18.悲しみと怒り
現場の倉庫に入る前、刑事部長がアキラを振り返って言った。
「いい? あなたは本来ここにいる人間ではない。だから何をしても咎めないけど、一つだけ約束して。鷲山の体に傷を負わせないで」
「はい。それなら……いいんですか?」
「ええ、いない人間が何をしていても知ったことではないから」
刑事部長が笑っていたが、子供がイタズラを仕掛ける時の笑みだとアキラは思った。
裏口から中に入ると、狭い通路が続いていた。
さらに先が倉庫内部となっている。
事務所から引っ張り出した鷲山や、負傷者はそこへ集められていた。
銃撃が激しかったため、太ももを撃ち抜かれて立てない組員や、腹部の銃創を押さえて呻く組員もいる。
遠くから救急車のサイレンが聞こえるが、全員が生きて病院に辿り着けるか、アキラにはわからない。
鷲山は倉庫の中央にあぐらをかいて座っている。
後ろ手に手錠をかけられているせいか、暴れることはない。
その代わり声だけは威勢よく喚いている。
「おみゃーさんらよぉ、誤認逮捕だで、はよぅ放しゃあ、こんたわけがぁ!」
私服刑事が何人もいるが、誰一人鷲山を見ようとしない。
刑事部長と小声で話し込んでいる。
アキラはさっそくみじめな虜囚の顔を拝むことにした。
喚き散らす鷲山の正面に回り込み、しゃがんで顔を覗き込む。
「な、なんきゃあ、おみゃー」
坊主頭には複数の傷跡があり、顔つきは厳つい。
今時鯉口シャツに腹巻を身につけた時代錯誤なヤクザだ。
刑事部長の言葉がなければ、叩きのめして被害者の居場所を吐かせるところだが、さすがにこれだけの手間をかけてくれた県警に迷惑はかけたくない。
アキラはすうっと右手を伸ばした。
鷲山の顔に触れる直前、素早く中指で「デコピン」を放つ。
さすがの総長どのも怯んだのか、一瞬目を瞑った。
その瞬間手首をクッと逸らし、顔に沿って素通りさせ、頭の後ろに振り抜いた。
つまり、空振りさせたのだ。
鷲山が声を張り上げる前に、今度は右手でビンタを張った。
もちろん肌の直前で手を逸らし空振りさせる。
周りから見ても、鷲山本人にとっても、アキラの手が頭部をすり抜けたように見えたことだろう。
「おっかしーなー、やっぱ生きてる人間には当たらないのかぁ」
アキラは幽霊の振りをしているのだ。
激昂した鷲山は刑事たちに食ってかかる。
「何だこの女ぁ! はよどっか連れてったらんかぁ!」
刑事部長が振り返り、冷静な表情と低い声で鷲山に答える。
「この女って誰? ここに女は私一人しかいないけど」
「何言いよんか、目の前におろうが!」
「どこに? 頭に血が上って幽霊でも見たんじゃない?」
刑事たちまでもがアキラの悪乗りに付き合いはじめた。
「総長さんよ、わしら霊感やらにゃあがよ、この辺はヤクザもんにマワされて死んだ娘の幽霊が出るでよ、おなごの霊にゃ逆らおうちゃならん」
「な、なんじゃそらぁ、警察が幽霊やら言うんか!」
「そらぁ、仕事柄な、無体なホトケさんに会うことが多いもんで」
鷲山の顔は青ざめ、唇が震えている。
アキラをマジマジと見たかと思いきや、目を逸らして黙り込む。
立ち上がったアキラはその顔にローキックを叩き込んだ。
今度ももちろん「空振り」だ。
足先で顔を上手く避けるのは難しいから頭の上を蹴っただけだが、顔に向かってきた足が一瞬で頭の後ろに振り抜かれた鷲山は、またしても「すり抜けた」と思ったに違いない。
その証拠に、震えは全身に及び、顔を伏せてブツブツと何かを呟いている。
近づいて聞いてみると「南無阿弥陀仏」と繰り返していた。
笑いそうになったアキラだが、冷静に考えると腹が立った。
大犯罪に関わっておきながら、自らは幽霊一人を前にして助命を乞うのだから。
鷲山が目を瞑っているのをいいことに、音を立てないように後ろに回り込んだアキラは彼の耳元で囁く
「残念だねぇ、みんなオバケは見えないんだって」
頭をグルングルンと回しながら、なおも鷲山は念仏を唱え続ける。
わざと足音を立てながら前に回り込み、腰からマカロフを抜いた。
その気配で一瞬顔を上げた鷲山が後ずさる。
「殴っても蹴っても当たらないんだし、これでも死なないのかな」
「ひっ、やめ、やめてくれ……刑事さん、おば、オバケが……」
刑事部長が冷たい声で返す。
「幽霊なんているわけないでしょう? 静かにしてて」
カツカツと足音を立てながら、刑事たちと一緒に歩き去っていく。
「ヤクザに犯された時、怖かったなぁ。誰も助けに来ないから、顔やお腹を殴られて、泣いても泣いてもやめてくれなくて、声が枯れて、せめて終わったら帰れると思ったのに、海に捨てられて……泳げないのに」
「知らんて! わしにゃなんも関係あらせんがや!」
鷲山の声はもはや悲鳴に近い。
アキラの話は作り話だ。
刑事が言った「ヤクザに輪姦されて死んだ娘の霊」になりきってみたのだが、演じているうちに本当に目頭が熱くなった。
別に目の前の男がそれを行ったわけではないにせよ、腹が立つ。
アキラはマカロフの銃口を鷲山の顔面に向けた。
視界が歪んでいる。
溢れた涙が頬を伝っていくのがわかる。
「た、助けて……もう、許してくれ……」
鷲山の腰の下に水溜まりができている。
失禁したから許すという道理はない。
アキラは撃鉄を起こした。
そのカチリという音に、鷲山は発狂したように叫んだ。
「もう、もう堪忍してちょー! もうええがや! なんでも言う! なんでも言うで、やめてちょー!」
大の男が、知多半島の大部分を縄張りとするヤクザの親分が、恥も外聞もなく泣き喚いている。
アキラはその姿を鼻で笑い、引き金を引いた。
ガチーン、と撃鉄の落ちる音が倉庫に響く。
鷲山が再びアキラを見上げた。
銃弾が放たれなかったことに希望を抱いたのか、少しだけ表情が明るい。
最後に追い討ちをかけるべく、アキラは腰を屈めて鷲山の耳元で小さく囁く。
「弾は出ないよ。全部私のお腹の中だから」
鷲山は大きな体をビクッと跳ねさせ、うなだれたまま動かなくなった。
***
倉庫の裏口を出て指揮車の陰で座り込んでいるうちに、ようやくアキラの心も落ち着いた。
さすがに感情移入しすぎた、とは自分でも思っている。
それが輪姦された娘に対してなのか、それとも百六十二人の拉致被害者に対してなのかはわかっていない。
「お疲れ様」
刑事部長が戻ってきて声をかけた。
「名演技だったわね……すこし熱くなり過ぎたみたいだけど」
「ごめんなさい。せっかく調子を合わせてもらったのに」
「でも大成功よ。船の名前、場所は聞き出した。もう昨日のうちにここからコンテナで港に運び込んでたんですって」
アキラの胸が高鳴った。
「じゃあ、これから港ですね!」
「それがね……」
刑事部長の顔は曇ったままだ。
少しだけ逡巡の様子を見せた後、彼女は口を開いた。
「昨夜出港したそうなの。予想通り内航船だけど、本当に航路上にいるかどうかも……」




