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湖神の末裔  作者: 双鶴


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第8話 外交の牙

 天正十年(1582年)七月。

 諏訪湖は夏の陽を受けて青く光り、

 湖畔には蝉の声が響いていた。


 だが、その静けさとは裏腹に、

 諏訪の情勢は嵐の只中にあった。


 高島城を奪還し、諏訪氏の家督を継いだ頼忠のもとへ、

 徳川・北条・木曽の三勢力が迫っていた。


 


 旧武田領の掌握を急いでいた徳川家康は、


 「甲斐・信濃は徳川のものとする。

  遅れれば北条に奪われる」


 と檄を飛ばし、酒井忠次には、

 “信濃における軍事指揮権・諸役賦課・徴収権”

 という、事実上の領主権を与えた。


 忠次はその判物を楯に、

 高島城の頼忠へ居丈高に迫った。


 「大祝殿、開城されよ。

  諏訪は徳川の支配下に入るべきである」


 頼忠は静かに忠次を見据えた。


 「……諏訪は神領。

  軽々しく他家に従うものではない」


 忠次は鼻で笑った。


 「判物が見えぬか。

  これは家康公の御朱印であるぞ」


 頼忠の胸に、怒りが込み上げた。


 ――諏訪を、ただの領地と思っている。

 ――諏訪の神を、諏訪の民を、何も知らぬ。


 頼忠は態度を硬化させた。


 「諏訪は、信仰のためにある。

  徳川のためではない」


 忠次の顔が険しくなった。


 


 しかし、諏訪衆の中には徳川を望む者もいた。


 上社神長官・守矢信真である。


 信真は、家康が甲斐で恵林寺を再興し、

 勝頼の菩提寺を建てようとしていることを知っていた。


 「大祝様……家康公は、神仏を敬うお方。

  織田に焼かれた上社を再興してくださるやもしれませぬ」


 信真の声は切実だった。


 「諏訪大社を守るためには、

  徳川の庇護が必要にございます」


 頼忠は黙って聞いていた。


 ――信真の言い分も分かる。

 ――だが、徳川に従えば諏訪は飲み込まれる。


 頼忠は決断した。


 「……北条へ援軍を求める」


 昌房が驚いた。


 「大祝様、徳川を敵に回すおつもりか!」


 頼忠は静かに首を振った。


 「敵にはせぬ。

  だが、諏訪が一方に傾けば、

  もう一方に呑まれる。

  ゆえに、両者と交渉を続ける」


 諏訪衆は息を呑んだ。


 ――大祝は、諏訪を守るために“時間”を稼ごうとしている。


 


 頼忠の態度に違和感を覚えた家康は、

 七月十七日、先手七人衆を台ヶ原へ派遣し、

 軍事的圧力をかけた。


 「諏訪を包囲せよ。

  大祝の出方を見極める」


 諏訪の民は震え上がった。


 「徳川が……本気だ……」

 「やはり戦になるのか……」


 


 家康はさらに、

 甲信国境の国衆・乙骨太郎左衛門を使者として派遣した。


 乙骨は礼を尽くし、

 頼忠に徳川への帰属を勧めた。


 だが、頼忠は冷ややかに言った。


 「乙骨殿は才覚も分別もある。

  だが、遠国の徳川に属し、

  使者として来るとは恐れ知らずよ。

  本来なら歓迎したいが……湯漬けでも食わせろ」


 ――早々に帰れ。


 その言葉に、乙骨は顔を強張らせた。


 交渉は決裂した。


 


 この直前、酒井忠次は

 小笠原貞慶の深志城に奥平信昌を入れようとしたが、

 かえって貞慶の不信を煽り、

 貞慶は徳川から離反していた。


 忠次は、諏訪でも深志でも失策を重ねていた。


 家康は苛立ちを隠せなかった。


 「忠次……諏訪を逃せば、

  信濃は北条に奪われるぞ」


 


 諏訪湖の水面は、

 夏の風に揺れていた。


 徳川は圧力を強め、

 北条は調略を続け、

 木曽義昌は信濃侵攻を狙っている。


 諏訪は、三勢力の狭間で揺れていた。


 だが頼忠は、

 諏訪の神を背負い、

 諏訪の民を守るため、

 静かに、しかし確かな一手を打ち続けていた。


 ――諏訪は、まだ死なぬ。

 ――諏訪は、諏訪のために生きる。


 その決意は、

 夏の湖面に揺れる光のように、

 確かに諏訪の未来を照らしていた。


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