24
呆然としたまま寮の部屋に戻る。探していた第二王子が、シエルだった。意味が分からない。
次の日、朝練には行かなかった。─行けなかった。
今さらどんな顔をして会えば良いのだろう。領地の今後も気がかりだというのに、頭が働かない。
王族。 雲の上の存在。 本来なら、気軽に話しかけることすら許されない相手。それなのに私は、パンを捏ねさせて、無理やり朝練に付き合わせて、一緒に泥だらけになって。
不敬にも程がある。
いつもだったらとっくに起き出して動いてる時間だが、ベッドに突っ伏して枕に顔を埋める。
領地では、泥だらけで一緒に戦って、焚き火を囲んで笑って、水を渡してくれて『参謀殿、最高の作戦だった』って笑ってくれた。
あの距離は、物理的にも、心理的にも、すごく近かった。でも。
第二王子殿殿下、と呼んでいた声が耳に残ってる。あの人、王子様だったんだ。王宮の人で、第一王子様の弟で、王様の息子で。辺境の穀倉地帯の娘が、気軽に話しかけて、鍬に興味ある?って言って、パン渡して、筋トレ一緒にやって。バカみたい。
(王子様に、そんなこと……)
思い返せば返すほど、穴に埋まりたくなった。
なのに。
『君の大切なところだろ。守らなくてどうする』
あの声だけは、どうしても頭から離れてくれなかった。
◇◇◇
それから数日間は、地獄のような気まずさだった。
第二王子が中心となって魔獣を倒したという噂は一瞬で広まり、中庭でも廊下でも、彼は常に大勢の生徒たちに囲まれていた。シエルが第二王子ということは常識のようだった。今までシエルが遠巻きにされていたのは、王妃からよく思われていないから、ということをここにきて初めて知った。
遠目で見たその姿は、制服を着こなし、いつもの不機嫌そうな冷徹さを纏っていて、本当に別の世界の住人のようだった。
みんなが彼を殿下と呼び、崇める。
あの、小麦粉だらけになって不器用そうにパンを丸めていたシエルさんは、どこにもいなかった。
彼だけじゃない。騎士科の皆とも、どんな顔をして話せばいいのか分からない。
廊下でガイルやルークを見かけた瞬間に全力で回れ右をして逃げ、放課後の売店では基本裏方に引きこもった。何も言わずにいてくれる、先輩の優しさに甘えて。
今日も、黄色い歓声が上がってシエルが売店に近づいてくることが分かった瞬間、私は裏口から脱兎のごとく逃げ出した。
「はぁ、はぁ……っ、ここまで来れば……」
一般生徒があまり立ち入らない、本校舎の裏手。
冷たい壁に背中を預け、必死に呼吸を整える。怒っているわけじゃない。騙されたと恨んでいるわけでもない。ただ、自分の身分の低さと、今まで働いてきた不敬の数々が恐ろしくて、ただただ合わせる顔がないだけなのだ。
自分の情けなさに涙が出そうになった、その時。
ジャラジャラと、豪奢な装飾品の擦れ合う音が静かな裏庭に響いた。
「おや。こんなところでお嬢さんが縮こまっていると思ったら」
心臓が跳ね上がった。
声のした方を見上げると、そこには華やかで、眩いほどの金髪を揺らした青年が立っていた。取り巻きの生徒たちを従えて、貴族然とした笑顔を浮かべている。取り巻きの一人が厳めしい顔で前に出てきて口を開いた。
「控えろ、第一王子殿下だぞ」
弾かれたようにその場に跪き、頭を地面に擦り付ける。
「っ、お、お初にお目にかかります……!」
「顔を上げなよ。君が噂のパントーニ子爵令嬢だろ? シエルがわざわざ自分の手柄を捨ててまで、君の領地を救ったと聞いたよ」
上から降ってくる男の声は、驚くほど軽薄で、そして冷たかった。
自分の手柄を捨ててまで救うとは、何のことだろう。
「……ずいぶん、平々凡々とした女の子なんだね」
「……え?」
思わず顔を上げると、第一王子は本当に不思議そうに、小馬鹿にしたような笑みを浮かべて私を見下ろしていた。
「いや、ただの純粋な疑問なんだ。君みたいな娘の畑を助けて、あいつに何の得があるんだろうと思ってね。せっかくの討伐の功績をそんなゴミみたいな土地の復興資金に換えるなんて、ただでさえ低いあいつの王子としての価値をさらに下げるだけなのに。本当に無駄なことをするものだ。まあ人気取りかな」
「とはいえ、ノーチ殿下の王位は揺るがないでしょう!」
「はは、ありがとう。まあ、どんな子なのか興味あったから会えてよかったよ。それではね」
足音が遠ざかっていく。
──ゴミみたいな土地。
──無駄なこと。
第一王子の言葉には、悪意すら無かった。彼はただ、本気でそう思っているのだ。価値のない辺境のために、弟が価値を下げた。それが滑稽で、不思議でたまらない、という風に。
大好きなパントーニの土地を、領民たちの血の滲むような努力を、ゴミと言われた。
そして。功績を、復興資金に変える?知らない話だ。そのせいで、シエルの立場が悪くなったんだとしたら。
悔しさと、ショックと、言い返せない自分の身分の低さに、拳が白くなるほど握りしめられる。視界が滲んで、地面の土が歪んで見えた。




