神代封呪録・第五章 試練 第一節 百鬼夜行 第十九話 テロ
神代封呪録・第五章 試練 第一節 百鬼夜行 第十九話 テロ
一
穏やかな朝の光が窓から差し込む台所で、蒼真は静かに朝食の箸を置いた。
「今日も、頑張ってね!」
明るく声をかけてくれたのはレイカだ。彼女は慣れた手つきで蒼真のスーツのネクタイを整え、ふっと柔らかい笑みを浮かべる。その温もりに背中を押されるように、蒼真は軽く息をついた。
「あぁ……行ってくる」
玄関の扉を開けると、そこには既に日常の喧騒から切り離されたような、重厚な静寂が漂っていた。外の車寄せには、一台の漆黒のメルセデス・ベンツが静かにエンジンをアイドリングさせている。
その車体の傍らには、常に蒼真の身を守る屈強な護衛兼運転手の三輪と、事務的な気配を完璧に纏った秘書の池田が控えていた。二人とも、蒼真の姿を認めると一糸乱れぬ動作で姿勢を正す。
「二人とも、おはよう」
「神代大臣、おはようございます」
挨拶を交わすと、蒼真は後部座席に、三輪と池田はそれぞれ前席へと乗り込んだ。車体が滑らかに発進し、静まり返った朝の東京の街を内閣府の建物へと走り始める。
車内の静寂を破るように、池田が手元の上質な革製バインダーを開いた。
「本日のスケジュールを申し上げます」
池田の声音は涼やかで、微塵の乱れもない。彼女は綺麗に製本された本日の行程表を、そっと蒼真へと差し出した。
「本日は、大きく二つの公務が入っております。一つ目は午前の内閣府全体での顔合わせ、二つ目が午後の討魔庁との実務打ち合わせとなります。――スケジュールに関しまして、何かご不明点はございますでしょうか?」
「いや、特に無い。ありがとう、助かるよ」
蒼真は受け取った資料に軽く目を通し、窓の外へと視線を移した。しかし、池田はそこで言葉を切らなかった。バインダーのページをめくる指先が、わずかに重みを帯びる。
「それと、もう一点。神代大臣に、早急にご報告せねばならない事態が発生しております」
「報告?」
「はい。今朝方、池袋、渋谷、新宿の都内主要三ヶ所において、影法師による連続殺人テロが引き起こされました」
車内の空気が一瞬にして凍りついた。バックミラー越しに、三輪の険しい横顔がちらりと見える。
池田は淡々と、しかし差し迫ったトーンで続ける。
「犯人グループは、神代大臣が先のテレビ出演時に語られた、『人間と妖が手を取り合い、共存して生きる社会』という理念に対して激しい批判を浴びせています。そして……彼らは神代大臣ご本人との直接の話し合いを要求しているのです」
「……私と?」
「左様でございます。要求を呑まなければ、都内全域を巻き込んだ大規模な『百鬼夜行』を決行し、無差別に血の雨を降らせると声明を出しております。本日の討魔庁との打ち合わせは、間違いなくこのテロ事件への対応がメイン議題となるでしょう」
池田の言葉を聞き終えると、蒼真は深く背もたれに身を預け、小さく息を吐き出した。
「でしゃばりすぎたかな……私の理想論が、かえって奴らを刺激したか」
自嘲気味に呟いた蒼真に、池田は真摯な瞳を向ける。
「池田さんは、今回の件についてどう思う?」
「個人的な見解を述べるならば――これは、神代大臣を公の場におびき出し、暗殺するための明白な罠であると愚考いたします」
「……だな」
三輪がバックミラーから目を離さぬまま、低い声で割って入った。
「神代大臣、まさかとは思いますが、奴らの要求に乗って、直接話し合うなどとお考えではないでしょうね?」
三輪の大きな目が驚愕に丸くなり、蒼真を射抜くように見つめる。
「あぁ……少し、悩んでいる。話し合えば、分かり合える道もあるのではないかと……」
「私にも責任がある」
「なりませぬ!」
三輪の声が車内に響いた。それは運転の邪魔にならないよう抑えられていながらも、圧倒的な忠義と怒気が混じっていた。
「もう神代大臣は、かつての個人ではありません。国を守る防衛庁の大臣です。交渉の場に立つべきは政治家ではなく、実力行使を担う討魔庁の人間です。ここは一切の私情を挟まず、討魔庁に丸ごと任せるべきです。今一度、冷徹なご判断を」
「……そうだな。ありがとう、三輪」
蒼真は力なく頷き、自らの甘さを心の中で戒めた。理想を掲げることと、無責任にテロリストの土俵に乗ることは違う。分かっているつもりでも、自分の言葉が発端となって命が奪われているという事実が、重く胸を締め付けていた。
二
車は定刻通りに内閣府の地下駐車場へと滑り込んだ。
午前の部である内閣府の顔合わせ会場には、テレビのニュース番組や政治の舞台で馴染み深い顔ぶれの大臣たちがすでに集結していた。どこか探るような、しかし表向きは和やかな挨拶が飛び交う中、蒼真は壇上に立ち、簡潔に就任の挨拶を済ませた。その後、報道陣向けの全体写真撮影をそつなくこなし、午後の討魔庁との打ち合わせまでの間、与えられた自身の執務室へと戻ることになった。
重厚な扉を開け、一歩足を踏み入れると、そこには静寂に包まれたプライベートな空間が広がっている。
蒼真は、この執務室にしつらえられた専用の革張りの椅子が大好きだった。疲弊した身体を預けると、まるで全身を包み込むようにフワッと受け止めてくれる。その座り心地の良さは、ピリピリと張り詰めた官僚社会の緊張感を少しだけ和らげてくれた。
ふと、心地よい沈黙を破るように、控えめなノックの音が響く。
「トントン……」
「どうぞ」
入ってきたのは池田だった。彼女は手元のトレイに、湯気を立てる上品な緑茶のカップを乗せている。
「お茶をお持ちしました」
「あぁ……ありがとう。本当に助かるよ。ところで、皆のお昼ご飯はどうするの?」
「私と三輪さんは、この建物の地下にある職員食堂で軽く済ませる予定でおりました。もし差し支えなければ、神代大臣もご一緒に如何でしょうか?」
「あぁ、是非そうしたい。息抜きも必要だね」
蒼真が快諾すると、池田はすぐに三輪へと内線で連絡を入れ、職員食堂の一角で待ち合わせる取り決めをした。
食堂での短い昼食を済ませ、再び執務室に戻った三輪と池田、そして蒼真の三人は、部屋の隅にある応接用のソファに腰を下ろした。少しだけ肩の荷を下ろした空間で、蒼真の頭の中は午後の討魔庁との協議に向けられていた。
「なあ……そもそも、何故、妖は人をおそったりするのだろうな」
静かな部屋に、蒼真の呟きが落ちる。
池田と三輪は、突然の問いかけにわずかにまばたきをした。
「人間と妖は、本当に分かり合えないのだろうか。もしかして彼らは、ただ『やるべきこと』や『生きる目的』を見出せていないだけなんじゃないか?……もしそうなら、彼らに生きがいや、正当な役割を与えてやれば、人を襲わなくなるのではないだろうか」
蒼真の思考はさらに先へと巡る。
「それに、人間の社会と同じように、働いた分だけの正当な貨幣や報酬を与えれば、彼らも不満を抱かなくなるのではなかろうか……」
それはあまりにもナイーヴで、現実離れした理想論だったかもしれない。しかし、蒼真は本気でそれを模索していた。
「これらが、明日明後日にすぐ実現するとは思っていない。だが、今からでも、私たちが少しずつ制度を作り、取り組んでいけば、いつか本当に実現できるのではないだろうか……二人はどう思う?」
蒼真は真っ直ぐに、池田と三輪の顔を見た。
しかし、二人は即答することができなかった。長年、人間の欲深さと妖の凶暴性の境界線を見てきた者たちにとって、その理想があまりにも険しく、危ういものに映ったからだ。
答えに窮する二人の空気を察知したのか、やがて池田が時計に目をやり、静かに立ち上がった。
「……神代大臣。そろそろ、お時間でございます」
「あぁ……そうだな。三輪さん、車を頼む」
「はい、承知いたしました」
三輪は短く返事をすると、先回りして地下の駐車場へと向かった。
三
地下の駐車場には、先ほどと同じ黒いメルセデス・ベンツが静かにエンジンを響かせて待機していた。三輪が運転席のドアを開け、車体をエントランスの最も安全な位置に付け直す。
「お待たせいたしました」
蒼真と池田が後部座席に乗り込み、車は厳戒態勢のなか討魔庁の本部庁舎へ向けて出発した。
しかし、出発の直前、地下駐車場を出発するその瞬間、三輪の背筋に奇妙な悪寒が走っていた。歴戦の護衛官としての第六感が、けたたましく警鐘を鳴らす。
(……何だ、この違和感は)
三輪の鼓動がドクン、と高鳴る。視界の端、コンクリートの柱の影に、不自然に身を潜める二つの人影が見えた。いや、人間のものにしては気配が希薄すぎる。
三輪は即座に車を安全な位置に急停止させ、後部座席の窓を叩いた。
「大臣! 今、警備員の影が二つ……! おかしな動きをしています。危ない、今車を降りるのは待ってください!」
三輪は迷うことなく内線の緊急回線に手を伸ばした。
『こちら、神代大臣の護衛・三輪だ。地下駐車場Bフロア、不審者を発見。どうやら妖が駐車場の警備員に化けて潜り込んでいる。至急、増員と身柄の確保を願いたい!』
無線が鳴り響いた瞬間、暗がりに潜んでいた偽の警備員たちが牙を剥いた。しかし、それ以上に迅速だったのは討魔庁の精鋭たちだ。訓練された警備部隊が影から飛び出し、瞬く間に二人の侵入者を制圧、床に組み伏せて手錠をかけた。
危機一髪のところで最悪の事態は免れた。
その後、三輪の運転するベンツは厳重な警戒の中で討魔庁に到着し、蒼真と池田はそのまま上層部の厳重なセキュリティに守られた大会議室へと通された。
「三輪さん、ここまでありがとう。終わったら連絡する」
「はい、承知いたしました。外の警戒を固めておきます」
三輪と別れ、蒼真は重厚な両開きの大扉をくぐった。室内の長机には、討魔庁の幹部や治安維持の責任者たちがずらりと顔を揃えて待ち構えていた。
緊張感の漂う空気の中で、会議が静かに幕を開けた。
議題の焦点は、やはり今朝発生した連続テロ事件についてだった。
「――テロ犯側は、神代大臣と直接テーブルについて話し合いたいと要求しています。しかし、討魔庁の総意として、神代大臣をこれ以上危険な身に合わせるつもりは毛頭ありません。奴らが百鬼夜行をちらつかせて脅迫していようとも、その制圧と治安維持は我が討魔庁が完全に対処します。……神代大臣、この方針でよろしいですか?」
討魔庁の長官が鋭い視線を向けながら確認を取る。
蒼真は、先ほど地下駐車場で起きたばかりの襲撃未遂事件の気配を思い出していた。奴らは本気で自分を狙っている。話し合いの仮面を被った、ただの暗殺者なのだと。
「あぁ……その通りにして下さい。すべて、討魔庁の皆さんにお任せします」
蒼真は力強く、しかし苦渋の決断を込めて頷いた。
すべての会議が滞りなく終了し、蒼真はスマートフォンを取り出して三輪を呼び出した。
心のどこかで、テロリストの要求を突っぱねたことに対する葛藤が消えたわけではない。暴力には屈したくなかった。もし直接話し合うことができれば、無駄な血を流さずに済むのではないかという未練もわずかにはあった。
だが、今の自分には守るべき立場があり、信じて命を張ってくれる部下たちがいる。
テロを鎮めることは討魔庁に任せる――それが、この試練のなかで蒼真が下した、最初の現実的な一歩であった。
第十八話 了




