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湖神の末裔  作者: 双鶴


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第4話 二つの諏訪の頂点

 天正六年(1578年)春。

 諏訪湖は雪解けの水を湛え、湖面は鏡のように空を映していた。


 湖畔にはまだ残雪が残り、山々の稜線には白と黒のコントラストが走る。

 諏訪の春は遅い。

 だが、その遅さこそが、諏訪の自然の厳しさと美しさを象徴していた。


 その諏訪の地で、今、かつてない大事業が始まろうとしていた。


 ――諏訪大社上社の大造営。


 武田勝頼が命じた、諏訪の象徴的事業である。


 諏訪大祝・頼忠、四十二歳。

 その円熟した眼差しは、社殿の前に立つ勝頼を静かに見つめていた。


 


 勝頼は、今や武田家の実質的な長であった。


 父・信玄は天正元年に逝去。

 兄・義信は永禄十年に東光寺で果てて久しい。


 信玄は、義信の死後も勝頼を正式な後継者とはしなかった。

 勝頼は諏訪御前の子であり、武田本流の母系ではない。

 家中の反発を避けるため、信玄は

 「勝頼の子・信勝を後継者とする」

 と定めた。


 だが信勝はまだ幼い。


 ゆえに勝頼が後見として政務・軍務のすべてを差配し、

 武田家は実質的に勝頼の手にあった。


 ――名目は信勝。

 ――実権は勝頼。


 この“ねじれ”が、勝頼の胸に焦りと孤独を生んでいた。


 


 諏訪大社上社本宮。

 社殿は長年の風雪と戦乱で傷み、柱は黒ずみ、屋根の檜皮は剥がれ落ちていた。


 だが、今はその周囲に大量の材木が積まれ、

 甲斐・信濃から集められた大工たちが忙しなく動いていた。


 檜の香りが境内に満ち、

 木槌の音が山々にこだまする。


 勝頼は新しい社殿の設計図を広げ、頼忠に言った。


 「頼忠。これが新たな上社本宮の姿よ。

  父上(信玄公)の代より温めていた計画、

  わしの代で成し遂げる」


 頼忠は図面を見つめ、静かに頷いた。


 「見事なものにございます。

  諏訪の神威を示すにふさわしい社殿となりましょう」


 勝頼は満足げに微笑んだ。


 「諏訪はわしの領地。

  諏訪の神は、わしが守る。

  その証として、この造営を行うのだ」


 その言葉には、武田家の当主としての誇りと、

 諏訪惣領家の後継者としての自負が混ざっていた。


 だが頼忠は、その裏にある政治の匂いを感じ取っていた。


 ――これは、勝頼様の威信を示すための事業。

 ――諏訪の民心を繋ぎ止めるための政治の一手。


 信玄の時代から続く「諏訪支配の構造」は変わらない。

 諏訪惣領家は勝頼。

 大祝家は頼忠。

 だが、政治の主導権は常に武田家にある。


 頼忠はそれを理解しつつも、

 諏訪の神威を守るために、この造営に全力を尽くす覚悟でいた。


 


 諏訪の民は、この造営を喜びながらも、

 その顔には深い疲労が刻まれていた。


 川中島の戦いの頃から、

 諏訪は武田軍の後方拠点として酷使されてきた。


 兵糧の徴発、馬の提供、労役、道の整備。

 戦が北信濃で起これば、諏訪の民は必ず負担を負った。


 「また材木の運び出しか……」

 「今年も田植えが遅れる……」


 そんな声が、湖畔の村々から聞こえていた。


 頼忠はその声を聞くたび、胸が痛んだ。


 ――諏訪の民は、戦に疲れている。

 ――それでも、諏訪の神事を守るために働いてくれている。


 だからこそ、頼忠は造営に全身全霊を注いだ。


 


 宮坂信定が言った。


 「大祝様。

  この造営は、諏訪にとって百年に一度の大事業。

  勝頼様の御威光もあり、諏訪の民も喜んでおります」


 頼忠は静かに答えた。


 「……諏訪の神事が立ち直ることは、諏訪の魂が立ち直ること。

  武田の政治がどうあれ、

  諏訪の神は、諏訪の民のためにある」


 守矢頼真が頷いた。


 「大祝様のお言葉、まことにその通りにございます」


 昌房は、頼忠の横顔を見つめながら思った。


 ――このお方は、政治の道具ではない。

 ――諏訪の神威そのものだ。


 だが、武田家の本音は違う。


 勝頼は頼忠に一定の敬意を抱いていた。

 幼い頃から共に育ち、諏訪御前の血を分けた者として、

 頼忠を“特別な存在”と見ている部分もあった。


 だが同時に――

 頼忠は「宗教的な駒」であることも、勝頼は理解していた。


 諏訪の民心を抑えるための象徴。

 諏訪支配を正当化するための神事の顔。


 勝頼の視線には、常にその冷徹な計算があった。


 頼忠も、諏訪衆も、それを感じ取っていた。


 だが――

 頼忠は勝頼に従った。


 それは、政治ではなく、恩義のためである。


 ――叔母上…諏訪御前様。

 ――あなたが守ってくださった命。

 ――私は、その恩に報いねばならぬ。


 諏訪御前はすでにこの世にはいない。

 だが、頼忠の胸の中には、幼い日の記憶が残っていた。


 勝頼もまた、母の記憶を胸に抱いていた。

 諏訪御前の面影は、勝頼の心に影のように寄り添っていた。


 だからこそ、二人は互いに従い、支え合った。


 諏訪衆もまた、頼忠を守るために武田家に従った。

 それは恐れではなく、忠義であり、誇りであった。


 


 天正七年(1579年)。

 造営二年目。


 新しい社殿の骨組みが立ち上がり、

 巨大な梁が空へ向かって伸びていた。


 勝頼が再び諏訪を訪れた。


 「頼忠。見よ、この姿を。

  諏訪の神は、わしが守る。

  この社殿こそ、武田と諏訪の絆の証よ」


 頼忠は静かに頭を下げた。


 「勝頼様の御威光、諏訪の民も深く感じております」


 勝頼は満足げに頷いた。


 「よい。

  諏訪は惣領家たるわしの領地。

  諏訪の神は、わしの家の守り神よ」


 その言葉に、頼忠は胸の奥にわずかな痛みを覚えた。


 ――諏訪の神は、諏訪の民の神。

 ――武田のものではない。


 だが、それを口にすることはできない。


 頼忠は大祝であり、

 政治の表舞台に立つ者ではない。


 勝頼は続けた。


 「頼忠。

  そなたは大祝として、諏訪の神事を守れ。

  わしは武田の当主として、諏訪の武を守る。

  それでよい」


 頼忠は静かに答えた。


 「はい。

  私は、諏訪の神を守りましょう」


 勝頼は満足げに頷き、社殿を見上げた。


 その背中には、武田家の当主としての誇りと、

 どこか焦りのような影が混ざっていた。


 ――武田家の黄昏は、すでに始まっていた。


 


 造営は続く。

 諏訪の自然は季節を巡り、

 社殿は少しずつ姿を現していく。


 頼忠はそのすべてを見守りながら、

 胸の奥で静かに祈っていた。


 ――諏訪の神よ。

 ――どうか、この地をお守りください。


 諏訪湖の水面は、夕陽を受けて赤く染まり、

 その奥に、武田家の未来と諏訪の運命を映していた。


 それは、

 武田家最後の隆盛の光

 であり、

 諏訪が嵐に呑まれる前の静かな輝き

 でもあった。


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