1.港区高輪四丁目
品川駅高輪口を出て、目の前の国道十五号線を南へ二百メートルほど歩くと、小さめのオフィスビルが数軒並んでいる。
その間を少し裏通りに入り込んだところに建っている白壁がくすんだビルに、公務員駿河晶の勤め先がある。
入口には「独立行政法人生態保健研究機構」と彫られた金属プレート。
表側に受付や守衛室を構えるような立派なオフィスではない。
エントランスホールと内側のエレベーターホール、二度ICカードを読み取り機に当てるだけ。
エレベーターで向かうのは五階にある自分たちの職場。
事務室の入口には部署名を表す表示はなく、関係者以外の立ち入りを禁じる旨を長々と説明したプレートが貼ってある。
この部屋の解錠ももちろんカードリーダー。
「おはようございます」
紺色のビジネススーツに身を包んだ、細身で短髪の女が部屋に入った。
室内は広い割に机が少ない。
壁際に置いた長机で事務作業を行うため、かつての企業で見られた灰色の事務机は二台のみ。
正規職員が少なく、さらに外回りの多い職場でもあり、困ったことはない。
「おはよう。珍しくゆっくりだな」
奥の机で何か作業をしていた髪の薄い男が片手を挙げて挨拶を返した。
男はチラッと顔を上げたが、すぐに机に視線を落とす。
「ええ、朝ランニングしてたらご近所さんと長話しちゃって。娘さんが女子校に通ってるんですけど、同級生と急に連絡が取れなくなったとかいう話を聞いてたらいつの間にか三十分」
「そうか、ご近所付き合いは大切だけど、大変だよな。そういや、今の時代も世話焼きおばさんいるのか? ほら、お見合いしないかとか言ってくる人」
女は壁際のロネオキャビネットに鞄を置き、中から細長いドリンクボトルを取り出した。
「いますいます! アキラちゃん若い内にいい男捕まえなきゃダメよ〜って。でも紹介されるのは会社役員だとか個人経営者とか、年上の人ばっかりなんですよね。お節介は嬉しいんですけど」
「まあ、サキュバスに年上男は鬼門……だな」
「体力のピークが合いませんからね……」
サキュバスとはまさに今喋っている女のことである。
駿河晶、三十一歳、元自衛官。
身体能力と容姿に恵まれたため複数の部隊から求められる人材だった。
しかしその特性によって数々のトラブルを招き、六年で退職した。
その後事務職や水商売など短期間に転職を繰り返したり、犯罪組織で用心棒のような仕事をしていたところ、スカウトされてこの職場に落ち着いた。
俗称としてのサキュバスは、決して比喩に留まらない。
人間の身でありながら、男の精——未解明の生体エネルギーを吸収しそれを栄養として健康と若さを保ち、生き永らえる。
また効率的な「吸精」のため、視線や声を通して、催淫や魅了といった催眠能力を操る。
身体能力は常人を優に超え、筋力や持久力などは各年代女子平均値の二倍に達する者もいる。
「年下が好みって言ってもダメなんだろうな、そういう人は。きっと、若くて見てくれのいいお嬢さんを、それなりに地位のある知り合いに紹介して株を上げたいのかもしれん」
「あー、たぶんソレだと思います。もしかして、班長もやられたことあります?」
班長と呼ばれた男は、ニヤリと笑いながら薄くなった頭をポリポリとかいた。
「しょっちゅうだよ。私が公務員だと知ってる人たちが、よく話を持ってくるんだ。女子大を出たものの長らく家事手伝いの子や、子供が学校に行く年頃のシングルマザーだとか」
彼らは厚生労働省に所属している。
外に看板を掲げている独立行政法人の職員ではなく、業務の都合上出向という形になっている。
もっとも、それも書類上の建付けに過ぎない。
「紹介なら、受けちゃえばいいじゃないですか?」
アキラは悪気なくそう言った。
五十がらみで独身である班長の事情を知っているからだ。
「まあ、悪い話じゃないのは確かだが、あいにく間に合っててね」
「これはこれは、おみそれしました」
髪は薄くなっている班長だが、顔立ちは悪くない。
背も高く筋肉質で、おまけに喋りも上手い。
幅広い年代の女性から好かれるのも頷ける。
警察官僚だったところを上司が引き抜いてきた。
出世コースからは外れていたらしいが、すぐに仕事に慣れ、アキラのような部下も使いこなしている。
ちょうど電話が鳴り、すぐさま班長が受話器を取った。
「お電話ありがとうございます、あなたの町の本格中華、上海亭でございます……ああ室長、おはようございます。本日も異状ありません」
中華料理屋を名乗るのはこの職場特有の符牒だ。
相手方も合わせて特有の暗号名を名乗る。
三丁目の高橋さんなら室長。
予約の○○さんは班員。
単なる遊び心ではない。
彼らの職場が存在そのものを含めて秘匿されているから、部外者を弾く必要があるのだ。
「……わかりました。至急調査にかかります。はい、ちょうど彼女が手空きなので、現地へ向かわせます。それでは、失礼いたします」
しばらくして電話を終えた班長がノートパソコンを開き、短くキーボードを叩いた。
「駿河さん、ちょっと出張を頼まれてくれ。珍しく外からの依頼でね」
「外から? 室長のコネですか?」
興味が湧いたアキラは机を回り込んで班長の横に歩み寄った。
班長も嫌がることなく、パソコンの画面をアキラの方へ向けながらメールソフトを開いて見せる。
「不審な失踪人だ。高校生で、君と同じサキュバスだ」




