33.プロよりも先に行くために
「和奏にも同じ話をするのか?」
「そのつもりだけど、和奏には別に聞きたいことがあるから」
「別の事?」
「うん、女の子がプロ棋士を目指すことについて聞きたくて」
僕はあえて美鈴の件を省いてみる。
「あぁ、結構言われてるよな。確か女流棋士はいても女性のプロ棋士はいないんだっけ?」
僕は頷いて肯定する。
「ピアノも男女の区別はないけど、将棋ともまた違うしな、どう答えるんだろ?」
「康誠ならどう答える?」
「……言い訳にするなよ、かな。本気で打ち込んで、些細な思いつきの差が勝敗を分ける瞬間はやってくる。その時絶対に自分が男だったらって思う。どんな人間でも思わずにいられない瞬間はある。その時に言い訳にするなよって言うかな。不利なのは理解しながら自分で決めた道だから」
これはサッカーにも言えることだ、男女の区別があるから同じではないが日本人のフィジカルと外国人の恵まれたフィジカルの差は存在する。
これを康誠も自覚しているからの言葉だろう。
「僕も似たような感じだね」
「だと思った」
康誠はそう言って笑うと真剣な表情になる。
「俺も自分と向き合わないとな」
「何か思うことでもあるの?」
「左のことだよ。たぶんプロになるだけなら磨く必要はない。でも最強になる為には必要だ」
「僕達とやる時は左でやってるけど、それとは別にってことだよね」
「そうだ、ユースの全ての練習で左を使う」
康誠は本気の表情でそう口にする。
僕の言葉では揺るがないことを理解させられたが、あえて聞くことにする。
「大丈夫なの?その、評価というか、多分普段の康誠とは別人になるでしょ?」
「だな、試合に出れるかすら怪しいし、最悪Bまで落ちるかもな」
Bと言うのはBチーム、つまり一個下のチームということ。
Aチームの方が指導者も練習相手の質が高いだろう。
それを手放す覚悟を持っているということだ。
「プロになるのはゴールじゃない。今の環境に甘えたら俺は腐っていく。そしてあの時こうしてたらって後悔するんだ」
康誠が言っているのは左足をもっと極めていたら、ということだろう。
「だって俺はプロには勝てないと思ったから。勝つという選択肢がなかった」
康誠はそう言うと目を細めて、睨むように僕を見る。
「俺は楓真に負けたって思った。意識の差を感じた、ここままだと置いていかれるって」
大袈裟だと言うのは野暮だろう。
そんな事を口にしたくないほど気分が高揚している。
「負けないからな」
「僕の方こそ、負けないから」
僕がそう言って応えると康誠は満足したように頷く。
「じゃあ、また明日」
「うん、また明日」
お互いにそう言って反対方向に歩き始める。
朝とは打って変わって僕の足取りは軽くなった。
康誠に下に見られていたわけではないし、勝手に僕が自分の方が下と思っていたのだろう。
僕は今日初めて認められたと思った。
そのことが嬉しくて早く将棋が指したいと、足早に多目的教室に向かう。
勢いよく多目的教室の中入ると、楽譜を手に持って読んでいる和奏がいた。
「ごめん、遅れた」
僕が声をかけると和奏はこっちを向いて優しく笑う。
「おはよう楓真」
「……おはよう和奏」
てっきり軽口を言われるかと思ったが、和奏は穏やかな表情と言動だった。
特におかしい行動に見えず、むしろ普通で妥当のように思える。
だが僕には違和感しか感じなかった。
「それは?」
「これは『ショパン:エチュードOp10-1』と『ショパン:エチュードOP10-2』の楽譜」
「難しいの?」
「ええ、ピティナで演奏したどれよりもね」
僕はピアノを弾いているわけではないので細かくは分からないが、E級の中だったら最上位の難易度で、一部はF級でも難しいものがあると、記事に書いてあった。
ピティナで金賞を取った後も足を止めることなく先に進むのか。
分かっていたつもりでも、やっぱり和奏は凄い。
改めて僕には不安を感じる余裕なんてなく、がむしゃらに前に進むしかないのだと理解させられる。
和奏が特に注視していた『ショパン:エチュードOp10-1』は、難易度で言えば木枯らしよりも難しく、特に木枯らしは弾けてもOP10-1は弾けない人がいるとよく言われている。
ただOP10-1に関しては手の大きさによっても難易度が変化し、10度の範囲を押さないといけない。
10度を掴むとよく呼ばれるのだが、手と指を開いてドから一オクターブ上のミの音まで届かないといけない。
距離で言えば19cm程、小学生四年生の和奏には少し早いと言えるだろう。
「それより、楓真は表情が楽しそうね。いいことでもあったの?」
「康誠に認められた気がしてね」
「どういうこと?」
僕は水卜名人との対局も踏まえて説明する。
その話を和奏は捉えようのない表情で聞いていた。
「なるほど、それにしても楓真も言うようになったね」
「和奏の影響が強いけどね」
僕がそう言うと和奏はわざとらしく首をかしげる。
「それより康誠が口にするのは珍しいわね。溜め込むタイプなのに」
確かに僕にもそんなイメージがある。
「言葉にすることが必ずいいとは限らないけど、僕には康誠がもう折れることはないって思ったね」
僕が感じたことをそのまま伝えると、和奏は楽しそうに笑う。
「ふふ、分かってたつもりだったけど楓真も康誠も成長してる。怖いぐらいにね」
和奏はそう言うと顎を引いて僕を見る。
その目は康誠と同じで鋭く睨んでいるようなものだった。
「いいわね、私もうかうかしてられない」
和奏はそう言うと、音楽室に駆け出す。
「置いてくわよ楓真!」
「すぐ行くよ」
僕はそう言って普段の調子に戻った和奏の後を追う。
遅れて音楽室に入ると、和奏がランドセルから別の楽譜を取り出していた。
「ショパンの曲を弾くんじゃないんだ」
「Op10-2は弾ける。OP10-1は今できる演奏は完成してる」
Op10-2に関して言えば中指から小指までメインとなっていて独立とコントロールが求められる。
繊細な動きがしにくい三本指に負担が集中していて、あまり使わない技能で苦手とする人は多く、後回しにする傾向がある。
なのに和奏は弾けると口にした。
「正直に言うわ。私は逃げてたの、私も二人に負けない為に挑むことにする」
和奏がそう言って見せたのは『ラ・カンパネラ』の楽譜だった。
史上最高のピアニストの一人と称されるフランツ・リストによって作られた楽曲の一つ。
ラ・カンパネラの他に作られたものとして超絶技巧練習曲というものがあり、名前の通り途方もなく難しい。
それと比較したらラ・カンパネラはましな方だが、これまで和奏が弾いていた曲とは顔付きが変わってくる。
「和奏からそんなこと聞いたの初めてかも」
「今まで言ってなかったもの。弱音を吐く前になんとかなってたから。でもラ・カンパネラだけは別ね、停滞しているわ」
停滞している。この言葉の重みを僕は理解しているのに、和奏の口から出てきたことが嬉しいと思ってしまう。
ピアノでも人間らしいところがあるのだと。
「……なんで嬉しそうなの?」
どうやら表情に出ていたらしく、ジッとした目を向けられる。
「和奏も人間なんだなって」
「それはそうよ、私はピアノの神様なわけじゃないし」
和奏は呆れたようにそう口にする。
「そういうことだから、あまり奇麗な音を聞かせられないけど勘弁してね」
「うん、楽しみにしてる」
僕がそう答えると和奏は頬を膨らませてムッとした表情になったが、すぐに笑う。
「言ってなさい。すぐに上手くなるから」
和奏は晴れ晴れとした表情でそう言うとピアノに向かい合う。
ラ・カンパネラの難しさは大跳躍という言葉に尽きるだろう。
右手が低音から高音まで瞬時に切り替え、親指と薬指と小指で鍵盤を押す。
ラ・カンパネラは表現力の美しさではなく、技術力で魅せるタイプの楽曲だ。
誤魔化しがきかず、音が遅れたり重なったりしたら全部が崩壊する。
速いテンポがずっと続き、視認してから手を置くのじゃ遅い。
ラ・カンパネラはイタリア語で小さな鐘を意味し、軽快さと華やかさがいる。
だからラ・カンパネラを演奏する前に手を開きながら弾くOp10-1と薬指と小指の繊細さが必要なOp10-2を練習する。
この二人つがある程度弾けるならラ・カンパネラに挑戦できると言っていい。
ただ似ている技術があるというだけで別物だ。
特に大跳躍はフォーカスして練習しないと習得ができない。
「さて、やりますか」
和奏はそう呟くとピアノを半分開いてラ・カンパネラを弾き始める。
僕が今まで聞いてきた演奏とは異なり、未完成で不協和音だ。
音が重なったり押し間違えたり、ピアノのミスらしいミスが多発する。
それでも和奏は楽しそうにピアノを弾いていた。




