ということにございますな」


 頼忠は頷いた。


 「諏訪は小国。

  力では勝てぬ。

  ならば、時を稼ぎ、

  情勢を見極め、

  最も諏訪を守れる道を選ぶ」


 その声には、

 諏訪大祝としての覚悟が宿っていた。


 


 七月十四日。

 徳川軍は高島城を包囲した。


 城下には三千の兵が押し寄せ、

 諏訪湖のほとりには無数の旗指物が並んだ。


 だが、徳川軍は攻撃を仕掛けなかった。


 酒井忠次は、

 諏訪が北条と交渉していることを知っていた。


 ――下手に攻めれば、諏訪は北条に走る。


 忠次は慎重だった。


 「諏訪大祝に伝えよ。

  徳川は敵意なし。

  ただ、旧武田領の安定を望むのみ、と」


 徳川は交渉を望んでいた。


 


 同じ頃、北条氏直も諏訪衆へ密使を送り続けていた。


 「徳川は甲斐と信濃を奪うために来た。

  諏訪を守れるのは北条のみ」


 諏訪衆の中には、

 北条に傾く者もいた。


 諏訪は揺れていた。


 


 頼忠は、城内の一室で静かに祈っていた。


 ――諏訪の神よ。

 ――この地をお守りください。


 その祈りの中で、

 頼忠は一つの決断を下した。


 「徳川とも、北条とも、

  交渉を続ける。

  諏訪は、諏訪のために動く」


 諏訪衆は深く頭を下げた。


 


 諏訪湖の水面は、

 夏の風に揺れていた。


 徳川、北条、木曽。

 三勢力が諏訪を狙い、

 諏訪はその中心で揺れていた。


 だが頼忠は、

 諏訪の神を背負い、

 諏訪の民を守るため、

 静かに、しかし確かな一歩を踏み出していた。


 天正壬午の乱――

 諏訪の存亡を賭けた戦いが、いよいよ幕が開け始めた


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