34 夫婦箸
食事の用意ができたと従者が知らせたので、俺とモハメドは部屋を出た。
ダイニングルームに入ると、そこになぜか紅林幸次郎がいた。その表情が妙に険しい。
眞帆子はまだ来ない。昨夜と同じように着替えているのかもしれないと俺は思った。
「浅戸さん。」
紅林氏は入って来た俺に向かってずんずんと近づいた。なんだか雲行きが怪しい。
「なんでしょうか。」
「これを。」
紅林氏は白いレジ袋を俺の前に突きだした。その顔は妙に赤い。何かに似ている。そうだ、土産物屋にあったシーサーの置物だ。
「あなたは、あなたは……、眞帆子に何をしたんですか!」
何か非常にまずいことが起きている、鈍い俺にもさすがにわかった。紅林氏は怒っている。
モハメドは俺と紅林氏の間に入った。
「どうされましたか。ミスター・クレバヤシ。何があったかわかるように説明してくださいませんか。」
そう言うと、紅林氏をそばの椅子に座らせた。
俺とモハメドは立ったままだ。
「どうしたもこうしたも……これは何ですか。眞帆子にこんなものを買うなんて。」
土産のことかと思い出した。箸だったが、何かまずいのだろうか。
「何も土産を欲しいとおっしゃらないので、適当に選んだだけですが。」
「適当に? 適当にこれを?」
そう言うと紅林氏は袋から、箸の入ったパッケージを出した。
「これは、夫婦箸ですよ。夫婦用のものです。」
夫婦箸? 俺はパッケージを見た。箸が二組入っているからお得だなと思っていた。商品の名前など見ていなかった。レジでも商品よりも表示される価格が気になってそればかり見ていた。
「眞帆子にこういう物を買って渡すとは……」
「ちょっと待ってください。」
俺は慌てた。誤解されている。
「何か勘違いされてませんか。それはお土産です。私は使うつもりはないです。眞帆子さんが使うか、あるいはお兄さんご夫婦に渡すか……」
モハメドも言った。
「落ち着いてください。ミスター・クレバヤシ。浅戸さんは真面目な人です。昨夜も私は同じ部屋で休みました。眞帆子さんはお一人で別の部屋でお休みになったのです。二人の間には何もありません。眞帆子さんとは以前同じ会社にお勤めでしたが、そこでも、お二人はほとんど接触することはなかった。浅戸さんは眞帆子さんの出勤前に現場に行き、退勤後に現場から戻ってくるような生活だったのですから。」
眞帆子の兄の顔色は次第に平静に戻っていく。俺はやれやれと思った。
「ですが、眞帆子は……財布を持ってないはずなのにどうして買ったのか尋ねたら、あなたが買ってくれたと言うのです。顔を赤くして。」
俺はしまったと思った。考えてみれば、眞帆子は男性から何かプレゼントをもらったことなどないのかもしれない。修学旅行の土産やバレンタインデーのチョコレートのお返しとしてお菓子をもらうことはあっても、それ以外でもらうことなどなかったに違いない。
そんな女性が男の俺からもらったと話す時に頬を染めてしまったのは仕方ない。免疫がないのだから。
「妹さんは純真な方です。男からそういうのをもらったことがなくて、恥ずかしかったのでしょう。慣れていないんです。ただそれだけです。」
俺は言った。
「慣れていないと知っていて妹にあなたはこれを渡したということですか。」
紅林氏の言葉がぐさりと心に刺さった。だが黙っているわけにはいかない。
「妹さんは修学旅行に行ったことがなかったんです。水族館も初めて行ったと言ってました。たぶん旅行をしたこともないんでしょう。お土産を買うとかそういうことにお金を使ったこともほとんどないのかもしれません。今日もあちこち回っても自分から何か欲しいとかそういう素振りも見せなかった。だから、せめて何か土産にと、私が自分で選んだんです。税込で千円もしないものですから気を遣わないだろうと思いました。もし私が妹さんに下心があるならもっと高いものをあげてるでしょう。」
「わかりました。」
少しは納得してくれたようだった。
「確かに、若い女性の気を引くならもっと値の張る指輪や時計でも贈るものでしょう。ですが、妹にはこれは指輪やブランドの時計よりも大事なもののようでした。」
あれ、なんか雲行きが怪しいぞと俺は思った。
モハメドはさっきよりも少し離れた場所に置いてある椅子に腰かけて俺と紅林氏のやりとりを見ていた。
その表情に時折笑いのようなものが浮かぶのに俺は気付いた。
「見せなさいと言う私になかなか見せてくれなかった。家ではいつも素直で、はいはいと言う子なのに。家族への土産なら家に帰ってから見せるとか言うはずなのに。妹は私が言うのもなんですが、私の周囲の今時の若い娘さんと違って素直で従順、人によっては愚かにも見えるほどで。それが私の言葉に従わないというのは相当のことだと思うのです。だから、誰が買ったかわからないものなら持って帰るわけにはいかないと私が言ったら初めてあなたの名を出したのです。どうしても持って帰らせて欲しいと。箸を集めるのが好きなわけではないことくらい、私にもわかります。あなたが買った物だから妹は持って帰りたかったのでしょう。」
穏やかな紅林氏の言葉だった。だが言っていることは俺にとっては穏やかではない。
俺はあえて話の腰を折ることにした。これ以上話が続くとまずい方向にいきそうだ。
「妹さんは紅林興産の経営者の一族です。妹さんはいずれしかるべき方と縁組し、幸せになる定めなのです。私が箸を買ったことなどどうでもいいことではありませんか。東京に早く妹さんを帰して、しかるべきお相手との縁談をまとめるべきです。それがお宅にとってもいいことではないのですか。」
「ええ。しかるべき相手とね。」
「立派なお相手はたくさんいるでしょう。会社の後継者とか……。政略結婚といってもそこに愛があれば恋愛結婚です。」
「政略ねえ。」
紅林氏はつぶやいた。
「昔、私の兄がそれをしましてね。兄はさる大企業グループの後継者の女性に婿入りしました。すぐに子どもができましたが、夫婦関係は冷え切っていてほどなく離婚しました。」
紅林の目ははるか遠くを見ているようだった。
「離婚しても元婿ですから、グループ内の会社で働いておりましたが、私に会うと愚痴を言ってたもんです。政略結婚なんてするもんじゃないと。数年前に亡くなりましたけどね。父も政略でしたが、両親は円満だと思ってました。ですが、父は女性を作ってましてね。しかも母の嫁入りの時に実家から紅林家についてきた若い手伝いの女性で。それが眞帆子の母親です。妊娠がわかると、すぐに彼女は行方をくらましました。母は怒り狂いました。実家にまで手を伸ばして。引き取る前に調べさせたんですが、かわいそうなことに母親は家族をほとんど頼ることもできなくて、放浪していたようです。眞帆子も中学生の頃まであちこちを転々としていたようです。夜逃げのようにして引っ越したこともあるとか。修学旅行になど行けるはずもない。それなのに父は母の実家に遠慮して何も手を打たなかった。不憫な子です。
兄も父も失敗したわけです。だから私は政略結婚はしなかった。妻は会社の同僚でした。普通のサラリーマン家庭で育ったのです。今でこそ和服に慣れましたが、昔は間違って左前に着てしまったこともあります。
ですから、眞帆子にも政略結婚はして欲しくなかった。パーティに連れて行ったのも、そういう場所に行って出会いを見つけて欲しかったんです。それに妻が言うには、パーティのような場所には結婚前から慣れていたほうがいいと。妻は結婚してから私が連れ出すようになったんですが、慣れなくて苦労したと言ってましたからね。」
なんだか俺の想像と違う展開になってきたような気がした。




