33 王子と作業員
ホテルに戻った俺たちを待っていたのはモハメドだけではなかった。
なんとリビングには眞帆子の兄紅林幸次郎が待ち構えていた。きっちりと背広を着ている。さぞかし暑かったことだろう。
俺たちがリビングに入るとすぐに紅林氏は口を開いた。
「紅林と申します。妹がお世話になったそうでありがとうございます。」
四十代半ばくらいと思える紅林氏はそう言うと頭をきっちり下げた。
「初めまして浅戸です。どういたしまして。私は何も大したことはしておりません。モハメドさんが最大の功労者です。」
紅林氏はぎょっとしたように俺を見た。何かまずいことを言っただろうか。
「ビン・サーデク氏とお親しいのですか。」
誰のことかと一瞬思ったが、彼のメールに書かれていた正式の名がモハメド・ビン・なんとかだったことを思い出した。
「親しいというほどでもありませんが、一緒に仕事をしておりました。」
「そうですか。なるほど。」
意味ありげに紅林氏は俺を見た。
俺の後ろに隠れるようにして立っていた眞帆子は一歩前に出て言った。
「お兄様、ご迷惑をかけて申し訳ありません。わざわざ沖縄までおいでくださるとは。」
「妹を迎えに行くのは兄の務めです。眞帆子、浅戸さんにお礼を。」
「はい。お世話になりました。ありがとうございます。」
他人行儀な挨拶だった。
水族館や沖縄村で見せた笑顔は消えていた。
俺の口のまわりに付いたブクブク茶の泡を見て笑った時の顔など忘れてしまったかのようだった。
この顔で眞帆子は兄の家で暮らしていたのかもしれない。
自分を卑下しながら。
痛ましさに俺は唇を噛んだ。
結局俺には何もできないのだ。
あの微笑みはただひと時だけのもの。
「それじゃ、私は失礼します。」
兄と妹だけを残して、俺はリビングルームを出た。
日没になったから、モハメドに返事をしなければならない。
モハメドの仕事部屋をノックした。はいどうぞと日本語で答える声がした。
「失礼、今いいかな。」
「待っていました。」
モハメドはすでに執務机から離れて応接セットのソファに身を預けていた。少し疲れているように見えた。
やはり断食は身体にこたえるのだろう。
「今日はありがとう。タクシーの運転手さんも親切で助かった。」
「どういたしまして。まあ、座ってください。」
俺は向かい側に腰を下ろした。
「昨夜の話の返事だけど。」
「実は、その件ですが、少々話が変わりました。情勢が変わったというか。」
モハメドは身体を起こし姿勢を正した。何だろうか、モハメドの顔つきが違う。
「私には妻がいると言いましたね。」
「ああ。二人も子どもがいるなんて驚いた。いくつなんだ、奥さんは。」
「二十七です。それで、妻の実家というのが、大臣の家なのです。」
それは凄い話だと思った。やはりアラブのゼネコンクラスの会社社長の家ともなると奥さんの実家もたいそうなものだ。
「ダールは失脚し、身分をはく奪されました。」
当然だろう。あんな奴が会社の上にいたら社員はバカらしくて仕事なんかやってられない。
「それで父の後継者を新たに決めなければならなくなりました。」
兄が後継者だったのが、この不祥事でダメになったわけか。なるほど外国にも勘当みたいなことがあるらしい。
「父には妻が四人います。ですから私の兄弟姉妹も十七人います。」
さすがイスラム世界だ。桁違いだ。父親に複数奥さんがいて兄弟姉妹がたくさんいるとは聞いていたが、具体的に数値を聞くと、驚きも新たなものがある。
「父は兄を除いた中から新たに後継者を決めることになりました。」
「わかったぞ。それでモハメドが選ばれたと。」
「さすがは浅戸さん、お察しの通りです。話が早い。」
モハメドは心底感心したという顔だった。
「モハメド、頑張れよ。」
「ありがとうございます。兄と母親が違う兄弟の中で妻の身分が一番高かったのが私だったものですから。大臣一族の後ろ盾があれば即位後も大丈夫だろうというのが父の考えです。」
「ふーん、いろんな事情があるんだな。即位って、何の位になるんだ。」
俺はあまり考えずに言った。
「国王です。」
「こくおう、国王? 国王って王様?」
俺は叫んでいた。モハメドは王様になるのか。
「はい。かなり先の話になりますが。」
モハメドは落ち着いていた。
「私は父の第四王子で、本来は後継者になるはずではなかったのですが、妻の父が最近大臣になったものですから。」
王子? モハメドは王子様だったのか。俺は思い出した。
モハメドの受け入れ先の社長が外務省の人がどうこうとか言っていたことを。
「王子様なのか、モハメドは。」
「はい。小さな国ですが、よい国です。しかしまだまだ貧しい人も多いのです。インフラの整備も遅れています。」
何もかも合点がいった。彼は王子として、日本で勉強し、国の役に立とうとしていたのだ。強い義務感は王族の一員だからだったのか。
「そういうわけで浅戸さんに舗装会社の社長になっていただきたかったのですが、私が王太子となった今、社長という待遇ですませるわけにはいきません。あなたには建設省の顧問になっていただきたい。明治の日本ではお抱え外国人ということで大勢の欧米の学者や技術者を招きました。あなたにもその役目をお願いしたいのです。」
めまいのしそうな話だった。
「モハメド、社長の件を俺は断りに来たんだ。」
これだけは言わねばならなかった。御曹司だろうが、王子だろうが、言うべきことは言わなければならない。
「だから顧問とかいうのもできない。俺には日本でするべきことがたくさんある。それもできないのに、外国に行くなんて。」
「彼女はどうするのですか。今の身の上では彼女とは結婚できないのではありませんか。」
「ああ。それでいいんだ。紅林眞帆子の幸せは俺と結婚することじゃない。大体、借金ばかりしてる兄貴や認知症のおふくろ、頼りない妹一家もいる。彼女に苦労させるばかりだ。それに、俺にはまだまだ知らないことがある。沖縄の道路に白っぽいところがあるだろ。」
「骨材の違いですね。」
「そうだ。内地から骨材を持ってくると費用がかかるから隆起珊瑚礁石灰岩の骨材を使ってるんだ。だけど雨が降れば滑りやすくなる。金をかけずに滑りやすくならない方法はないかとかつい考えてしまう。
それに北海道あたりの舗装も知りたい。冬季の凍土対策をどうやってるのか知りたいんだ。
俺にはまだまだ勉強しなきゃいけないことがたくさんある。自分の国の舗装をすべてを知っているわけでもないのに、どうしてモハメドの国の舗装ができるんだ。
同じ日本の中でもやり方が違うのに、日本とは全く環境の違うモハメドの国に合った舗装をするとなると、俺では駄目だ。一番いいのはモハメドの国の人に舗装の技術を勉強してもらって研究や技術開発を自分たちでできるようになることなんだ。だが、俺には指導する力はない。もっとふさわしい人材がいるはずなんだ。」
俺は言いたいことだけを言った。モハメドには悪いと思う。だが、言わなければいけないことだ。
「あなたという方は」
モハメドはソファに背中をもたれかけさせた。その表情は意外なことに穏やかだった。
「欲がないというか……。紅林嬢と同じだ。」
「え?」
「彼女も言ってました。私のような女は浅戸さんにはふさわしくないと。まったく二人して謙遜し合ってどうするんですか。」
眞帆子の自己評価の低さはモハメドも気付いていたようだった。だが、俺までも?
「あなた方ほどお似合いの二人はいないと思うんですが。」
「俺はサラリーマンなんだ。会社の命令に従うしかない男だ。」
モハメドは言った。
「わかりました。」
俺はほっとした。少しだけ寂しかったけれど。
だが、何かを失うことには慣れていた。いや、最初から俺には何もない。だから、失ったわけじゃない。




