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学園の、あの香ばしい小麦の匂いや、騒がしい騎士科の連中の声が、遠い夢のように思えるほど、城の空気は冷たく淀んでいる。豪華絢爛な装飾は自分を閉じ込める檻の柵のようだ。
シエルは、王城に帰ってきていた。理由はひとつ。呼び出しがあったから。
侍従に案内されるまま、謁見の間にむかう。
廊下ですれ違った侍女は、シエルを見るなり深く頭を下げた。だがその目は、どこか怯えている。
─昔からだ。
自分は、王妃の機嫌を損ねる存在だった。
謁見の間にたどり着くと、中には想像していた通り母と兄。
母はこちらの顔を見るなり、溜息をついた。
「学園で変な噂が流れているそうね、シエル。なんでも、どこかの貧乏子爵の令嬢のお世話を焼いているとか?……この子の大事な時期に、恥をかかせるような真似はやめて頂戴。次期国王の弟がパン屋の助手だなんて、冗談にもならない。朝パンを焼いたと聞いたときは耳を疑いましたよ」
「母上、そう責めないであげてください。シエルはあの日から殻に籠るようになったのに、ここまで心を開いているんですよ?」
「そうはいってもねぇ…」
あの日という言葉に視界が不意に赤く染まり、耳元で乳母の悲鳴がリフレインする。パチパチと、あの日兄が放った魔術の爆ぜる音。白い床に広がる赤。何度声をかけても動かない乳母。
指先が冷たくなり、魔力を練ろうとしても、霧散していく感覚。
ああ、そうだ。僕はお前たちの望み通り第一王子の劣化品。目の前の大切な人すら守れなかった、木偶の坊。
心を殺して二人の会話を聞き流していると、ふと視線がこちらにも向けられた。
「まあ、何にせよ良かったじゃないか、友人ができて。乳母のことがあってから黙ってばかりだったもんな」
「田舎子爵令嬢よ?全くなんの役にも立ちやしない」
反論するつもりなんてなかった。いつものように、黙って聞き流してればいい。なのに。
脳裏に、一生懸命にパンをこねる彼女の手が浮かぶ。子羊三杯分なんて無茶苦茶な説明をして、美味しくなれと笑っていた、あの顔が。
「…ファリーナです」
「え?」
「ファリーナ・パントーニ。彼女のことを悪く言うのは、止めていただきたい」
また扇や魔術が飛んでくるかも、と思った時にはもう言いきっていた。
貧乏なのも田舎なのも事実だが、なんの役にも立たない?それはあまりにもそぐわない言葉だ。
王妃は眉を寄せた後、ふん、と鼻をならした。
「昔から妙に情が深いところだけは変わらないわね」
「まあまあ。あの時のことがないようにしっかり守れよ、シエル」
「………はい」
苛立ち。怒り。絶望。よりによって、おまえが言うのか。魔術暴走を起こしたのは、お前だろう。
言いたいことを全て飲み込んで、静かに退室する。握りしめた拳で突き刺さる指が、いたかった。
その時、張り詰めた空気を切り裂くように明るい声が響いた。
「シエル兄上!」
「ルーカスか…」
弟がそばに寄ってきていた。いつもは一癖も二癖もある胡散臭い笑みを浮かべているのに、今日は素直な笑顔だ。
「婚約者とお茶会でもあったのか?」
「え?来ていませんが」
「そうなのか、嬉しそうだから来ていたのかと」
溺愛する婚約者関係かと思ったが違うらしい。はて、と首をかしげると弟は一層笑みを深くした。
「最近楽しそうですね」
「は?」
「侍女たちが噂してましたよ、朝練だとかパンだとか」
「おまえ、盗み聞きしてきたのか…」
「やだな、情報収集ですよ」
さらっと流し、お得意の笑みを浮かべられた。そう、こっちの方が見慣れている。
「…振り回されてるだけだ」
「ふふふ」
「何だよ?」
「兄上が」
「僕が?」
「兄上が楽しそうで良かったなって。それだけです」
しみじみと言われて、なぜかファリーナを思い出す。
あの小麦の匂いがした気がした。




