強化されし万業塊
「じゅ、朱里亜……」
振り返る朱里亜の怪しく光る眼からつぅっと伝う雫。
一瞬泣いているのかと思ったが、違う。
それは毒々しいまでの赤色をしていて、倖を見ると裂けた口でニンマリと笑った。
同時に、ウェアウルフ型の影にも変化が生じる。
全身は黒一色から濃い茶色に染まって。
棘のような体毛を露わにし、鋭い爪と牙は刃のような鋭い銀色に輝き出す。
瞳は血のように赤黒く色付き、より一層狂暴な悪意を曝け出す。
黒い殻を破り捨て、この世に生まれ出でてきたことを歓喜するかのように、悲鳴のような遠吠えで大地を響かせた。
「……駄目」
「え?」
それを見た女郷守が、震える声で告げた。
その言葉を聞いて女郷守を見上げると、その美しい顔からは玉のような汗が次々と滑り落ち、肌色は白を通り越して蒼白。唇は紫色に変色しカサカサになっていた。
「あんなの、無理。あたしじゃあ……あたし一人じゃあ、手に負えない!」
「えっ!? え、え、な、なんで? どういう……」
「見てわからない!? あの少女に取り憑く万業塊は、少年に取り憑いていた分を喰らって取り込んだ! こんな、こんなことってありなの!?」
不可思議な力を持つ郷守という存在から聞く一切余裕のない表情と弱音。全身を危険信号が駆け巡る。
「そ……それってつまり、相当ヤバいってこと?」
「力は倍、いえ、それ以上に強くなってるってことよ!」
尋ねた以上の、明確な答えであった。
二人の焦りを感じ取ったか、ウェアウルフは大きな口角を持ち上げ笑い、朱里亜の体を操って地面を蹴った。一瞬、ウェアウルフの姿が消えたような速さだった。
気づけば、目の前に大きく振り被る太い腕。
「くっ!」
女郷守は鎖鎌を交差して防御する。鉄の塊と塊が激突する高音。
その衝撃音が波のように響いてびりびりと肌を揺らす。
女郷守の腕には幾重にも血管が浮かび、足が僅かに地面にめり込んだ。
倖は女郷守の脇から刀を突き出す。
切っ先はウェアウルフの体に触れたが、岩にでも突き立てたかのように弾かれ、逸らされる。
女郷守が両足を揃えて跳躍、ウェアウルフの顔面目掛けてドロップキックを浴びせる。
ぐりゅんっ、とウェアウルフの首が三百六十度回転したように見えたのは気の所為だったのだろうか。
駐車場の一角にある駐輪場に吹っ飛ぶ朱里亜とウェアウルフ。
あ、と思ったが、朱里亜は無傷のようでほっと息を吐く。が、それも束の間。ウェアウルフは起き抜けに手元にあった自転車を掴み、投げつける。
倖と女郷守は同時に地を蹴った。
着地したところで、次、次と砲弾のように飛んでくる自転車。
倖は這う這うの体で避けているが、女郷守は厚みのある雪下駄を履いているというのに身軽で動きが早い。
空中で体勢を整え、袖に引っ込めて出した両手には鎌を持ち、ウェアウルフに投げつける。
鎌は自転車を真っ二つにして相殺され、アスファルトに破壊されたガラクタが無数に転がる。
女郷守の袖からは次々と鎌が出てくるのに対し、今度は投げるものが無くなったウェアウルフが防御に回る。
いや、これは攻撃に見せかけた防御だ。ウェアウルフはたんたんと軽い足取りで避けているのに対し、女郷守の顔には余裕がない。
鎌を余裕で躱し、女郷守に近付いたウェアウルフ。
僅差で避けたが、爪が女郷守の着物と肌を裂く。
倖も加勢しようにも、女郷守の猛攻が妨げている。
彼女が冷静さを失っているのが、倖にも分かった。
「ちょいちょい、女王様落ち着いて!!」
「煩い!」
一喝。女郷守は中国の拝礼のポーズをするときのように袖を合わせ、離すとじゃらりと太く長い鎖。先端に尖った錘があるそれをウェアウルフ目掛けて投げつける。
「あっ!!」
倖はとうとう声を上げた。
目にも止まらぬ速さで飛んで行った鎖はウェアウルフの太い腰に巻き付いたが、その弾道が少しずれれば朱里亜の頭に向かっていたからだ。
当たらなかったことに安堵しつつ、あの剛腕で鉄の塊がぶつかったら……グロテスクな想像を振り払う。
女郷守とウェアウルフの綱引き。秒で終わった悪魔の時とは異なり、ウェアウルフはどれだけ引いても倒れない。
チャンス。倖はウェアウルフの背中に切りかかる。
『ぎゃうん!!』
手応えあり。更にもう一刀、と思ったところでウェアウルフが怒りの籠った目で倖を捉え、極太の腕で薙ぎ払ってくる。
刀で受ける。
振り返りざまの二撃目、正面からくる三撃目も受けた。
続く四撃目を弾き、開いた胸元に向かって刀を切り上げる。
ヒット。裂けた胸元から血の代わりに黒い霧が噴出。それはムンクの叫びのような悍ましい顔が幾つも付いていたが、文字通り霧散した。
「邪魔よ、天野倖!!」
ふ、と頭上に差した影。漁業用の網を象った鎖がウェアウルフだけでなく倖をも飲み込もうとする。
倖は咄嗟に身を引いたが、ウェアウルフは朱里亜の体ごと地面に叩き付けられた。
「朱里亜!!」
「良し!!」
倒れたウェアウルフの向こうから、喜色を浮かべた女郷守が鎖鎌をウェアウルフに……いや、朱里亜に向かって振りかぶる。
その姿を見て、倖は思わず鎖鎌を弾いた。
目を丸くして驚く女郷守。それは倖も同じだった。
「な……何をするのよっ!? 気でも狂った?!」
「あんたこそ何すんだよ! なんで狼じゃなくて朱里亜切ろうとしてるわけ?! 朱里亜を殺す気!?」
「殺さないわよ! あたしらはそう出来てるんだから!!」
「はあ?!」
ばきぃ! と、鎖が割れ、戒めが解かれる。
同時に伸ばされた腕が倖に伸びるが、怒鳴り声で一拍遅れた倖には避けようもない。
当たる!!
そう思ったが、寸でに飛んできた黒い何かによってウェアウルフが吹っ飛んだ。
「——倖!! 無事か?!」
「フジさん!!」
見事な着地を決めた黒い塊はフジだった。
「おーそーいー!! 何してたの?!」
「すまん!」
「フジさん! 良かっ……」
「おリョウ! 何をしとるんだお前は! 何なんだ、あの無様な戦い方は!!」
言い訳せず謝るフジだが、ようやく名前の判明した女郷守――リョウに対しては声を荒げて睨む。
あの、と言うからにはどこかで見ていたのだろうか。ならもっと早く助けに来てよと思ったが、既に謝られているので突っ込み入れない。
リョウがびくっと身を竦ませる光景はまるで上官と部下だ。だが、彼女は負けじと睨み返す。
「お、お言葉ですけど、あんなの、あたしの力じゃ相手にできないんですよ!」
「だとしてもだ! 我々の目的はなんだ!? 無関係の人間を守り、怪異を倒すことだろう! あのように連携の取れない自分本位の戦い方で、この先やっていけると思っているのか! 己の立場を弁えろ!!」
「その子は無関係じゃないでしょう! 三代山の封印を破壊して、里侵を呼び起こしたのは誰だと思っているのですか!?」
「なっ!!」
何故か怯んだフジに視線を向けられる。彼はまだ倖が何も知らないと思っているのだ。
しかし既に自分がやらかしたということはわかっているので。
「もう全て全部私が悪かったのはよくわかったから!! 今は言い争いしてるじゃないでしょうがあぁっ!!」
倖の叫びと、ウェアウルフの咆哮が重なった。
三人の頭上にぬうと影が差す。ウェアウルフは三人を纏めて捕えようとしたのか、腕を大きく広げて掴みにかかる。
しかしそれはフジの光速アッパーカットによって阻まれる。
見事にウェアウルフの顎を捉えた拳。脳天にまでダメージが及んだのか、ウェアウルフ……いや、朱里亜の足はふらふらと足元が覚束ない。
「倖! 女と犬を切り離せ!!」
「え!? りょ、了解!?」
意味は分からなかったが、フジの号令で切りかかる。
ウェアウルフは朱里亜の背中に、腰から上の半身を生やしているような状態だ。
故に、倖はその繋ぎ目に刀を振り下ろした。
『ぎゃうううひいいいいいいいいいがあああああああぎやああああああああっっっ!!!!!!』
獣の悲鳴と人間の金切り声が混ざり合った悲鳴。崩れ落ちる朱里亜の体を受け止め、抱きかかえながら脱兎のごとく獣と距離を置く。
「朱里亜!!」
呼びかけても返事はないが、呼吸を確認して胸を撫で下ろす。
そのまま地面に横たわらせ、すぐさま戦闘に戻る。
切り離された上半身のみの獣は頭を抱えて悶え苦しんだが、すぐさま身を反転、逃亡を図る。
「逃がすな! おリョウ!」
「わかってます!!」
リョウが投じた一本の鎖が幾重にも分かれ、徐々に透けていくウェアウルフを雁字搦めにした。
それを砲丸投げよろしくグルグルとぶん回し勢いをつけ、急に立ち止まったかと思うと背中をエビのように反らせる。
その動きで雁字搦めのウェアウルフは空中で一瞬静止したが、凄まじい遠心力によって朦朧としているのか動きはない。
ぴきぃ、とリョウの腕に血管が走り、幾つかは切れたように肌から鮮血が噴出した。
「うおりゃああああああああああああああああぁぁぁぁぁっっっ!!!!!!」
リョウの全身全霊をかけた全力で、ウェアウルフを数メートル先の地面に叩き付けた。
凄まじい衝撃により、そこにあった車は木っ端微塵、アスファルトに穴を開け、その振動で周囲に置かれていた車が大きく跳ね上がり倒れ、列を崩した。
「やったか!?」
「まだだ!! 止めを刺すのはお前の役目だ。犬の首を落としてこい」
「わーお、フジさんまさかのフラグクラッシャー?」
「訳の分からんことを言ってないで、奴が起き上がる前に早く殺ってこい!」
「いっだ!」
ばしぃっと手加減なく尻を叩かれて、ひりつく箇所を撫でながら渋々向かう。
本当に力を出し尽くしたのか、リョウは地面に崩れ落ち、乱れた髪も直さないでゼーハーと荒い呼吸を繰り返していた。
「だ、大丈夫です?」
「ぜー……あ、あたしの……はー……ことは、いい……から……はー……はやく、止めを……さしなさい……」
「へ、へーい」
まるで犬でも追い払うように手を動かされたので横を通り過ぎる。
——かと思ったら、前方を飛んでいくリョウと目が合った。




