34.まだ言葉にできない想い
「ふう、今日はここまでね。これ以上は故障しかねない」
和奏は約三十分間ラ・カンパネラを弾くとそう呟く。
Op10-1ほどではないがラ・カンパネラも手を開く必要があり、未成熟な状態で長時間弾くのは怪我のリスクも出てくる。
和奏が横を見て僕を見るが気づかない。
それだけ集中していて、こうなると目の前に座ろうと気づかないことを和奏は知っている。
和奏は少し迷った後、立ち上がってピアノを全開にする。
「少し無茶してみますか」
和奏はそう呟くと譜面台にOp10-2を置く。
手を開くのがしんどくなってきたが、繊細さは失っていない。
Op10-2の難しさは右手に詰まっている。
親指と人差し指で伴奏部分を演奏し、残りの三本指で半音階を滑らせる。
つまり右手で主旋律と副旋律を同時に演奏しないといけずに、右手を分業させないといけない。
この感覚が独特で人体の構造的に小指と薬指は独立しづらく、小指を曲げながら薬指を曲げるのが難しいだろう。
加えて薬指と小指には専用の筋が少なく、セットなことが多い。
机に手をついて薬指だけを上げてみると独立する難しさがわかるだろう。
ただ和奏にとって独立はそこまで難しいことではない。
幼少期からの訓練によって五本の指はそれぞれが意志を持ったように動く。
Op10-2のテンポはかなり速く、その中で右手の音をまとめるのが難しい。
本当の難しさはここに詰まっていて、解決法としてはテンポを落として猶予を作ること。
「でもそんな演奏じゃ私を見てくれないでしょう?」
和奏はそう言うと元のテンポでOp10-2を弾き始める。
Op10-2の唯一優しいところは曲が短いところだろう。
半音階が高速で流れていき、薬指から小指へ、中指から薬指へ、小指から薬指へとパターンのない変化が襲い掛かる。
それでも和奏は弾き切ってみせる。
停滞していた楽しくないピアノから、前に進むための楽しいピアノへの変化が和奏の手を動かしている。
そして自分の実力を魅せつけたいという思いがパフォーマンスをあげてくれる。
和奏自身で驚くほどに指が軽く、口角が無意識に上がる。
右手の指先で作り上げる滑らかで緊張感のある妖艶な音を奏でる。
和奏は見事にOp10-2を速いテンポで弾ききった。
「はぁ、はぁ、初めてこのテンポで弾けたわ」
和奏は今まではもう少し遅いテンポで弾いていただけに高揚する。
Op10-2を指定された速度で奇麗に弾ける人は小数だ。
和奏自身もここまで弾けるようになるのは、もっと先だと思っていた。
「今なら何でも弾けそうだけど、さすがに限界ね」
和奏はそう呟いて横を見る。
そこには盤を見つめる僕がいる。
「我ながらいい演奏だと思ったのだけどね」
和奏は思わずそう呟くと、ピアノを閉じて片付ける。
そして僕の前に座ると同じように盤を眺める。
和奏にとって僕が何を考えているか分からないし、気づいてくれない不満もあるが、この時間は嫌いじゃない。
誰かが頑張っているところは好きだからだ。
「……違うか」
和奏は建前であることを自覚する。
普段は見せない真剣な表情を見るのが好きなのだ。
いつか、その表情を自分に向けさせたいと思うから。
和奏がそんなことを思っていると、僕の将棋も区切りがつき、終わりを告げるように強めに駒を指す。
不意に破裂するような音が鳴って、和奏の身体が跳ねる。
「あ、ごめん和奏」
僕がそう言うと和奏は恥ずかしそうに首を背ける。
「……ごほん、区切りはついたの?」
気付かなかったことに対する文句の一つや二つ言ってくるかと思ったが、恥ずかしさが勝ったらしく、スルーされる。
そのまま帰ることになり、本題である美鈴の事を聞いてみる。
「ふむ、仮に私がプロ棋士を目指すとして、男には負けないって思っちゃうし、やっぱり意識する部分はあるわね。でも優遇されたいとは思わないし、女であることを言い訳には絶対にしない。むしろ力にしないとね」
「和奏らしいね」
「まあ美鈴ちゃんの気持ちも分からなくはないけどね。偶然に魅せられて本気でやりたい競技が女ってだけで不利だったら文句の一つや二つ言いたくなるでしょう?」
「まあ、確かに」
「納得は出来ないって顔だね。ただ勘違いして欲しくないのはプロを目指すと決めたなら全て受け入れないと、文句の一つも許されないと思うわ。命を懸ける対象のためなら誇り高くあらないといけない。だって目の前にいるのは同じく命を懸けている人なんだから、男なんだからって言葉はその人の努力を否定する言葉よ、だって私は楓真が男だから強いんじゃなくて、努力してるから強いって知ってるから」
和奏は僕を例にして考えを口にする。
男だから強いのではなく、努力しているから強い。当たり前の言葉なのに胸が熱くなる。
「楓真が言ったことは間違ってないと思う。中途半端にプロを目指すよりは厳しさを突きつけた方がいいし、覚悟がないと努力も中途半端になると思うから」
「そう言ってもらえると心強いね」
僕は間違った行動をしたつもりはなかった。
水卜名人の感謝の気持ちは偽りではなかったし、美鈴の表情も変わった。
でも不安な気持ちが少しあったのは事実だ。
「ねえ楓真」
僕の話が終わり話題が切り替わるタイミング。
和奏は聞きたいことがあるらしく、僕は黙って促すが続きの言葉がこない。
「聞きにくい事なの?」
「いや、その、楓真って美鈴ちゃんを怒ったというか、結構キツイ事言ったんだよね?」
「言ったね」
「ど、どんな感じで言ったの?」
「どんな感じって言ってもな……」
こんな事気になるのか?とも思ってしまうが、和奏が本気で知りたそうなので思い返す。
感情のままに言った部分も強く、どんな感じか覚えていない。
それなら逆に感情を思い出そう。
変わる前の美鈴に持っていた苛立ちと口にしたことを思い出し、そのまま声に乗せる。
「君こそ僕を舐めてるだろ。僕は奨励会員で、プロになるためのスタートラインに乗っているんだ。君はどうだ?もう一度言おうか?僕を舐めてるだろ?」
確かこんな感じで言った気がする。
演技っぽくなっている気もするがどうだろう?
そう思いながら和奏の方を見ると、胸に両手をあてて口を開いて遠くを見つめている。
「……和奏?」
「う、うん!?どうしたの!?」
和奏は上擦った声でそう言うと愛想笑いのような顔を向ける。
どうしたも何も、和奏に頼まれて実行したのだが。
ただ感想を書くのも変だし、聞いてはいけない気配を察知する。
僕は何も言わないという選択を取る。
「あ、そっか私が頼んだもんね」
和奏は僕の沈黙で思い出したらしく、そう口にする。
「楓真がキツイ事を言う時って本気なのが伝わってくるし、普段とは反対の表情をするから、その、いいなって」
「そ、そっか」
どう答えるか迷った結果、適当な相槌をうつ。
褒められてはいるが、素直に喜んでいいかわからない。
それに追求するのもなんとなく怖かった。
「和奏の次の目標ってあるの?」
話を変える為に僕はそう聞いてみる。
僕な場合は例会で勝って昇格することだが、和奏の場合はイメージがつかなかった。
「次の目標か、それで言うと全日本学生音楽コンクールね。予選は先週にあって、本選が10月の半ばにあるわ」
「……ちょっと待った、予選が先週にあったって言った?」
「ええ、楓真はまだ帰ってきてなかったし、予選の曲は簡単だし落ちるわけないから」
「落ちるわけない。か、凄いな」
「だって私はピティナのE級で全国一位になったのよ?学コンの予選で落ちてはいけないの。私に負けた人に顔向けできる私であるのは義務だから」
この言葉は僕にも言えることだ。
奨励会員になったからにはアマチュアに負けてはいけない。
和奏が言っていることはこういうことだ。
何も凄いわけではない。
「ふふ、楓真ってこういう時も分かりやすいよね。覚悟を決めた時とか理解した時とか顔に出るから」
「そうかな?」
確かに和奏の言う通り、考え込んで結論が出ると僕は一気に行動を起こす節がある。
だからいきなり表情が切り替わって見えるのだろう。
「それなら、考えを当ててみようかな。私の言っていることは楓真にも言えることだ、何も凄いことじゃない。とかでしょ」
あまりに奇麗に言い当てられて押し黙る。
考えを読まれた不本意さもあるが、当てられた嬉しさもあるのが奇妙な感覚だった。
「その表情は図星だね」
和奏はそう言うと愉快そうに笑う。
今の僕はその笑顔を眩しくて綺麗だと思える。
地に足がつかない感覚はなく、しっかりと目の前の現実を認識できる。
もう自分は大丈夫だと分かった。
「あれ、違う?」
僕が考え込んで結論を出すと、和奏は疑問視する目を向ける。
それは僕が自分を理解して表情が変わったからだろう。
「違うよ、全然違う」
僕がそう答えると和奏はムスッとした表情をする。
その表情がいじらしくて、からかいたくなる。
「当ててみてよ和奏」
「え、えー、分かんない。答えは?」
「秘密だよ」
僕がそう答えると和奏は不満げな表情になる。
「和奏も結構分かりやすいよね」
僕はそう言うと走り出す。
「ま、待ちなさい!」
和奏はそう叫ぶと僕を追いかけてくる。
僕は今、ここに来れて良かったと思う。
そして和奏に会えて本当に良かったと思うんだ。
いつか言葉にして伝えたい。




