31.父親として
「対局するにあたって、私に先手をくれないかい?絶対に不利にはさせないから」
「わ、分かりました」
水卜名人の言葉に動揺しつつ了承する。
こう言ってはなんだが、実力差から先手ぐらい譲ってくれてもよいのだが。
それに不利にしないという言葉も不穏だ。
「ちょっとお父さん、大人気がないって」
「大丈夫、楓真君が不利になることはない。むしろ私が不利になる」
この言葉に僕と美鈴は目を合わせる。
お互いな表情から、言っている意味が分からないのが分かる。
将棋は先手の方が絶対に有利だ、つまり手を抜くつもりなのだろうか?
ただ、僕が不満に思うことはない。
手を抜いた水卜名人の方が僕より遥かに強いだろう。
「水卜名人が先手で構いません。よろしくお願いします」
「ありがとう楓真君。よろしくお願いします」
お互いに対局前の挨拶を終えた後、僕は対局時計を押す。
水卜名人の一手目は飛車先の歩兵を突く。
居飛車の宣言に僕は思考を開始する。
僕が最も自信があるのは居飛車で、角換わりなのだが、現名人相手にやるものだろうか?
居飛車だと本当に細かい差で勝敗が左右される。
つまり、実力がそのまま出ると言っても過言ではない。
それならいっそのこと振り飛車した方がいい気もする。
実力差はもちろん出るが、居飛車ほど顕著には出ない。
二局目の美鈴もこんな気持ちだったのだろう。
それなら怖がらない方がいいか。
僕はそう決めて飛車先の歩兵を突く。
その瞬間、水卜名人は少し笑うと飛車先の歩兵を伸ばす。
居飛車同士の対局が確定し、その後の数手で角換わりになる。
しばらく指し進めると僕が有利になる。
それが不気味で一手一手慎重に指し進める。
「……大人げない」
僕の後ろから師匠の呆れたような呟きが聞こえるが、理由は分からない。
今のところ僕が有利だし手を抜いているなら、大人げないという言葉は適切ではない。
気づいていないだけで僕が不利なのか?
そう思って読んでみるが、分からない。
不気味な感覚なまま指し続ける。
そして七手後に師匠の意図を理解させる一手が飛んでくる。
明らかに変な一手で、現名人が指すような手ではない。
僕の思考は一瞬止まるが、すぐに最善手を導き出す。
そしてこの先の盤面を描くと、違和感がある。
僕は普段、相手の最善手や指されたら嫌な手を考える。
だが、それをいったん止めて、別の手を探る。
決して最善の手でも、指されて嫌な手ではない。
思考をしていくと誘われていく感覚に襲われる。
プロという生き物は出来て当たり前のことなのだろうか?
「これ……」
対局が進んで美鈴も違和感に気づく。
42手目で美鈴との一局目と同じ盤面になる。
僕が美鈴の隙を突いて、勝利をほぼ確信した盤面だ。
「さて、ここからは現名人として、そして父として指そう」
水卜名人はそう言うと美鈴とは別の一手を指す。
桂馬を打って攻守の両方を睨む一手だ。
かなり嫌な一手だが、有利なことは変わらない。
冷静に対処して、有利を広げないといけない。
無理に攻める必要もないので駒に厚みを持たせていく。
すると水卜名人は反対側の歩兵を突き、角の機能を復活させようとする。
だいたい5手程指せば逆の攻め筋が機能し始める。
僕の駒は飛車の方に偏っているので、受けるとなると遅れる。
だが受けないわけにはいかないので、角を打って攻守に効かせる。
僕の読みではこれでどんな展開になっても有利に進める。
水卜名人を警戒するように見上げながら対局時計を押す。
僕は水卜名人の一挙手一投足を注意深く観察する。
右手がゆっくりと動き、駒を指す仕草は死神の鎌を振り下ろすように鋭利で、僕の首を両断した。




