神代封呪録・第五章 試練 第一節 百鬼夜行 第十三話 英雄
神代封呪録・第五章 試練 第一節 百鬼夜行 第十三話 英雄
朝の光が薄カーテンをすり抜け、静かに部屋を包み込む。アラームの音よりも先に、微かなざわめきがリビングから聞こえてきた。
身支度を整えた蒼真が台所へと足を踏み入れると、息子の蒼也が食卓の隅でタブレット端末とリビングの壁掛けテレビを交互に見つめ、目を爛々とかがやかせて興奮していた。
「お父さん、すごいよ! ほら、どのチャンネルをつけても、特番ばかりだ!」
蒼也の指し示す画面には、蒼真を知る面々が次々と映し出されていた。かつての剣道仲間のインタビュー、職場の同僚たちの驚きの表情、遠縁の親族からの祝福のコメント。チャンネルを替えても替えても、画面いっぱいに映し出されているのは「神代蒼真」という名前と、大々的な特集の文字だった。日本中がこの一連の騒動に揺れている。
「蒼也、テレビは消しなさい」
蒼真は落ち着いたトーンで言いながら、エプロン姿で料理を並べている妻のレイカに視線を送った。
「朝食を食べる時は、テレビを見ない。それに、朝早くから俺たちのために食事を作ってくれた母さんに失礼だぞ」
「……はーい」
名残惜しそうにしながらも、蒼也は素直にリモコンを手に取り、テレビの電源を切った。静けさが戻った食卓で、蒼真は息子と並んで温かい朝食に箸をつけた。
「ねえ、お父さん。なんだか現実離れしちゃってるけどさ、世間じゃすっかり『英雄』扱いされてるんだよ」
一口スープを飲み、蒼也が輝く瞳で父親を見上げる。
「剣道は全国一位! 妖討伐ランクは特級! 酒呑童子も、大獄丸も、悪路王もぬらりひょんも土蜘蛛も、影法師も……全部、お父さんが倒したことになってるんだ。すごすぎるよ、父さん!」
息子の無邪気な称賛に対し、蒼真は苦笑いを浮かべつつも、どこか遠い目をした。自分自身の体感としては、目の前の日常と、命がけで駆け抜けた戦場の境界線がまだ曖昧だ。
「英雄……か。そう言われても、正直まだ実感が湧かないな」
「ふふ、でも事実でしょ? さ、冷めないうちに食べてちょうだい」
レイカが優しく微笑みながら、蒼真のコーヒーカップにそっとお代わりを注いだ。その温もりに触れ、蒼真は小さくうなずく。
やがて朝食を終え、出かける準備を整えた蒼真が玄関に向かう。
「それじゃあ、行ってきます」
蒼真が声をかけると、レイカは玄関先まで見送りに来て、柔らかく微笑んだ。
「行っていらっしゃい、あなた。……気をつけてね、愛してるわ」
「ああ、行ってくる」
背中に向けられた妻の温かい視線を感じながら、蒼真は少しだけ照れくさそうに頭をかき、討魔庁へと向かう足取りを強めた。
討魔庁の本部ビルに近づくにつれ、ただならぬ熱気が肌に伝わってきた。
正面玄関付近には、連日押し寄せている報道陣やカメラマンの姿が黒山の人だかりを作っている。フラッシュの光とマイクを向け合う記者たちの声が遠巻きに響いていた。正面突破は得策ではないと判断した蒼真は、足慣れた裏手へと回り込み、職員専用の裏玄関からひっそりと入庁した。
自分のデスクに腰を下ろした瞬間から、平穏な時間は容赦なく打ち砕かれた。
内線電話のベルが、まるで終わりを知らないかのように鳴り響き続けている。周囲の職員たちも対応に追われ、フロア全体が慌ただしい緊迫感に包まれていた。
「はい、神代の件でございます。本件につきましては、すべて広報部へお問い合わせください。窓口の電話番号は――」
ひっきりなしにかかってくる問い合わせに対応する同僚の姿を見ていると、申し訳なさで胸が締め付けられる思いだった。自分のせいで、周囲にこれほどの負担をかけてしまっている。
そう思いながら自分のデスクの受話器を見つめていると、まさにその直後、手元の内線電話が鋭く鳴り響いた。
受話器を取る。
「――あぁ、神代君か。今から、最上階の応接室に来れるか?」
「……はい、ただちにお伺いします」
相手は名乗らなかった。だが、名乗る必要すらない。その声のトーン、そして周囲の空気を凍らせるような圧倒的な存在感だけで、電話の主が討魔庁の枠を超えた、国家の中枢に関わる人物であることを直感させた。上層部の、さらにその上の階層。
蒼真は一度大きく息を吸い込むと、制服のネクタイをしっかりと締め直し、身なりを整えた。
廊下を歩く足音が、やけに重く響く。
応接室の重厚な木の扉の前に立ち、二度、静かにノックをした。
「入れ」
扉を開けて足を踏み入れた瞬間、蒼真は思わず足を止めかけた。
そこに座っていたのは、テレビや新聞で毎日見ない日はない人物だった。誰もがその顔を知る、日本国内閣総理大臣その人である。部屋の隅には数名の側近や、討魔庁の最高幹部たちが緊張の面持ちで控えていた。
「君が、噂の神代蒼真君だね! よく来てくれた。まずは、我が国を救ってくれたこと、心から感謝するよ。直接顔を見てお礼を言いたくてね、今日はこうして足を運ばさせてもらったんだ」
総理大臣は温和な笑みを浮かべながら立ち上がり、自ら歩み寄って力強い握手を求めてきた。
「もったいなきお言葉です。お忙しい中、ご足労いただきありがとうございます」
蒼真は直立不動で礼を正した。国家の最高権力者が自らここまで出向いてくるとは予想もしていなかった。
「いや、礼を言わねばならないのはこちらの方だ。さて、君の時間を長くは奪わない。今日、私が君を直接訪ねたのには、大きく分けて二つ、重要な理由がある」
総理大臣は席に戻り、静かに蒼真を見据えた。その瞳には、政治家特有の鋭さと、一人の人間としての敬意が宿っていた。
「一つ目は、政府として君の功績を称え、『国民英雄賞』を授与したい。これには異論のある者は誰もいない。ぜひ、受け取ってほしい」
「……光栄です」
「そして、二つ目だ」
総理大臣は少し間を置き、さらに真剣なまなざしを向けた。
「現在、妖異災害はもはや討魔庁だけで対応できる規模ではない」「防衛省、自衛隊、警察、討魔庁を統合した新たな国家安全保障体制が必要になる」
「その象徴として、君に防衛大臣を頼みたい」
「現在空席となっている『防衛大臣』のポストに、君に就任してもらいたいと考えている。我が国の、そして世界の変革期において、君のような圧倒的な力と強い意志を持つ人物にこそ、この国の安全保障の舵取りを任せたい。如何かな、神代君」
部屋の空気が一瞬で張り詰めた。
防衛大臣。一介の討伐官である自分が、一国の閣僚、それも防衛の最高責任者になる。それは想像を絶する重責であり、これまでの日常とは完全に決別することを意味していた。
しかし、蒼真の脳裏によぎったのは、戦いで散っていった仲間たちの顔や、守るべき家族たちの笑顔だった。
「……ありがとうございます」
蒼真はまっすぐに総理大臣を見据え、はっきりと告げた。
「その二つのお話、謹んでお受け致します」
自らの口から発せられたその言葉の重さに、蒼真自身がわずかに驚いていた。しかし、迷いはなかった。
その瞬間、応接室にいた上層部や側近たちから、割れんばかりの拍手が巻き起こった。
「決まりだな。では、直ちに正式な手続きへと話を移行させてもらうよ」
総理大臣の力強い声に合わせ、部屋に控えていた上層部全員が、一糸乱れぬ動きで内閣総理大臣に対して敬礼をした。蒼真もまた、新たな覚悟を胸に秘め、静かに、しかし力強く敬礼を返すのだった。




