彼女の事情
後に残された微妙な沈黙——時折鼻を啜る音が響いてくるのが、余計にトイレ内の空気を重くした。
(鉄じい……!)
倖とて人を慰めたり助けたりすることは得意ではない——というか、したことがない。
豊富な人生経験を送っている担任や、頼りがいのある雄翔、なんだったらカウンセラーの資格を持つ優しい保健医がいた為、人々はそっちに向かい、勉学や恋愛で悩んだことのない能天気な倖に助言を求める者はいなかった。
(こういう時、どう声をかけるんだ?)
そう自身に問いかけるが、当然のように答えは無い。
不意に全身に走ったぶるりとした感覚で本来の目的を思い出す。
とりあえずはこの用を片そうと個室を見比べる。
四番目は朱里亜が入っている為、一から三番目のどれかを選ぶことになるのだが、三番目はなにかと怖い話が多いので却下。一番目と二番目は変わりはないので、手近な二番目のトイレに入る。
無事何事もなく用を足し、倖が個室から出て手を洗っていても朱里亜は個室から出てこなかった。
鍵は入室を示す赤色のままだし、出てきた音もしなかったが、心配になって個室に近付きノックする。
「あ~……羽間妹、いる?」
いるだろう、と突っ込みをする者はいないが本人からの返事もない。
耳をすませば微かな息遣いが聞こえてくるのでいることはいるのだろう。声を掛けたものの、これ以上話すきっかけは思いつかない。
相手が何かいつもと違うと感じた時、友人であれば盛り上がりそうな共通の話題を切り出すが、朱里亜と共通の話題など無い。
彼女とこんなに多くの時間を共有したのは今日が初めてだ。何か、きっかけはないかと今日の出来事を思い出そうとして、図書館に至るまでの出来事を思い出す。
(そう言えば、まだちゃんとお礼も謝罪もしていない)
もうこれしか思いつかなかった。深呼吸をした後、思い切って口を開く。
「あのさ、こんな場所で、こんな時に言うのもなんだけどさ、さっきはごめん。いつものことで、言い返しちゃったんだけど、全然余計なことなんかじゃない。助けてくれて、ありがとう」
素直に、謝罪と感謝を口にする。
逆に扉越で顔を会わせない方が言い易いし、朱里亜も逃げ場がないので、たとえ耳を塞いでも聞かざるを得ないだろう。
返事はないが、このまま突っ切ることにする。
「て、鉄じいなんだけどさ、悪い人じゃないんだ。ただぶっきらぼうで、不器用な人なんだよ。私が虐められてた時も、こう、あの厳つい顔で威圧感たっぷりに見下しながら『助けてやろうか』とかいってくる人で、私も最初は思いっきり断っちゃったんだけど、鉄じいが得意なのはさりげないフォローというか……。
私の場合、落書きされた机をこっそり交換してくれてたり、持ち物に悪戯しようとした奴らを追っ払ってくれたり……多分、あんたのことをなんとかしようとしてあげてたのは本当だと思うんだ。言い方はあれだけど、とにかく優しい人なんだよ」
返事はない。
「そんな鉄じいが、あんたを助けたいと思ったんなら、あんたは悪いやつじゃないんだと思った。だからさ、私も少しでも手助けができればと思うんだけど……正直、私では頼りないのは私が一番わかってるからお勧めしないけど、私で良ければ話は聞くし……頼りないけど」
大事な事なので二回言っておく。
「とりあえずさ、いつまでもトイレにいるのもなんだし、ここから出ない? 衛生的にも精神的にもよくないし。事務所には羽間兄がいるからあれかもしれないけど、私が一緒にいるからさ……」
……やはり返事はない。
あまりの反応の無さに、一度は外に出て自ら出てくるのを待つことを考える。
しかし、今ここで出て行ってしまっては置いてけぼりにされてしまったと思われたら元の子もない。
トイレの上部は開いている。三番目の個室から中を覗くことも考えたが、無理強いは良くないだろう。どうしようかとトイレ内をぐるぐると回る。
そうして、時間にして数分——倖にしては耐えた方だ。
何の前触れもなくカチャリ、と鍵の開く音が聞こえた。はっとして音をした方を見れば、四番目の個室がゆっくりと開かれる。
そこから、瞼を泣き腫らした朱里亜が俯きながら出てきた。
「や、やあ……」
「………………待っててくれたの?」
「そりゃあ、まあ。助けたいと言った側から放っておけないし……ってえええ!?」
そう答えると、泣き腫らした朱里亜の両目からは、再び滝のような涙が溢れ出す。
倖はあたふたしながら、リュックに詰め込んでいた中からタオルを彼女の顔にあてがうのだった。
ヒックヒックと泣きじゃくる朱里亜の手を引いて、トイレから場所を移し、事務所近くのロビーにあるソファーに腰掛ける。
事務所には兄がいて落ち着かないだろうが、安全面を考慮してあまり離れすぎていない場所と倖が見繕った場所だ。
「と、取り敢えず、落ち着いたら話聞くから……ゆっくり落ち着きなね?」
戸惑いつつも、精一杯の優しさを込めた言葉を掛ける。
朱里亜はタオルに顔を埋めたまま、コクンと頷いて見せた。
暫くすると、彼女の身体が大きく息を吸った。
「——あたし、お母さん、から、き、嫌われてる、の。あ、兄貴は、お母さん似、だから、可愛がられてゆけど、あた、あたしは、六年生の、ときに、離婚した、お、お父さんににて、似てるから……。わ、私はずっと、ずっと、家に、い、居場所、なんて、ないの……」
俯いたまま、途切れ途切れに語られた言葉は、倖の想像を遥かに超えていた。
「ご飯も、せ、洗濯も、ぜん、全部、私の仕事。
お母、さん、兄、貴には、なん、何でも、買う、のに、あ、あたし、のもの、とか、お金が、足りない、ときは……あたしが、働い、てた……」
「え……」
「と、隣の市の、そういう、お店、で、無理やり……。中学生に、み、見え、ない、ようにっ、て……お母さんに、あ、厚化粧させられて……。外では、絶対に、化粧、落とすなって、言われて……さ、逆らったら、な、殴られたり、怒鳴られ、たり……!!」
その時のことを思い出してしまったのだろう。耐えきれなくなったように、朱里亜は腰を深く折り、体を震わせ、声を殺して泣き出した。
かける言葉も思いつかず、相槌も忘れ聞いてきた倖は、そんな様子を見て唖然としていた。
倖は普段一緒に現れる兄妹の姿を思い出す。
確かに仲が良さそうな所を見たことが無いが、そんな理不尽な扱いを受けていた雰囲気は感じたことが無かった。
「……マジで?」
泣いている所に僅かな申し訳なさがあるが、信じ切れずに思わず口にする。
その言葉に、朱里亜はばっ! 泣き顔に怒りを滲ませた顔を上げたかと思うと、立ち上がって制服を捲って背中を見せた。
そこには痛々しい青あざが幾つも見られ、彼女の言葉の真実味が増した。
「ごめん」
謝って、痛々しい身体から目を逸らす。
朱里亜は無言のまま制服を正して再び椅子に腰掛けた。
——重苦しい沈黙。
朱里亜が何を考えているかはわからないが、倖の頭の中は沢山の情報が浮かんでは消えていく。
(そりゃあ、相宇流がいつも近くにいちゃ話せないよなぁ……)
昨今、子供に対する虐待の話は後を絶たず、倖も授業やSNSなどで情報を耳にしているが、自分が当事者と対峙する日が来るとは思っても見なかった。
とにかく、平々凡々な人生を歩んでいる自分に手に負えない事案だということは理解した。
「あー……すまん。正直、私にはわかんない話だわ」
後頭部をガシガシと掻き、思ったままを口にする。
お読みいただき、ありがとうございました(*^^*)




