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めえめえと、羊が遠くで鳴いている。
学園を飛び出し、馬車に飛び乗って実家のパントーニ領に帰ってきてから数日。
驚く父に、領地のことが心配でと伝えると「本当にファーラは領地が好きだねえ」と嬉しそうに微笑まれた。そして、ふと思い出したように手をポンと叩く。
「ああ、そうだファーラ。お前が学園から戻ってきたなら丁度いい。隣領の男爵家の次男坊なんだがね、お前と一度お見合いをしたいと──」
「絶対に嫌です!!!!」
「ひぇっ!?」
いつもなら「今はまだちょっと……」と適当に濁すところなのに、地鳴りのような大声が勝手に出ていた。父が本気でビクッと肩を揺らして怯えている。
「お見合いなんてしません。誰がなんと言おうとしませんからね!そもそも何ですか隣領の次男坊って!パントーニの小麦の何を知ってるんですか!一緒にパンを丸めたこともないくせに!!」
「う、うん? パン……?」
「とにかく!私にそういう話を振らないでください!!」
フンスフンスと鼻を鳴らしながら、困惑する父を置いて自室へとはらわたが煮えくり返る思いで戻った。ベッドに倒れ込み、枕に顔をうずめてジタバタと足を動かす。
なんであんなに怒ってしまったんだろう。父は悪くないのに。脳裏に焼きついて離れないのは、あの思い出深い厨房で、『僕と結婚すれば、復興資産が出る』と言い放ったシエルの姿だ。
領地のためを思うなら、あの手を取るのが正しい令嬢だ。パントーニが救われるなら、泣いて喜んで、義務でもなんでも婚姻届にサインすべきなのだ。
──なのに、どうして私は逃げ出してしまったんだろう。
責任だなんて、そんな冷たい言葉で、シエルに一生を縛り付けられるなんて嫌だと思ってしまった。
「私、シエルさんのこと……第二王子のこと、利用したかっただけのはずなのに……」
義務で結婚されるのが嫌だなんて、そんなの、ただの我儘だ。
いつの間にか、領地のためではなく、一人の女の子としてシエルに「好きだから結婚してほしい」と言われたかったのだと、パントーニに帰ってきてようやく気づいてしまった。
──動いてないから余計なこと考えるんだ。
半ば逃げるように働いた。朝は羊の世話をして、昼は畑を見に行き、夕方には復興途中の道の確認をする。瓦礫の撤去は進み、新しく建て直された柵も増えていた。人々は少しずつ、前を向いている。
「お嬢様、おかえり!」
「ファリーナ様、学園はどうです?」
「パン、また焼いてくださいよ!」
声をかけられるたび、胸が痛くなる。学園。その言葉だけで、黄金に輝く麦穂の髪が脳裏に浮かぶのだから重症だ。
「……もちろんです!」
「やった!」
「うちで作るパンも美味いけど、お嬢様のは別なんだよなぁ」
「また子どもら集まりますね」
無理やり笑って答えれば、皆嬉しそうに笑ってくれる。 それが救いで、同時に苦しかった。
私は領主の娘だ。この人たちの生活を守るのが役目だ。 なのに今は、畑を見ながら「ここをシエルさんが見たら何て言うだろう」なんてことばかり考えている。
重症だ。本当に。
その日の夜。 持ち帰った課題を広げ、机に向かった数分後、盛大に突っ伏した。
「むり……」
課題の題名は、『辺境復興における中央貴族との連携と支援について』。
嫌がらせか?しかも参考事例の欄には、王族による現地視察や、中央との婚姻による支援強化などと書かれている。
「ぅうううう……!」
机に額をごんごん打ちつける。結婚。 婚姻。 支援。 王族。見事なまでに全部シエルに繋がる。インク壺の横には、学園から持ち帰ったノートが積まれていた。 その一番上には、騎士科との合同授業で取ったメモ。
『筋トレの後は必ずストレッチ』『体を動かした後は塩分が必要→塩気多く?』『力をこめるのではなく、相手の力を利用すること』
ぱたり、とノートを閉じる。駄目だ。 何を見ても思い出す。
「……会いたい」
ぽつりと零れた声に、自分で固まった。違う。 会いたいんじゃない。 会ったらまた振り回される。 あの人はきっと、悪気なくまたとんでもないことを言う。胸の奥がじくじく痛む。
その時だった。こんこん、と部屋の扉が叩かれる。
「ファーラ? 起きてるかい?」
父の声だ。
慌てて涙の跡を消し、「はい!」と返事をすると、父はそっと扉を開けた。
「学園のお友達から、お手紙が届いてるよ」
差し出された封筒には。見覚えのある、癖のある字が並んでいた。




