32.漠然とした不安
「今日は本当にありがとう楓真君」
「こちらこそ、ありがとうございました。貴重な経験ができました」
水卜名人との対局を終え、少し話した後解散となる。
「今度はもっと強くなっておくから」
「僕も強くなるよ」
「む、ならもっと強くなるわ」
「お互い頑張らないとね」
僕はそう言って拳を差し出すと、美鈴は拳を合わせる。
一種の誓いを終えると、僕は背中を向ける。
「ねえ楓真、お父さんとの対局は気にしちゃダメよ。歴も経験も違うんだから」
僕の様子を見て美鈴は励ましの言葉を送ってくれる。
それは正論で改めて理解するが、ショックは抜けない。
「……そうだね。ありがとう美鈴」
僕はお礼を言って道場を出る。
「ショックかい?」
「おこがましいですが、そうですね」
僕がそう言うと師匠は苦笑いを浮かべる。
「すまないね、自信を無くさせるつもりはなかったんだ。まさか現名人でありながら、本気で指すとは思わず」
師匠が言うように水卜名人はかなり本気で指していた。
正直言ってなんで負けたか分からないでいる。
もちろん実力差によるものは明確だが、その差が大きすぎる。
プロ同士の棋譜を見れば、なんとなく意図が見えるが実際に対局すると何もわからなかった。
改めて今まで見たことのあるプロ同士の棋譜を思い返す。
何十手先の展開を見切り、後から指した意図が分かることが多い。
これが当たり前で、全体条件なのだ。
とてもじゃないが、今の僕には無理だ。
それにこの先だってーー
「大丈夫さ、少なくとも楓真は同じ年の私や桜生より強いよ。それに棋士として一番成長するのは奨励会だ。まだスタートラインに立っただけだってことを忘れちゃダメだよ」
師匠は僕を元気づけるようにそう言う。
言う通りだと信じたいが、漠然と不安が募るのが分かる。
本当に二人のような次元に達することは出来るのだろうか?
「私が思うに棋士として強くなるタイミングは二つあると思っている。一つは奨励会に入会してから一級ぐらいまでの期間、そして二つめは三段リーグの二つ。楓真は成長期に入ったばかりだと思ってくれ」
「そうなら、いいんですけど……」
師匠の経験からくる言葉を疑うわけではないが、それでも不安は拭えない。
「それにいい経験になるさ、ここで切り替えて例会で勝てれば、それだけ棋士として成熟したことになる」
「今日のことは引きずりません。絶対」
「それを期待してるよ」
今回は慢心でも、別の手筋を探しているわけではない。
純粋な力の差を前にした無力感だ。
例会の対局ではそう簡単に味わえるものではない。
だからだろうか、漠然としたもので拭い方がわからない。
これは例会でノイズになったりはしない、ただそれ以外の日常に付き纏う類のものだ。
「まあ、目指すものの大きさが見えてるのは悪くない」
師匠は僕に聞こえない声量でそう呟く。
それから、例会についての説明を聞きながら家に帰った。
「ただいまー」
「おかえり楓真、あら暗い顔だけど、何かあった?」
「まあ、少しね」
「大丈夫なの?」
「大丈夫かはこれから次第かな」
僕がそう答えると母さんは首を傾げたが、それ以上聞いてくることはなかった。
特別に気分が落ち込んでいるわけでもないし、笑えないわけではないことを理解したからだろう。
それから気分は落ち込んだままだった。
ベットに入って何も考えられないのは初めてだった。
いつ寝たのか不明で、まるで今日が続いているような感覚のまま朝を迎える。
寝た気はしないのに、身体は万全で頭と身体が乖離している。
それなのに日常は進んでいき、学校に着く。
「おはよう楓真、ギリギリだな」
「おはよう康誠、ゆっくりしてたらギリギリになっちゃって」
「……元気ないけど、何かあったか?」
康誠は挨拶を終えて、すぐにそう聞く。
それだけ僕の顔色と表情が暗いということだ。
「ねえ、康誠はプロの人と対戦したことある?」
「上部組織に混ざる形ならあるが、どうした?」
「通用した?それとも何もできなかった?」
我ながらストレートに聞きすぎだが、それだけ余裕がなかった。
そして康誠は僕の余裕の無さと質問の意図を理解したようだった。
「全く通用しないわけじゃなかったな。試合に参加することは出来る。ただやっぱり技術も経験も視野も違うし、フィジカルだけでは片付かない壁があったぞ」
「凄いな。プロの試合の内容を理解してプレーできるってことでしょ?」
「まあ、そうだな。でも下部組織だからな、上部で求められるものを叩き込まれてる。そういう意味で言えば理解できて当然というか、そこら辺は将棋とピアノとの違いだと思うぞ」
確かにサッカーのように組織力を求められる種目だからこそ通用する部分はあるだろう。
でもそれは康誠の技術があってこそ機能している。
僕との違いはそこだ。
「師匠と指した感じではないよな。俺でよかったら話を聞くぞ」
僕は康誠に促されて、昨日の水卜名人との対局について話す。
途中まで美鈴の盤面になるように誘われ、有利な盤面を分けもわからないままひっくり返されたことを説明する。
「なるほどな、現名人相手になれば、将棋で一番か二番目に強い人ってことだろ、貴重な経験だと思うが、まあキツイわな」
「差があるのは分かってたけど、ここまでとは思わなかった」
絶望感もあるが何より悔しかった。
自分の全てを懸けているもので、何もさせてもらえないことがこんなに無力で恥ずかしいなんて思わなかった。
「……俺は楓真が悔しがっていることを尊敬するけどな」
「悔しのは当然でしょ、僕の立場なら誰だってそうだと思うけど」
「そうか?だって相手はトッププロなんだぞ、いくらでも負ける言い訳はできるし、開き直りたくなるだろ。俺もプロに通用しない部分はフィジカル、筋肉痛、慣れてなくて緊張した。いくらでも逃げる言い訳が思いついた」
康誠はそう言って鋭い視線を向ける。
「楓真の相手は現名人、最強だ。懸けた時間も、背中に乗せた責任も、乗り越えてきた経験も、全てにおいて上回っている負けて、なお言い訳せずに自分の責任だと思うのか?」
「愚問でしょ、僕は誰にだって負けたくないし、負けたけどいい対局がしたいわけでもない。ただ勝ちたいんだ、その為には無いものねだりをしてる暇はない。自分と向き合って最短で成長するしかない」
「だな。でも俺は楓真は立派だと伝えておく。楓真が自分をどう思おうがな」
「康誠にそう言ってもらえると自分に自信がつくね」
「だろ?こんな時に建前を使うほど俺は冷めちゃいないからな」
康誠はそう言って僕の背中を強めに叩く。
ジンジンとした痛みが僕の感覚を呼び覚まして、地に足がつく。
「ありがとう、もう大丈夫」
「ならいいんだ。それに俺も発破をかけられたしな」
康誠がそう言うとチャイムが鳴って日常が始まる。
漠然とした不安が無くなったわけではないが、前に向くには十分な言葉を貰えた。




