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神代封呪録・第五章 試練 第二節 共生 第三話 医療3

神代封呪録・第五章 試練 第二節 共生 第三話 医療3


朝の柔らかい光が、カーテンの隙間から差し込むよりも早く、神代蒼真は目を覚ました。規則正しい生活習慣が身についた体は、アラームが鳴る数分前には自然と意識を覚醒させる。静まり返った家の中には、まだ微かに夜の冷気が残っているが、リビングからは心地よい音と香りが漂い始めていた。


「おはよう、蒼真」


キッチンに立つ妻・レイカの背中に声をかけながら、蒼真はダイニングテーブルの椅子に腰を下ろした。ほどなくして、レイカが湯気を立てる温かい味噌汁と、焼き魚、炊き立ての白米が盛られたお盆を運んでくる。食卓の上は、日本の伝統的な朝食の美しさと温もりに満ちていた。


「いつも、本当に美味しい朝ごはんをありがとう」


心からの感謝を込めて蒼真が言うと、レイカはふわりと柔らかい笑みを浮かべた。


「ううん、そんな改まって。妻として、当たり前のことをしているだけよ」


「そうかな? 世の中には、朝からこうして温かい食卓を囲めない家庭だってたくさんある。こうして毎日、君が作ってくれる美味しいご飯を食べられること……最近、痛いほど思うんだ。僕たちが『当たり前』だと思って過ごしている日常の裏側には、決して平坦ではない営みや、誰かの支えがある。それを当たり前だと思わずに、一つひとつに感謝しながら生きていくことこそが、人間にとって一番大切なことなんじゃないかってね」


蒼真の真摯な言葉に、レイカは少し照れくさそうに目を細め、それから優しくうなずいた。


朝食を済ませた蒼真は、自ら皿を丁寧に台所へと運び、シンクの横に綺麗に重ねた。その後、寝室に戻って身なりを整える。鏡の前に立ち、袖を通した背広に目を落とす。肩のライン、ウエストの絞り、そして裾に至るまで、シワ一つない完璧な仕立てのスーツが、彼の凛とした立ち姿を一層引き立てていた。毎朝、細心の注意を払ってアイロンをかけてくれるレイカの細やかな気配りが、ここにもしっかりと表れている。蒼真はその背広の感触を確かめながら、改めて妻の献身に心の中で深く感謝した。


「じゃあ、行ってきます!」


愛用の革製カバンをしっかりと手に持ち、蒼真は玄関へと向かった。靴を履こうとしたその背中に、レイカが足音を立てて慌てて駆け寄ってくる。


「ちょっと、蒼真、ネクタイが少し曲がってるわ」


レイカは優しく手を伸ばし、蒼真の首元に微調整を加える。きゅっと結び目を整えると、満足そうに微笑んだ。


「うん、これで完璧。いってらっしゃい、お気をつけて」


「ありがとう、行ってきます」


玄関の扉を開けると、澄んだ朝の空気が頬を撫でた。家の前には、手入れの行き届いた黒塗りのメルセデス・ベンツが、重厚な輝きを放ちながら静かにエンジンをアイドリングさせている。その車体の傍らには、専属運転手の三輪が直立不動で控えており、さらに助手席のドア付近には、優秀な秘書である池田がタブレット端末を片手に待機していた。


国の要人としての重責を担う日々のなかで、こうして毎朝完璧な準備をして送り出され、専用車と信頼できるスタッフが待っている環境は、決して自然に得られるものではない。華やかさの裏にある多大な労力と配慮に思いを馳せ、蒼真は心の中で再び深く身を引き締めた。こうした日々の送り迎えに対しても、決して慣れや慢心を生むことなく、常に感謝の念を忘れずにいなければならないと自分に言い聞かせる。


「三輪さん、池田さん、おはようございます。今日も一日、どうぞよろしくお願いします」


蒼真が爽やかに声をかけると、二人は同時にきびきびとした動作で頭を下げた。


「おはようございます、大臣。本日も万全の体制でサポートいたします」


池田がテキパキと後部座席のドアを開け、蒼真を迎え入れた。車内に乗り込むと、レザーシートの心地よい硬さと、静寂に包まれた空間が広がる。ドアが閉まると同時に、外界の喧騒は完全に遮断された。


車が滑らかに発進したのを確認すると、秘書の池田は手元に用意していた書類ファイルを開き、本日のスケジュールについての詳細なブリーフィングを開始した。


「本日の日程ですが、午前中は省内での重要幹部会議、午後は国会での予算委員会における答弁が控えております。その後、夕方には関係各所との非公式な意見交換会が予定されております」


池田の淀みない説明を聞きながら、蒼真は手渡されたファイルから、綺麗に製本された本日の国会答弁用の資料を受け取った。ページをめくると、専門的なデータから想定問答に至るまで、細心の注意を払ってまとめられている。誤字や脱字、論理の破綻などは一切見当たらない、まさに完璧と言って差し支えないクオリティの資料だった。池田の卓越した仕事ぶりに、蒼真は信頼の目を向けた。


「いつも完璧な準備をありがとう、池田くん。これなら今日の答弁もスムーズに進みそうだ」


「お役に立てて光栄です。大臣のお眼鏡にかなうよう、スタッフ総出で何度も校正を重ねましたから」


資料を一通り読み終えた蒼真は、窓の外を流れるビルの群れを眺めながら、ふと一つの懸念事項を思い出した。昨夜から気になっていた、あの場所のことだ。


「そういえば池田くん、予定の合間に、少しだけ病院に立ち寄る時間を作れないだろうか?」


突然のスケジュール変更の打診にも、池田は微塵も動揺を見せず、手元のスケジュール帳とタブレットを素早く確認した。


「午前中の会議の開始時刻までであれば、約一時間ほどの余裕がございます。そちらを調整に充てれば、病院への立ち寄りは十分に可能です」


「そうか、助かるよ。では、予定を変更して、まずは例の病院へ向かってくれ」


「承知いたしました。三輪さん、ルートを病院経由に変更してください」


指示を受けた三輪は、無言のままルームミラー越しに頷き、巧妙なハンドルさばきで車を目的地へと導いた。


やがて車は、総合病院の静かな敷地内へと滑り込み、エントランスの前に静かに停車した。車を降りた蒼真は、周囲に過度な威圧感を与えないよう配慮しながらも、毅然とした足取りで病院の自動扉をくぐり抜けた。そして、特別に配慮された区画にある赤鬼の入院病棟へと、迷うことなく向かった。


消毒液の匂いが漂う白い廊下を進み、病室のドアを軽くノックして中に入る。そこには、数日前よりもいくぶん血色が良くなった赤鬼の子供の姿があった。


「あ、神代大臣!」


子供は蒼真の姿を見つけると、ぱっと顔を輝かせ、ベッドの上で嬉しそうに上半身を起こした。その様子に目を細めながら、蒼真は優しく歩み寄り、子供のベッドの脇に置かれた椅子に腰を下ろした。


「その後の体調はどうだい? 具合は悪くないかい?」


蒼真が問いかけると、子供の親が深々と頭を下げながら答えた。


「お陰さまで……脳梗塞の影響で左手にはまだ少し後遺症が残ってしまっておりますが、医師の話では、これからのリハビリを根気強く続けていけば、必ず元のよう動かせるようになるとのことです。本当に、ここまで手厚くしていただいて、感謝してもしきれません」


「そうか、リハビリは根気がいるものだが、君ならきっと乗り越えられるよ。焦らず、一歩ずつ進んでいこう」


蒼真は子供の頭を優しく撫でた後、病室の配膳棚に目をやった。


「そういえば、こちらの病院の食事の味はどうかな? 口に合っているかい?」


「はい! とっても美味しいです。毎日、温かくて栄養のあるご飯が食べられて、すごく元気が出ます」


赤鬼がの親が、満面の笑みで答えると、蒼真は満足そうにうなずき、それから少しトーンを落として、本題の問いかけを投げかけた。


「そうかい、それは良かった。ねえ、赤鬼君に大事な話があるんだ。明日から、近くの学校に少しずつ通ってみるかい? もちろん、無理をする必要はないけれど……学校に行けば、いろんな絵本が読めるようになるし、友だちもたくさんできる。それに、学校には美味しい給食の制度もあるから、毎日バラエティに富んだ美味しいご飯をお腹いっぱい食べられるんだよ」


学校という未知の響き、そして「美味しい給食」という言葉に、赤鬼の子供の目はキラキラと輝いた。これまで人間社会の枠組みの外で生きてきた彼らにとって、教育や福祉のシステムは遠い存在だったが、その瞳には大きな期待と喜びの色が宿っていた。


「本当ですか!? 僕、学校に行ってみたい! 絵本もたくさん読みたいです!」


子供が飛び跳ねんばかりに喜ぶ姿を見て、隣にいた親はこみ上げる感情を抑えきれない様子で、目頭を押さえた。しかし、すぐに現実的な不安がよぎったのか、親は蒼真に向かって申し訳なさそうに切り出した。


「神代大臣……その、ありがたいお話は本当に嬉しいのですが、私どもは現在、定職に就いておらず、経済的な余裕もありません。学費や給食費といった莫大な費用を支払うことは、とてもできないのですが……」


その不安を先回りするかのように、蒼真は穏やかな、しかし力強い口調できっぱりと遮った。


「大丈夫だよ、心配いらない。学費も、給食費も、その他に必要な諸経費も含めて、すべて国の責任において無料措置が適用されるよう手配済みだ。お金のことは一切気にしなくていい」


親は信じられないという表情で目を見張り、言葉を失った。さらに蒼真は続ける。


「それにね、今、行政の福祉窓口と連携して、君たち二人が安心して暮らせる新しい住まいの選定を進めているところだ。もう間もなく場所も決まるはずだから、もう少しだけ待っていてくれ。新しい住まいが決まり次第、正式な住民票と呼ばれる身分証明書も発行される。そうなれば、行政のあらゆる公的サービスやサポートを正当に受けることができるようになるから、何も心配しなくていいんだよ」


赤鬼の親は、あふれ出る涙を拭うことも忘れ、両手で顔を覆うようにして震えた。


「神代大臣……そこまで、私たちのために……。人間と妖という壁を越えて、ここまで親身になって救いの手を差し伸べてくださるなんて、夢にも思っていませんでした。本当に、ありがとうございます……!」


「当然のことをしているだけさ。同じ社会に生きる者同士、共生していくための第一歩だからね。では、また明日、必要な手続きの件も含めて顔を出すよ」


蒼真は温かい笑みを残して病室を辞去し、再びメルセデス・ベンツに乗り込んだ。


車は次なる目的地である文部科学省へと向かう。到着後、大臣室に通された蒼真は、文部大臣と直接向き合い、妖の子供たちの教育権利の保障および、就学支援に関する重要案件について協議を重ねた。




「制度上は前例がない」


「妖を学校に受け入れることへの反発がある」


「自治体との調整が必要」




「法整備のハードルや自治体との連携」など、クリアすべき課題は山積していたが、


「大獄丸を倒すために剣を振るった時よりも、今の方が難しい戦いなのかもしれない」


と蒼真は思った。


蒼真の圧倒的な説得力と緻密なビジョンの前では、どのような議論も前向きな方向へと収束していった。文部大臣は蒼真の熱意に深く共感し、その場で全面的に協力する旨を快諾した。話は驚くほど順調に、かつスピーディーに進展したのだった。


省内での公務をすべて終え、再び車に戻った蒼真に、秘書の池田が一つの包みを差し出した。


「大臣、先ほど手配を完了いたしました。お言いつけの品でございます」


「ご苦労様、池田くん。それじゃあ、予定の隙間を縫って、もう一度あの病院へ戻ろう」


車は再び方向転換し、夕暮れ時の街並みを抜けて、先ほどの総合病院へと引き返した。病棟の廊下を歩く足音が、先ほどよりもどこか軽やかに響く。病室のドアをノックして顔を出すと、ベッドの上で待ちわびていた子供が、まるで太陽のような笑顔で飛び込んできた。


「神代大臣!」


「やあ、待たせたね」


蒼真は手に持っていた大きな包みを優しく差し出した。包みを開けると、中から真新しい、艶やかな赤色のランドセルと、鉛筆やノート、筆箱などのピカピカの筆記用具一式が姿を現した。


「今度はね、君が明日から学校に行くためのランドセルと、勉強道具を持ってきたんだ。どうだい、実際に背負ってみるかい?」


「わぁ……!」


子供は息を呑み、震える小さな両手でランドセルを受け取ると、夢見るような目でそれをじっと見つめた。そして、親の助けを借りながら、小さな背中にそのランドセルをしっかりと背負ってみせた。


「どうだ、似合っているかい?」


蒼真が優しく問いかけると、子供は満面の笑みで部屋の中をくるりと回り、元気よく返事をした。


「うん!! すっごく軽いし、かっこいい! これ、僕のなの!?」


「ああ、もちろん君のものだよ。大切に使ってくれよ」


蒼真は子供の小さな肩を優しく抱き寄せ、明日への約束を交わした。


「明日は朝の七時に、車でお迎えに来るからね。それまでしっかり準備をして、待っていてくれ。そして、一緒に学校に行こう」


その言葉を聞いた瞬間、赤鬼の親は再びこみ上げる感情を抑えきれず、両手で顔を覆って声を殺して泣きじゃくった。その頬を伝う涙は、絶望の涙ではなく、未来への希望と深い安堵に満ちたものだった。


「神代大臣……本当に、本当にありがとうございます……こんな日が来るなんて……」


頭を下げ続ける親の姿と、新しいランドセルを誇らしげに抱きしめる子供の姿を交互に見つめながら、蒼真は静かにうなずいた。多様な存在が手を取り合い、共に生きる世界を築くことの重みと尊さを噛み締めながら、蒼真は病室を後にしたのだった。


第三話 了

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