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神代封呪録・第五章 試練 第一節 百鬼夜行 第二十話 反対と賛成

神代封呪録・第五章 試練 第一節 百鬼夜行 第二十話 反対と賛成


一


早朝の静寂に包まれた東京の一角で、神代蒼真はふと目を覚ました。


窓の外にはまだ夜の帳が残り、東の空がわずかに白み始めている。枕元のデジタル時計は午前四時十五分を示していた。防衛大臣という重責を担うようになってからというもの、朝まで途切れることなく眠れた日など数えるほどしかなかった。頭の奥で常に微かに響く緊張感の残響が、深い休息を許さない。


「またか……」


蒼真は小さく呟きながら寝返りを打った。自分でも気づかないうちに、心身が限界に近いプレッシャーを抱え込んでいるのだろう。ストレスという言葉が頭をよぎるが、立ち止まっている暇などなかった。


布団から静かに這い出すと、冷えたフローリングの床を裸足で歩き、薄暗い台所へと向かった。冷蔵庫の扉を開けると、庫内の白いLEDライトが暗い部屋の中にぼんやりと光を投げかける。手探りで取り出した牛乳パックの冷たさが、ぼんやりとした頭を少しだけ現実に引き戻してくれた。グラスに注いだそれを一気に飲み干すと、喉の奥から胃の腑にかけて冷たい液体が染み渡る。


背後で気配がして振り返ると、妻のレイカが眠そうに目をこすりながらキッチンへと歩いてきていた。パジャマ姿の彼女は、心配そうな優しい瞳を蒼真に向けている。


「どうしたの? また眠れなかったの?」


レイカの声音には、夫を気遣う確かな温もりがあった。蒼真はグラスを流し台に置き、作り笑いにならないよう意識しながら首を横に振った。


「あぁ……大丈夫だよ。ちょっと喉が渇いただけだから。心配かけてごめん」


「ううん、いいのよ。でも、無理だけはしないでね。防衛大臣なんて大役、辛かったら、いつ辞めてもいいんだからね。世間の声なんてどうだっていいの。私は、あなたが元気でいてくれれば、それだけで十分なんだから。……忘れないでね」


レイカのまっすぐな言葉が、蒼真の胸の奥深くにじんわりと染み入った。張り詰めていた心が、ほんの少しだけ解きほぐされるような気がする。


「ありがとう、レイカ。……もう一度ベッドに入るよ。君も早く戻って寝なさい」


蒼真はレイカの肩にそっと触れ、再び寝室へと戻った。妻の優しさに包まれながら目を閉じると、先ほどまでの緊張が嘘のように和らぎ、今度こそ穏やかな眠気へと落ちていった。


二


再び目を覚ましたとき、時計の針は午前六時を指していた。


今度はしっかりと睡眠をとれた感覚があった。蒼真は身支度を整えると、朝の冷気を肌で感じながら玄関のドアを開け、自宅のポストから新聞を取り出した。取り出したのは『日本経済新聞』だ。一面を広げた瞬間、蒼真の視線は大きく見開かれた。


そこには、神代大臣である自身が掲げる「妖と人間の共存」に関する特集記事が大きく掲載されていた。そして、その見出しの横には、目を疑うような世論調査の数字が踊っていた。


――妖たちの間における人間社会との共存に対する意識調査。


賛成が九割、反対が一割。


「九割……!?」


蒼真は思わず声を漏らした。さらに記事の続きを読むと、そこには驚くべき内容が続いていた。


過激派と恐れられていた妖のリーダー層が、人間側との対話路線を選択し、「今後は百鬼夜行を行わない」「都市部でのテロ行為も一切行わない」という明確な声明を出したというのだ。昨日まで、いつ大規模な暴動が起きてもおかしくないという極限の緊張感の中で頭を悩ませていたが、その前提が根底から覆りつつあった。


自分がテレビの生放送という大舞台で発言し、命を削る思いで訴え続けた内容は、決して間違っていなかったのだ。妖たちもまた、本当の意味での平和と共存を望んでいた。


胸の奥から熱いものがこみ上げてくるような、強烈な高揚感があった。


「やった……!」


蒼真は喜びを噛みしめながら、明日に控える更なる政務に備えて再び目を閉じようとした。しかし、一度高ぶってしまった脳裏の興奮は、そう簡単には静まらなかった。頭の中で様々な思考が高速で回転し始める。


人間と妖の共存。もし妖たちが本格的に社会進出を果たすのであれば、その受け皿が必要になる。


例えば、直接対面での接触を避ける形態の仕事であればどうだろうか。電話オペレーターの業務などはその典型だ。昔と違って、現代のインフラはテレワークシステムが高度に発達している。わざわざオフィスに出社しなくとも、自宅や指定された場所からリモートで完結させられる仕事は山ほどある。人間社会の労働力不足を補う意味でも、妖の能力を活かせる分野は無限に広がっているはずだ。


「まずは、身元を確実に証明するため、住民票のシステムを彼らにも適用させよう。書類の不備や手続きの間違いなんてあって当然だ。もし間違えたっていい、何度でもやり直せばいいじゃないか。前例がないなら、俺が作ればいい。俺にしか出来ないこと、俺にしか背負えない役割があるなら、それをやり通せばいいんだ」


明確なビジョンと使命感が、蒼真の心を力強く満たしていった。


三


次に目が覚めたときには、時計の針は午前七時を回っていた。


すっきりと目覚めた蒼真は、リビングのテーブルに座り、先ほどの新聞をもう一度じっくりと読み返した。この急速に動き出した情勢について、側近である三輪や池田の意見も深く聞いてみたいものだと思った。


ダイニングから漂ってきた香ばしい匂いに誘われるように顔を上げると、そこにはレイカが用意してくれた温かい朝食が並んでいた。焼きたてのトースト、丁寧に淹れられたコーヒー、そしてバランスの取れた色鮮やかなサラダ。愛する妻の作る朝食を静かに味わい、エネルギーをしっかりと充填する。


食事を終えると、蒼真はスーツのジャケットを羽織り、革製のブリーフケースを手に持って玄関へと向かった。


「行ってきまーす!」


「いってらっしゃい! 気をつけてね、蒼真」


玄関の扉を開けると、朝の澄んだ空気が一気に流れ込んできた。その家の前には、防衛大臣専用の重厚な黒塗りのメルセデス・ベンツが、静かにエンジン音を響かせてアイドリング状態で待機していた。


車のすぐ脇には、屈強な体躯を持つ護衛兼運転手の三輪と、常に完璧な身なりをした秘書の池田の二人が、姿勢正しく立って待っていた。


「神代大臣、おはようございます!」


「二人とも、おはよう」


「神代大臣、なんだか今朝は一段とご機嫌がよろしいようですね! 何か、いいことでもありましたか?」


三輪が運転席のドアに手をかけたまま、満面の笑みで尋ねてきた。蒼真は隠しきれない笑みを浮かべたまま、車に乗り込みながら答えた。


「あぁ、今朝の新聞を見たかい? 妖たちの間の世論調査で、共存への賛成割合が九割に達したそうだ」


「九割が賛成って、もの凄い数字ですね……!」


助手席に乗り込もうとした池田が、驚きと感嘆が入り混じった声を上げた。後部座席に落ち着いた蒼真に続き、三輪も運転席に滑り込みながら感心したようにハンドルに手を置く。


「テロも無くなり、百鬼夜行もこれで本当に無くなるとなれば、これほど心強いことはありません。大臣のこれまでのご尽力の成果ですよ」


「ああ、本当にそうだな」


車が静かに発進し、朝の都心の道路へと滑り出していく。


池田は車体が安定したのを確認すると、手元のブリーフケースから美しく製本された一冊の厚い資料を取り出し、振り返って蒼真に差し出した。


「神代大臣、本日のスケジュールについてご説明いたします。午前中は国会答弁、午後は討魔庁との重要なお打ち合わせとなっております。国会答弁で想定される質問と、それに対する模範回答は全てこちらの資料にまとめてありますので、ご出発までの間にお目通しいただけますでしょうか」


池田の淀みのない事務的な口調には、圧倒的な信頼感があった。蒼真は受け取った資料のページをめくりながら、その緻密さに舌を巻く。


「それから、来月にはアメリカの国防省(ペンタゴン)への公式訪問が予定されております。現地での交渉や会談における通訳は、私どもが全て、一人で完璧にこなしますので、どうかご安心ください。言葉の壁で大臣にご迷惑はおかけしません」


「私の護衛についても、あらゆる不測の事態を想定して万全の態勢を整えております。隙は一切ありませんから、安心して国政に集中してください!」


三輪がバックミラー越しに白い歯を見せて豪快に笑った。その揺るぎないプロ意識に、蒼真は深く頷く。


「頼もしい限りだな。……そういえば、池田くん。海外に行くということは、パスポートの件だが……私は持っていたっけか?」


「いえ、大臣の現行のパスポートは公用旅券への切り替えが必要ですが、一般のものも含めて現在はお手元にはございませんね」


「そうだな……持っていないな」


「では、今日の午後、討魔庁との打ち合わせに向かう前の隙間時間を利用して、外務省の窓口へ申請手続きに伺いましょう。スケジュールに組み込んでおきますが、よろしいでしょうか?」


「あぁ……是非頼む。全て君たちに任せるよ」


「承知いたしました」


池田は手帳にペンを走らせると、隣の三輪に向かって指示を出した。


「三輪さん、このまま予定通り、国会議事堂へ向かってください」


「承知しました。お任せください!」


四


重厚なエンジン音を響かせたメルセデスは、日本の政治の中枢である国会議事堂の敷地内へとスムーズに滑り込んだ。


そして、神代蒼真にとって初陣とも言える、記念すべき初の国会答弁の幕が上がった。


議場の2階傍聴席や記者席、そして議員席の至るところから、無数の鋭い視線が壇上の蒼真へと集中する。緊張感が天井すれすれまで張り詰める中、野党議員からの厳しい追及の声が響き渡った。


「昨年の軍事予算の執行において、いくつかの費目に不明朗な点が多々見受けられる! 今年度の防衛費用は一体どのように算定され、どこに消えるのか、明確に答えてもらいたい!」


数字の細部や過去の経緯に踏み込んだ、初見では到底答えられないような鋭い質問の矢継ぎ早の飛来。一瞬、蒼真の脳裏が真っ白になりかけたが、壇上の裏で控える池田が事前に用意してくれた「想定質問と回答集」の該当ページが、脳内で鮮やかにフラッシュバックした。池田が徹夜で作成し、蒼真の頭に叩い込ませてくれた資料の文字一字一句が、不思議と正確に口をついて出てくる。


「ご指摘の昨年度軍事費用における不透明な部分につきましては、主に防衛装備の近代化に伴う予備費の再配分に起因するものであります。今年度におきましては、監査体制を抜本的に強化し、使途の透明性を完全に担保した上で……」


理路整然とした答弁が、淀みなく議場に響き渡った。野党議員の険しかった表情がわずかに驚きに変わり、やがて追及の声は収まっていった。


池田の完璧なサポートのおかげで、初の大臣答弁は大きな失態もなく、無事に乗り切ることができたのだった。


午前中の激しい頭脳戦を終えた蒼真は、心地よい疲労感に包まれながら国会議事堂を後にした。午後の討魔庁との打ち合わせまでにはまだ少し時間的余裕があったため、三輪の運転する車内で軽い昼食を済ませることにした。


やがて車は、厳重なセキュリティに守られた討魔庁の本部ビルへと到着した。


執務室に入ると、蒼真はソファに深く腰掛け、大きく息をついた。


「ふう……何とかやり切ったな」


隣に控えていた池田に向かって、蒼真は心からの感謝を込めて微笑んだ。


「池田さん、今日のあの想定問答の資料、本当に助かったよ。君のおかげで恥をかかずに済んだ。心から感謝する、ありがとう!」


「とんでもございません。お褒めいただき、身に余る光栄でございます」


池田は深々と頭を下げ、崩れのない完璧な笑みを浮かべた。蒼真は自身の腕時計に目をやり、しみじみとした口調で呟いた。


「考えてみれば、俺が防衛大臣の座に就いてから、今日でまだ三日目なんだよな……。なのに、まるで何年もこの激動の中に身を置いていたかのような密度だ。それでも、ようやく周囲の状況も見えてきて、大分落ち着いてきた気がするよ」


蒼真は、前を走る困難を見据えながら、隣の秘書と運転手をゆっくりと見回した。


「二人とも、本当にありがとう。君たちが支えてくれるからこそ、俺はこの重責を担うことができる」


「もったいないお言葉でございます」


その時、池田が自身の腕時計の文字盤を確認し、引き締まった表情で言った。


「神代大臣、そろそろ予定の時間でございます。パスポートの新規発行および切り替え手続きのため、外務省の窓口へ向かいましょう」


「そうだな。頼む」


「三輪さん、車の手配、およびルートの再確認をお願いします」


「承知いたしました。すぐに裏口へ回します!」


三輪がキビキビとした動作で動き出し、黒塗りのメルセデスベンツは再び発進した。


パスポートの申請手続きを滞りなく済ませた蒼真一行は、妖と人間を繋ぐ最前線組織である「討魔庁」との本格的な打ち合わせに向け、力強く走り出したのだった。

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