表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
湖神の末裔  作者: 双鶴


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

6/10

第6話 諏訪神軍の蜂起

 天正十年(1582年)六月二日。

 諏訪湖は初夏の陽を受けて白く輝き、湖面には風が細かな波紋を描いていた。


 その静けさを切り裂くように、諏訪の山々を越えて一つの報せが駆け抜けた。


 ――本能寺にて、織田信長、横死。


 雷鳴のような衝撃だった。


 織田の支配は、信長の威光によって成り立っていた。

 その頂点が崩れた今、甲斐・信濃は一気に空白となった。


 諏訪の民はざわめき、

 湖畔の村々では人々が顔を見合わせ、

 山風はどこか不穏な匂いを運んでいた。


 ――時代が動く。

 ――諏訪が、再び立ち上がる時が来た。


 


 上野国へ亡命していた千野兵衛尉・昌房は、

 この報せを聞くや否や、北条氏直のもとへ駆け込んだ。


 「氏直様……諏訪を、どうかお救いくだされ!」


 昌房の声は震えていた。

 だがその瞳には、諏訪を取り戻す強い意志が宿っていた。


 氏直は静かに頷いた。


 「よい。

  北条は甲斐・信濃へ進む。

  諏訪はその要。

  そなたが諏訪をまとめるなら、我らも支援しよう」


 北条氏は、甲斐・信濃への進出を狙っていた。

 諏訪衆を味方につけることは北条にとっても大きな利となる。


 昌房は深く頭を下げ、その日のうちに諏訪へ向かった。


 六月――諏訪へ帰還。


 昌房が諏訪に戻った時、

 諏訪の民は織田の支配に怯え、小屋揚がりを続けていた。


 だが、昌房の姿を見ると、

 山中から次々と人々が姿を現した。


 「昌房様が……帰ってこられた!」

 「諏訪は、まだ終わっていない!」


 昌房は、諏訪衆の残存勢力を一人ひとり訪ね歩いた。


 その時、昌房は気づいた。


 ――諏訪には、まだ“力”が残っている。


 武田滅亡後、諏訪の山々には

 旧武田家臣、諏訪衆の若者、神官の縁者、

 そして諏訪大社を守るために潜伏していた者たちが

 数百単位で散在していた。


 昌房は彼らを糾合した。


 「諏訪の神の御名のもとに、集え!」


 その声に応じ、

 山中の谷から、森の奥から、

 白衣をまとった神官、槍を持つ若者、

 武田の残兵、諏訪の農兵たちが続々と姿を現した。


 諏訪神軍――

 その数、瞬く間に数百へと膨れ上がった。


 昌房は叫んだ。


 「諏訪は、諏訪の手で取り戻す!」


 その声に、諏訪神軍は一斉に鬨の声を上げた。


 


 六月十日。

 諏訪大祝・頼忠、挙兵。


 山中の庵に身を潜めていた頼忠のもとに、昌房が駆け込んだ。


 「大祝様!

  諏訪神軍、すでに数百!

  今こそ、諏訪が立ち上がる時にございます!」


 頼忠は静かに立ち上がった。


 「……諏訪の神は、諏訪の民のためにある。

  ならば、私も立たねばならぬ」


 頼忠は白衣をまとい、

 諏訪大祝としての装束を整えた。


 その姿は、まるで諏訪の神が人の形を取ったかのようだった。


 宮坂と守矢は、深く頭を下げた。


 「大祝様……ついに、この時が参りましたな」


 頼忠は頷いた。


 「諏訪の神事を守るため、

  諏訪の民を守るため、

  私は高島へ向かう」


 こうして頼忠は十数年ぶりに

“諏訪の表舞台”へ姿を現した。


 


 同じ頃、深志城(松本)では、

 木曽義昌が静かに情勢を見つめていた。


 義昌は、信長の死を知るとすぐに判断した。


 ――織田の支配は崩れる。

 ――信濃は空白となる。

 ――諏訪は、北条と木曽の間の要衝。


 義昌は信濃での版図拡大を企図していた。

 そのためには、諏訪を味方につけることが不可欠だった。


 六月十三日、義昌は諏訪大社上社に禁制を発給した。


 「諏訪大社を犯すべからず。

  神領を荒らす者は、木曽の敵と見なす。」


 この禁制は、

 諏訪の再興を義昌が黙認し、

 むしろ保護する意思を示したものだった。


 頼忠はその知らせを受け、静かに呟いた。


 「……義昌殿。

  諏訪の神を守るため、力を貸してくださるか」


 


 六月中旬。

 諏訪神軍、ついに高島城へ進軍。


 その数は、すでに五百を超えていた。


 白衣の神官、槍を構える農兵、

 旧武田家臣の武者、諏訪衆の若者たち。


 諏訪の山々に潜んでいた“諏訪の魂”が、

 今ここに一つに集まった。


 高島城(高島古城)には、

 織田家の郡代・弓削重蔵が籠もっていた。


 だが、織田軍は本能寺の変で混乱し、

 重蔵の周囲にはほとんど兵がいなかった。


 夜明け前、諏訪湖には薄い霧が立ち込めていた。

 湖畔の草は露に濡れ、

 鳥の声すら聞こえない静寂。


 昌房は馬上で息を整えた。


 「……諏訪のために。

  勝頼様のために。

  そして、大祝様のために!」


 号令とともに、諏訪神軍は一斉に突撃した。


 城下の道を白衣の列が駆け抜け、

 槍の穂先が朝霧を切り裂いた。


 「押し込め!」

 「城門を破れ!」


 諏訪神軍は必死の形相で槍を突き出し、

 城門を打ち破った。


 重蔵は奮戦したが、

 諏訪神軍の勢いに押され、ついに討ち取られた。


 高島城、陥落。


 諏訪の民は歓声を上げた。


 「諏訪が……戻った!」

 「大祝様が帰ってこられる!」


 


 六月十日、頼忠は高島城に入った。


 城門をくぐると、

 諏訪の民が道の両側に並び、深く頭を下げた。


 「大祝様……!」

 「諏訪を……どうかお導きください!」


 頼忠は静かに頷いた。


 「私は、諏訪の神の御前に誓う。

  諏訪の民を守り、

  諏訪の神事を立て直し、

  諏訪の地を再び一つにする」


 その声は、

 かつて幼い頃に大祝となった日の声とは違っていた。


 四十六年の歳月を経て、

 諏訪の神威を背負う者としての重みが宿っていた。


 こうして頼忠は、

 諏訪氏の家督を継ぎ、旧領を回復した。


 


 諏訪湖の水面は、初夏の風に揺れていた。


 武田家は滅び、勝頼も信勝もいない。

 だが、諏訪は再び立ち上がった。


 頼忠は湖を見つめ、静かに祈った。


 ――諏訪の神よ。

 ――どうか、この地をお守りください。

 ――勝頼様の魂も、どうか見守っていてください。


 その祈りは、湖面を渡り、

 山々へと吸い込まれていった。


 諏訪の物語は、

 ここから新たな章へと進んでいく。


 天正壬午の乱――

 諏訪再興の真の戦いが、いよいよ始まる。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ