黒星と最初の一歩
冒険者ギルドの窓口は、朝の早い時間から人の流れが絶えなかった。
まだ日が高くなりきる前だというのに、すでに空気は熱を帯びている。
人の体温、革鎧の匂い、乾いた紙の匂い、それらが混ざり合い、空間そのものがざわついているようだった。
依頼書を手に足早に通り過ぎる者、受付に身を乗り出して交渉する者、壁に貼り出されたクエストボードを眺めながら腕を組む者。
誰もが何かを急いでいる。だが、その焦りの中にも、どこか日常として染みついた落ち着きがあった。
雑多な喧騒と、剣や革鎧が擦れ合う音と、インクと羊皮紙の乾いた匂いが、ひとつの空間に混ざり合っている。
オルハとユイは、その中の一角にある手続き窓口の前に並んでいた。
ランクアップの申請。
そのための書類を前に、二人は揃って受付職員の説明に耳を傾けていた。
窓口に座るのは、三十代ほどの落ち着いた女性職員だった。
整えられた髪、無駄のない動き。書類仕事に慣れた手つきで羊皮紙を整えながら、淀みのない口調で説明を続ける。
「ランクは三段階に分かれております」
彼女はカウンターの上に、三枚の見本のカードを並べて置いた。
それぞれ色が異なる。金、銀、そして赤。
「一番上が〈金〉。こちらは、通常の冒険者とはまず次元が違います。受けられる仕事の難易度も、求められる実力も。ご縁があるとすれば、遠い将来のお話になるかと」
「〈銀〉は、各分野の玄人が集まるランクです。専門的な知識や技術を持つ方々が受ける、難易度の高い依頼が中心となります」
「そして〈赤〉」
彼女は指先で軽くカードを示す。
「こちらは、一般の方から商人、貴族まで 依頼者の幅が広く、難易度も低めのものから高めのものまで様々です。このランクから受けられる仕事が増える一方で、責任も生まれます」
オルハは小さく頷きながら、説明を頭の中に整理していた。
隣に立つユイは、静かに聞いている。その横顔は穏やかだったが、目だけは職員の手元にあるカードをじっと追っていた。
「赤ランクからは、〈保証金〉〈保証人〉〈ペナルティ〉の三つが付いてきます」
職員の声が、わずかに引き締まった。
ここからが本題だと分かる変化だった。
「保証金の没収は、基本が五十パーセント。明白な職務怠慢と判断された場合は、全額百パーセントの没収となります。ただし、過去の貢献や依頼側の情報不備、あるいは不運な事故と認められた場合は、ギルドの裁量で一割から三割程度まで減額されることもあります」
淡々としているが、逃げ道は少ない説明だった。
オルハはその言葉を聞きながら、金額ではなく「判断基準」に意識を向けていた。
つまり、完全な結果主義ではない だが、甘くもない。
「そしてもうひとつ」
彼女は資料を一枚、二人の前に滑らせる。
「依頼を失敗するたびに、ギルドカードに〈黒星〉が記録されます。これが、冒険者にとって最も重要な累積記録です」
黒星。
その言葉が出た瞬間、空気がわずかに重くなる。
黒星。
その説明が始まると、職員の口調はより丁寧になった。聞き流していい話ではない、という配慮が滲んでいた。
「小黒星は、一回の失敗につき一個。これが三個累積すると、自動的に〈大黒星〉へと変換されます。大黒星は、一生消えません」
その言葉が、静かに空気に落ちた。
一生、消えない。
オルハは視線をカードの上に落としたまま、その重さを静かに受け止めていた。
消えないという事実は、単なる罰ではなく「履歴」だ。
つまり、この世界は記録で人を測る。
「大黒星が付いた瞬間、そのランクおよびそれ以上のランクでの受注が、三ヶ月間拒否されます。ただし、一つ下のランク以下の仕事は引き続き受けることができます たとえば銀ランクで大黒星が付いた場合、銀と金は三ヶ月間受けられませんが、赤や常時クエストは可能です」
職員は淡々と、しかし確実に言葉を重ねていく。
「これは制裁というより、適格性を再確認するための冷却期間です。その難易度の仕事を続けるだけの状態にあるか それを問い直す時間、とお考えください」
ユイは小さく息をついた。
その呼吸には、納得とわずかな警戒が混ざっていた。
「さらに、同一ランクにおいて三回連続で失敗した場合」
「加えて、ランクを問わず、受注した依頼において三回連続で失敗した場合も、別途ペナルティが適用されます」
職員の声が、一段落ちた。
「カード全体が〈漆黒〉に染まります。機能が停止し、一年間、現ランクおよびそれ以上のすべての受注が拒否されます。加えて、強制的に一つ下のランクへの降格となります。赤の場合は、常時ランクへ」
その説明は、静かだが重かった。
「一年間」
オルハは口の中で繰り返した。
声には出さなかったが、その長さは十分に現実的な重みを持っていた。
「短期間での連続失敗は、心身の異常のあらわれとみなされます。長期の療養、あるいは再修行 それを強制するための措置です」
説明が一区切りつくと、職員はふうと息をついて、別の資料に手を伸ばした。
「最後に、依頼者についてです。依頼を出す側もギルドの会員制であり、魂のカードを所持しております。そのカードには、過去の依頼履歴、提示した情報の正確性、冒険者からの評価 これらが蓄積されていきます」
「依頼を受ける前に、依頼者のカードの色や評価を確認することができます。情報の信憑性やリスクを、事前に判断するためです」
説明が終わった。
窓口の向こうで、職員は静かに二人を見た。
「ご質問はありますか」という目だった。
オルハはしばらく考えてから、口を開いた。
「一つ確認させてください」
「はい、どうぞ」
「累積で三回失敗したとき 依頼の報告をしないままランクを上げる、というのはできるんでしょうか」
職員は一瞬、目を細めた。
悪意を疑ったわけではなく、質問の意図を確認するような間だった。
「依頼が完了していない状態では、ランクの変更はできない仕様になっております」
答えは明確だった。
「……なるほど、そうですよね」
オルハは静かに頷く。
「ありがとうございます」
抜け道を探すような質問ではなかった。
どこまでシステムが閉じているのか、それを確かめただけだった。
職員は小さく微笑んだ。
「ご理解いただけたようで」
手続きは滞りなく終わった。
ギルドを出ると、城壁都市の朝の空気が二人を包んだ。
屋外の空気は軽く、先ほどまでの密度が嘘のようだった。
それでも、背中には確かな現実が残っている。
依頼書は、それぞれの手の中にある。
「行きましょうか」
オルハが言う。
「はい」
ユイが答える。
それだけで十分だった。




