第5話 諏訪の散華
天正十年(1582年)二月。
諏訪湖は冬の名残を湛え、湖面には薄氷がまだらに残っていた。
その静けさとは裏腹に、諏訪の空気は張り詰めていた。
――織田信長、甲州へ侵攻。
その報せは、諏訪の山々を越えて一気に広がった。
武田家は今、滅亡の淵に立っていた。
諏訪大祝・頼忠、四十六歳。
上社本宮の御社殿の前に立ち、冬の冷気を吸い込んだ。
造営されたばかりの社殿は、まだ新しい檜の香りを放っている。
勝頼が威信をかけて築いた諏訪の象徴。
だが、その主である勝頼は、今まさに追い詰められていた。
宮坂信定が駆け込んできた。
「大祝様……勝頼様、天目山へ退かれたとのこと……」
頼忠は目を閉じた。
――ついに、この時が来たか。
勝頼は武田家本流ではない。
諏訪惣領家の後継者として諏訪を継ぎ、
信玄没後は嫡子・信勝の後見として武田家を支えてきた。
だが、織田・徳川・北条の包囲の中で、
勝頼政権はもはや支えきれなかった。
昌房が低く言った。
「……勝頼様は、諏訪の武の象徴。
諏訪衆の一部は、鳥居峠にて殿を務め、
織田勢に抗しているとのこと」
頼忠は胸が締めつけられるような痛みを覚えた。
――諏訪の民が、また血を流している。
川中島の戦い以来、諏訪は武田軍の後方拠点として酷使されてきた。
兵糧、馬、労役、道の整備。
戦のたびに諏訪の民は疲弊し、
それでも勝頼のために立ち上がった。
勝頼が諏訪惣領家であったからだ。
諏訪の民にとって、勝頼は“諏訪の武”そのものだった。
三月十一日。
天目山。
勝頼・信勝父子、最期。
その報せは、諏訪に深い沈黙をもたらした。
宮坂は震える声で言った。
「……勝頼様、自害。
信勝様も……」
頼忠は静かに目を閉じた。
勝頼は、頼忠にとって兄のような存在だった。
幼い頃から諏訪御前を介して交流し、
共に“諏訪家の血を受け継いだ”者として育てられた。
政治の冷徹さを理解しながらも、
互いに支え合ってきた。
――勝頼様…
頼忠の胸に、深い痛みが広がった。
武田家滅亡の後、織田軍は信濃へ雪崩れ込んだ。
諏訪は河尻秀隆の支配下に置かれ、
郡代・弓削重蔵が高島城(高島古城)に入った。
その頃、諏訪の村々では“ある現象”が起きていた。
――小屋揚がり。
諏訪の民が、家財をまとめて山中へ避難するのである。
「織田の兵が来るぞ!」
「逃げろ、山へ!」
諏訪の民は、武田の滅亡と織田の侵攻に怯え、
家を捨てて山へ逃げ込んだ。
頼忠はその光景を見つめながら、
胸の奥が締めつけられるような思いを抱いた。
――諏訪の民は、また苦しんでいる。
諏訪衆の重臣の中で、
唯一消息がはっきりしている者がいた。
千野兵衛尉・昌房。
頼忠を幼い頃から守り続けた忠臣である。
昌房は、織田軍の追及を避けるため、
上野国へ亡命した。
その決断を告げた夜、
昌房は頼忠の前にひざまずいた。
「大祝様……私は、ここを離れねばなりませぬ。
織田の追及は厳しく、諏訪衆の重臣は皆、命を狙われております」
頼忠は静かに頷いた。
「昌房……そなたは、私の命を守ってくれた。
今度は、そなた自身の命を守れ」
昌房は深く頭を下げた。
「大祝様……どうか、御身をお大切に。
諏訪の神は、必ずや御守りくださいます」
昌房は涙をこらえながら立ち上がり、
そのまま闇の中へ消えていった。
頼忠は、幼い頃から共にあった忠臣の背を、
ただ黙って見送るしかなかった。
***
頼忠自身は、諏訪郡周辺に逼塞していた。
織田軍は武田一門・重臣には厳しい追及を行ったが、
信濃国衆の多くは助命されていた。
頼忠は武田家の政治には関わらず、
諏訪の神事を司る立場であったため、
織田軍も積極的には追及しなかった。
だが、頼忠は自ら姿を現さなかった。
――諏訪の民が怯えている時に、
――大祝が捕らえられる姿を見せるわけにはいかぬ。
頼忠は、山中の小さな庵に身を潜め、
諏訪の行く末を静かに見守っていた。
宮坂と守矢は、密かに頼忠のもとを訪れた。
「大祝様……どうか、御身をお守りください。
諏訪の神事は、あなたがいなければ途絶えてしまいます」
頼忠は静かに頷いた。
「私は逃げぬ。
諏訪の神は、諏訪の民のためにある。
私は、その務めを果たすだけだ」
その言葉に、宮坂も守矢も深く頭を下げた。
――このお方こそ、諏訪の魂。
そう確信していた。
諏訪湖の水面は、春の陽を受けて揺れていた。
武田家は滅び、勝頼も信勝もいない。
諏訪は織田の支配下に置かれ、
諏訪衆は散り散りになった。
だが――
諏訪の神は、まだここにある。
頼忠は湖を見つめ、静かに祈った。
――諏訪の神よ。
――どうか、この地をお守りください。
――勝頼様の魂も、どうか安らかに。
その祈りは、春の風に乗って湖面を渡り、
山々へと吸い込まれていった。
諏訪の物語は、まだ終わらない。
むしろここから、
諏訪再興への道が始まるのだった。




