第19話 理想と現実(別視点)
(……納得いかないわ!! 何でこの私が、下働きをしなければならないのよ!!)
クルシュは怒りを心の中に押しとどめながら、廊下の窓に磨きの魔法をかけていた。手には、薄汚れた雑巾が握られている。
装飾品が一切ない生地の薄いワンピース。そして頭には、髪の毛が落ちないようにと同じ生地で作られた丸い帽子が乗っている。エルタナ家では、下女が付けるような物だ。
朝は新入りだからと一番に起きねばならず、夜まで働かされるため、肌から艶は失せ、目の下には酷いクマができている。
化粧は許されていないため、
「あら、あなた。初日はあんなに派手な顔をしていたのに、本当はそんなに地味な顔だったのね?」
と同じ部屋の神殿見習いに笑われたときは、顔から火が出るかと思った。
エルタナ家で蝶よ花よと大切にされてきた頃の面影はどこにもなかった。
理想とあまりにもかけ離れた現実だった。
実力が認められればこの部屋を脱出し、もっと良い待遇を受けられると聞くが――
(私は……ヴェルド様から召し上げられたのよ!? それも、未来の神子様の世話係として! なのにあの女……)
奥歯を噛みしめながら、磨きの魔法をかけようとかざしていた手を下ろす。その手が怒りで強く握りしめられ、小刻みに震えている。
神殿に辿り着いたクルシュだったが、荘厳な正面入り口からではなく、粗末な裏口から入るように命じられた。
たくさんの神官たちに歓迎されながら迎えられると思っていたため、それだけでも屈辱的だったが、さらにクルシュを迎えたのは、ヴェルドではなく、神官見習いたちを統括する教導神官――ラウディアだった。
茶色の髪を上でまとめた中年女性で、小さなめがねをかけているが、紫色の瞳から発せられる眼光が鋭い。
初対面のクルシュを容赦なく値踏みするような視線を向けると、小さく鼻で笑ったのだ。
今までの人生で、クルシュにそんな舐めた態度を取る人間などいなかった。召喚状を突き出しながら、クルシュはラウディアに噛みついた。
「な、何笑っているのよ! 言っておくけど私は、神官長補佐……つまりあんたよりも立場が上であるヴェルド様直々に、召喚されたの! この類い希なる魔法の才能を見いだされてね!」
「凄いわね」
「そうよ! 私は特別なの!! どうせ大した魔法も使えない、あなたとは違ってね!!」
相手が素直に認めたと受け取ったクルシュは、胸を張る。
しかしラウディアの表情がみるみる呆れへと代わり、嘲笑うように口元が歪む。
「今まで自分の立場を弁えない小娘たちを見てきたけれど、ここまでのお馬鹿さんはあなたが初めてよ。ほんっと凄いわ」
「!!」
クルシュは言葉を失った。怒りで頭の中が真っ白になる。そんな中、ラウディアの辛辣な言葉だけが、耳の奥に容赦なく突き刺さる。
「一つ目。召喚状はヴェルド様の名前で出されため、あなたが特別なわけではない。二つ目。世俗の地位など、神殿内では意味がない。三つ目……」
ラウディアは後ろを振り返り、汚れた廊下を優雅な所作で指し示した。
「実力は結果で示すもの。そのおしゃべりなお口ではなく」
クルシュの顔が一瞬にして、真っ赤に染まった。歯を食いしばり、今にも相手に飛びかからんとしそうな勢いで、体勢が前のめりになる。
だがフッと笑うと、両腕を組み、ラウディアに言い放った。
「まあ良いわ。私は心が広いから、許してあげる。だけど……この件は、ヴェルド様に報告させてもらうわ! 未来の神子様の世話係として仰せつかった私を怒らせたこと、後悔するが良いわ!」
クルシュはラウディアの肩越しから廊下を見ると、全ての汚れがなくなり、輝く廊下を想像しながらパチンと指を鳴らした。
清めの魔法と磨きの魔法を同時に使った――つもりだった。
しかし実際に綺麗になったのは、一番手前の窓一枚だけだった。
「……えっ?」
呆気にとられ、情けない声がクルシュの口から洩れる。
(いつもならばこの程度の範囲、一瞬で綺麗にできるというのに……)
もちろん伯爵令嬢たるクルシュが、その技でエルタナ家の浄化をすることはなかったが。
恐る恐るラウディアを見ると、彼女は凍てつくような面持ちでクルシュを見下ろし――いや、見下していた。
「一枚の窓しか磨けないとは……大した才能だこと」
この声色に、人間らしい温かさは感じられない。
完全に軽蔑のそれだった。
クルシュの背筋に寒気が走った。
「こっ、これは……何かの間違い……いえ! きっと今、結界が揺らいで……そうに決まっています!!」
「結界の揺らぎ……ね。これを見てもそう言えるのですか?」
ラウディアが振り返りもせず、右手を上に掲げると、次の瞬間、廊下全体が輝き、埃や曇り一つない美しい場へと変貌を遂げた。
結界が正常に機能している証拠を突きつけられ、クルシュは言葉を失った。ただ呆然と、美しく艶を放つ廊下を見つめる。
そんな彼女の耳に、淡々としたラウディアの言葉が流れていく。
「自身の実力のなさを、我ら神殿が崇める創造神がもたらした神聖なる結界のせいにするとは、身の程を弁えなさい。初めてだから見逃してあげますが、その小さなおつむで覚えておきなさい。創造神や結界への冒涜は、罪であることを」
罪という単語を聞き、クルシュの全身から血の気が引いた。
絶大なる権力を持つ神殿で罪人となると、社会的に死ぬことと同じだからだ。
緊張のため、瞬きが多くなり、自然と呼吸も浅くなる。
そんなクルシュを見たラウディアは、憐れみが混ざった薄ら笑いを浮かべる。
「あなたの部屋は、この先にある神官見習いたちの共同部屋です」
「きょ、共同部屋!?」
「ええ。あなたを含め十人程いるわ。だからあなたの後ろにある大量の荷物は、今すぐ家に持ち帰らせなさい」
めまいがした。
ラウディアはクルシュの横をすり抜け、立ち去ろうとした。
だがすれ違う瞬間、嘲弄を帯びた声が、クルシュの耳に吹き込まれた。
「未来の神子様の世話係であるあなたの才能については、しっかりヴェルド様に報告いたしますので」
痛烈すぎる皮肉だった。
今まで自分中心で回っていた世界の摂理が、根底から覆った瞬間だった。
ラウディアが立ち去った後、クルシュは膝から崩れ落ちた。
(どう……して? どうして魔法が今までのように使えないの? この天才の私が……創造神様に愛されていると言われた私、が……エルタナ家にいたときは、こんなことなかったのに……)
疑問が頭の中を回り続ける。
そんな中、エルタナ家を出る際、噴水に魔法が使えなかったことが引っかかった。
「まさか……あの時から? だとしたら、私の身に一体何があったというの? 変化があったとしたら……」
そう呟いた瞬間、ミーティアの顔が過った。
同じ血を引きながらも、光魔法しか使えない、醜い痣もちの姉の顔が――
しかし、
(……関係ないわ。ただ……ちょっと調子が悪かっただけ。それだけなんだから!)
そう言い訳すると、クルシュは奥歯を食いしばり、双眸を強く瞑った。
これから始まる過酷な生活から目を逸らすように。
意識が今に戻る。
あれから、必死になって自身の力を誇示しようとした。しかし未だに、魔法の力は戻らずにいる。
掃除を命じられれば、人一倍時間がかかる。
なのに高すぎるプライドのせいで周囲との衝突も多い。
「でも、ラウディア様の前で、窓一枚しか綺麗に出来なかった人にいわれてもねぇ」
と馬鹿にされたときは、取っ組み合いの喧嘩に発展したほどだ。
今では、完全に孤立している。
そのとき、
「110番、まだ清掃が終わらないのですか?」
憎き声――ラウディアの声が聞こえ、クルシュは勢いよく振り返った。
110番とは、クルシュのことだ。
神官見習いは番号で呼ばれ、名前で呼ばれるようになるには、神官という役職を得なければならない。
番号で呼ばれる度、まるで使い捨ての道具のように扱われてるようで、屈辱的だった。
相手を射殺さんばかりに睨み付け、低い声で問う。
「私の名前は、110番なんかじゃないって何度言ったら分かるのよっ!!」
「まあ……みすぼらしい姿で雑巾を握っていながら、口だけは達者なのね、110番」
ラウディアが薄ら笑いを浮かべて口にした嫌みに、クルシュの顔が真っ赤になった。自分が一番気にしていることを、的確に攻撃してきたからだ。
何もいえず、こぶしを震わせているクルシュに、ラウディアはめがねの奥の瞳をスッと細めた。
「110番、神官長補佐ヴェルド様がお呼びよ」
次の瞬間、クルシュの心が歓喜で沸いた。
(そうよ! 私には神子様を取り返す、という私にしか成し遂げられない重要なお役目があるの! 今に見てなさい!!)
今まで同僚やラウディアにされてきた屈辱的な言葉や行動が、もの凄いスピードで流れて消える。
だがそれですら少し霞みそうになるほどの憎しみが湧き上がるのは、神子の世話係として任命された、役立たずの姉ミーティアの顔。
アステリオの命令を受け入れた時の発言、動き全てが、クルシュの存在を見下しているように思えた。
(……あの役立たずなお姉様に、目に物を見せてやるわ!)
カサカサになった口角を上げながら、クルシュは手に持っていた雑巾を床に叩きつけた。
(何を利用してでも!)




