影に潜むもの
グラム山脈の名は、城壁都市の古い地図にも記されている。
都市から馬車でおよそ二日。東へ伸びる街道を外れ、やがて舗装された石畳が途切れると、そこから先は獣道すら定かでない深い森が続く。
人の手が入らぬ場所に根を張る巨木たちは、昼でも地面に届く陽光をわずかにしか通さず、常にどこか薄暗い気配を漂わせていた。
そのグラム山脈の麓の森へ
オルハとユイは、城壁都市を出てしばらく歩き、人の気配が途切れたところで森へと足を踏み入れる。
さらに少し奥へ進み、周囲に誰もいないことを確認してから、二人は足を止めた。
目的は一つ。
シャドウ・レーカーの使役。
黒豹を思わせる大型の体躯を持ち、瞳だけが鮮烈な黄金色に輝く魔物。
その名が示す通り、影に身を潜め、気配を断つ。気づいた時にはすでに爪が届く距離にいる そういう性質の生き物だ。
暗殺者、と呼ぶ者もいるほどだった。生息域は、ここからさらに数時間は奥に入らなければならない。
ユイが小さな手を差し出した。
オルハがそれを取った瞬間、景色がわずかに歪む。
次の瞬間
二人は、グラム山脈の麓に広がる森の入口に立っていた。
木々の梢が風に揺れる音。どこか遠くで川の流れる気配。
ユイはフードを目深に被り直し、ぱちぱちと大きな目で周囲を見回す。
「……よし。じゃあここから歩きますか」
「そうだな」
オルハが先を促すように一歩踏み出すと、ユイが小走りで隣に並んだ。
足元の土の感触、空気の重さ、光の届き方 すべてが先ほどまでとは違っていた。
ユイは木々の隙間から奥へ続く暗い道を見て、小さく息を整える。
「ここから数時間、奥に進まないと出てこないみたいですね」
ユイの声はいつも通り柔らかいが、その奥にはわずかな緊張が滲んでいる。
ユイは歩き出しながら、身に着けた新しい装備に視線を落とす。
フード付きのローブ。長い杖と短い杖。首元に下げたネックレス。そして、指には三つの指輪。
どれも勇者パーティの遺品だ。
歩くたびに、まだ少しだけ衣擦れの感触が新しい。自分の体に馴染みきっていない装備は、普段よりも存在感があった。
「ちょっと大きいですね……でも、そのうち育ちますから」
くすりと笑いながら言うユイに、オルハは特に突っ込まない。確かにローブはやや大きく、袖もわずかに余っているが、動きに支障があるほどではない。
効果は分からない。だが、勇者パーティが使っていた装備である以上、質が悪いはずがない。
ユイは長い杖を軽く持ち上げ、その重さを確かめるように握り直した。
「今まで杖とか使ってなかったですけど……」
少しだけ首を傾げ、杖先を見つめる。
「無くてもいいとは思うんですけど、どれくらい違うのか、試しながら行きますね」
その言葉通り、道中でユイは様々な術を試し始めた。
結界を張り、白骨を見つければ足を止め、鎮魂と浄化を行う。
森の中には、獣の骨だけではない、明らかに人型のものも混ざっていた。風雨に削られ、苔に覆われ、それでもなお残っている白い骨。
ユイはその前に立つと、ふざけた様子を一切消して、静かに目を閉じる。
静かに祈り、淡い光が骨を包み、やがて風に溶けるように消えていく。
その様子を見ながら、ユイは小さく呟いた。
「……やっぱり、違いますね。感覚ですけど……二倍以上は効いてる気がします」
「倍か。そりゃあ、かなりの当たりだな」
オルハは軽く肩をすくめるが、その目はしっかりと結果を見ていた。
勇者たちの遺した装備。見た目の豪華さだけではない、はっきりとした性能差がそこにあった。
「じゃあ、ちょっと試させてくれ」
気まぐれに言いながら、オルハはユイに結界を張らせる。
ユイは少しだけ呆れた顔をしたが、すぐに表情を整えて結界を展開した。
検証は単純だ。殴る。
まずは杖なしの、普通の結界。
透明な膜のように空間へ張られたそれを見て、オルハは軽く拳を握る。呼吸をひとつ入れ、重心を落とし、そのまま最大の力で拳を叩き込む。
鈍い衝撃音が森に響く。
木々の葉が、ばさりと揺れた。
一発、二発、三発――五発目で、ようやく結界が砕けた。
空気が割れるような音と共に、結界の残滓が霧のように消える。
「……硬いな」
オルハは拳を見下ろし、素直にそう漏らす。
次に、ユイの最高傑作。
今度は最初から空気の密度が違った。薄い膜というより、そこだけ空間が厚くなったような感触がある。
同じように殴る。回数を重ねるたびに、衝撃が蓄積していく感覚。
十回、二十回、五十回。
ユイは途中から、ただじっと見ていた。
百回目で、ようやく崩壊した。
砕けた瞬間、張り詰めていた空気が一気に抜け、周囲の葉がざわりと鳴る。
「これで普通じゃないのは分かった」
オルハは拳を開いて閉じ、微かな痺れを確かめる。
そして、杖あり。
ユイが長い杖を持ち、改めて結界を組み直す。さきほどよりも術式の組み上がりが滑らかで、張られるまでの時間もわずかに短かった。
普通の結界は十五回で破壊。
最高傑作の結界は――三百回殴っても壊れず、五百回目でようやく砕けた。
さすがのオルハも途中で少しだけ呆れた顔になり、ユイの方は途中から明らかに機嫌が良くなっていた。
拳を軽く振りながら、オルハは息を吐く。
「……まあ、強化されてるのは間違いないな。毎回同じ強度じゃない気もするが」
「ばらつきはありますね。でも、明らかに底上げされてます」
ユイも満足げに頷いた。
そのまま進む途中、湿地帯に差し掛かる。
ぬかるむ地面の上を、ぷるぷると揺れる存在――スライムがいた。
木漏れ日の中で、半透明の体が鈍く揺れている。絵本の中に出てきそうな、いかにも定番の魔物だった。
「これは定番でしょう」
ユイが楽しげに言いながら手を伸ばそうとする。
「ちょっと待て」
オルハが即座に止めた。
その反応の速さに、ユイは不満そうに手を止める。
「なんでスライムを使役したいんだ?」
ユイは真面目な顔で指を折りながら答える。
「一つ、可愛いから。二つ、お皿とか綺麗にしてくれそうです。三つ、ぴょんぴょん跳ねて付いてきます。四つ、ゴミを食べてくれます。五つ、ひんやりしてて夏は涼しいです」
間髪入れず、オルハが返す。
「一つ、可愛い……まあ分かるが、たぶん感情とかないぞ。置物みたいなもんじゃないか」
ユイの手がぴたりと止まる。
「二つ、皿を綺麗に……ミクロ単位で汚れ落とせると思うか?」
「う……」
「三つ、付いてくる……あれ、ゆっくり進んでるだけだろ。待つのか?」
「……たしかに」
「四つ、ゴミ……その体でハンバーガー一個食ったら終わりじゃないか?」
「……」
「五つ、夏はいいが冬どうする」
言葉を重ねるごとに、ユイの表情がしぼんでいく。
しばらくスライムをじっと見つめたあと、持ってきたパンを差し出す。
スライムはゆっくりとそれを取り込み、じわじわと溶かしていく。
――遅い。
あまりにも遅い。
パンの端がようやく体内に消えるまでに、思っていたよりずっと時間がかかった。
観察していたユイは、やがて小さく息を吐いた。
「……やめます」
「だろうな」
「行きましょう、オルハさん」
気持ちを切り替えるように、ユイは先へ進んだ。
そこから三時間。
狩りをしながら森を進み、少し開けた場所に出る。
木々が円を描くように途切れ、空だけがぽっかりと見えている。地面は比較的平らで、周囲の見通しも悪くない。
「ここにしましょう」
ユイが中央にテーブルと椅子を出現させる。
当たり前のように座り、食事とお菓子、飲み物を並べ、本を開く。
その周囲には、当然のように結界が張られていた。
本人はくつろいでいるように見えて、周囲の術式は一切緩んでいない。護符の配置も無駄がなく、空気の流れすら制御しているようだった。
オルハはユイから二キロほど離れた位置へ移動する。
外周を回りながら、狩りと採取を開始する。
――今回の狙いは、シャドウ・レーカーの捕獲。
ユイを囮にする。
この場所も、ユイの占いで選ばれた場所だ。
もしシャドウ・レーカーがユイを襲えば、その瞬間に結界で閉じ込める。酸素を抜き、失神させ、拘束し――契約へ。
もし結界内から影に逃げられるなら、その時は諦めるしかない。
だが、ユイの周囲には最小構成でありながら最高傑作の結界が張られ、護符も設置されている。
簡単に破られることはない。
オルハは千里眼で常に監視を続けていた。
他の魔物が来れば、ユイが結界で酸素だけを抜き、静かに無力化する。
オルハも外周で魔物を減らし、環境を整えていく。
待つ時間は長かった。
昼が過ぎ、光の角度が変わり、森の色が少しずつ沈んでいく。ユイは本を読み、お菓子をつまみ、ときどき飲み物に口をつける。そのすべてが余裕のある日常のようでいて、実際には完璧な待ち伏せだった。
やがて――夕方。
鳥の鳴き声が消えた。
森が、静まり返る。
「……来ます」
ユイが本を閉じ、静かに立ち上がる。
その瞬間。
背後の地面――影が、揺れた。
次の瞬間、黒い影が跳ね上がる。
黄金の瞳が、ユイを捉えた。
黒豹のような体躯。しなやかで無駄のない筋肉。気配の消し方も、飛び出す瞬間の速さも、今までの魔物とは明らかに違う。
だが――
「捕まえました」
ユイの声と同時に、結界が閉じる。
シャドウ・レーカーはあっけなく閉じ込められ、そのまま酸素を奪われ、動きを止めた。
さらに結界で四肢を封じる。
やがて完全に失神したのを確認し、ユイは静かに息を吐いた。
「……あとは、目が覚めるのを待つだけですね」
オルハも近づいて、その黒い体を見下ろす。
近くで見ると、その毛並みは夜の影そのもののように艶を失っておらず、黄金の瞳は閉じていてもなお異質な存在感を放っていた。
――それから、一週間。
まだ使役できていない。
強制的に使役する方法もあるらしいが、ユイはそれを選ばなかった。
相手が承諾するまで待つ。
今、シャドウ・レーカーは結界の中で自由に過ごしている。
餌と水はユイが与えている。
最初の数日は、ユイもオルハも、数日あればどうにかなるかもしれないと思っていた。
だが、一ヶ月が過ぎても、契約は成立しない。
シャドウ・レーカーは逃げようとはしない。かといって、近づこうともしない。ただ一定の距離を保ち、黄金の瞳で静かにユイを見ているだけだった。
オルハは空間移動で城壁都市へ戻り、寝て、食料を運ぶ。
だがユイは、この森でテント生活を続けていた。
朝起きて、結界を確認し、餌を用意し、水を替え、少し話しかける。そんな日々が淡々と積み重なっていく。
三ヶ月。
半年。
時間は静かに流れ続ける。
季節の匂いがわずかに変わる。森の湿り気も、風の冷たさも、少しずつ違っていく。それでもユイは動かなかった。
そして――ある朝。
いつものように、朝食を持って空間移動したオルハの視界に、笑顔のユイが飛び込んできた。
「オルハさん!」
頬を緩め、嬉しさを隠しきれない声。
「やっと契約できました!」
その隣には、静かに佇む黒い影。
黄金の瞳が、穏やかにこちらを見ていた。
以前のような鋭い殺気はない。ただ静かに、しかし確かに、そこにいた。
オルハは少しだけ目を細める。
「……おめでとう」
その言葉には、驚きよりも先に安堵が滲んでいた。
そして、その魔物に視線を向ける。
「よろしくな」
シャドウ・レーカーは、わずかに目を細めたように見えた。
その仕草は本当に一瞬で、見間違いかもしれないほど小さな変化だった。
だが、それでも十分だった。
敵意はない。
少なくとも、牙を向けてくる存在ではなくなった――それだけで、状況は大きく変わっている。
ユイは嬉しそうにその様子を見ている。半年以上続いた粘りが、ようやく形になったのだ。
その横顔には、安堵と達成感がはっきりと浮かんでいた。
森の空気は、変わらず湿っていて静かだった。
それでも、その日だけは、そこに漂う気配が少しだけ優しくなったように感じられた。
少しの間、誰も何も言わなかった。
風が葉を揺らす音だけが、静かに通り抜けていく。
「……なあ、ひとつ聞いていいか」
オルハは視線をシャドウ・レーカーから外さずに言う。
「意識のない時に強制で契約するのと、監禁して仕方なしに契約するのと……何が違うんだ?」
その問いは、軽い興味というよりも、どこか確かめるような響きを持っていた。
ユイは一瞬だけ言葉を止める。
そして、小さく息を吐いた。
「オルハさん、それ……全然違いますよ」
声の調子が、少しだけ変わる。
「確かに、監禁している時点で、無理やりとか脅迫に近いように見えるかもしれません」
少しだけ視線を落とし、それからゆっくりと上げる。
「でも、それでも最終的に決めるのは相手の意思です」
はっきりと言い切る。
「自分の意思で契約をしたのです。私の支配力が100%で契約できます」
「術師の力量でも違いますが、意識のない時に契約した場合は……70%とか50%の支配力なんですよ」
静かに続ける。
「だから――」
オルハの方をまっすぐ見る。
「私のために死ねるか、死ねないかの違いになります」
その言葉は、淡々としているのに重かった。
オルハは少しだけ眉を動かす。
「……なるほどな」
短く返すが、その声には納得が滲んでいた。
視線を横に流し、シャドウ・レーカーを見る。
静かにそこにいる影は、もはや“捕まえた魔物”には見えない。
「意思、か……」
小さく呟く。
ユイは軽く肩をすくめる。
「この子の為ではなく、完全に私のためですね」
どこかあっさりと、しかし迷いなく言い切る。
「時間はかかりますけど、その分ちゃんと味方になりますよ」
そう言って、隣に立つ影を見上げた。
黒い体躯は動かない。
だが、逃げる気配も、敵意もない。
それだけで十分だった。




