⑨
「ただいま」
夜10時。コンビニ袋をぶら下げて玄関の戸を開けると、母の靴はまだなかった。
今日も帰ってこないのかもな。
ただ、今だけはその方が都合が良かった。
僕は靴を脱ぐとリビングには行かず、そのまま二階に上がって自分の部屋に向かう。
「美羽、ただいま」
「…………おかえり」
美羽は明かりをつけず、暗がりの中でベッドの縁にもたれ掛かって、部屋の隅でジッとうずくまっていた。
パチン、と部屋の明かりをつける。
「何でそんなところにいるのさ。ベッドで寝てて良いって言ったろ」
「……そんなこと言われたって、落ち着かないんだもん。アンタのお母さんが帰ってきてドアを開けられたらどうしようとか、色々考えてんの」
美羽は悪態をついたが、相当お腹が減っているようで視線はコンビニ袋に釘付けだった。そんなところもたまらなく可愛いと思う。
「何が好きか分からないから、とりあえず沢山買ってきたよ」
袋の中は、おにぎり、サンドイッチ、ホットドッグ、カップ麺、サラダ、菓子パン、コーヒー、ジュース、ポテチ……など色々だ。勢いのまま急いで買い込んだので、レジを通した時に少しドキドキしたが、幸い何も言われなかった。
「買いすぎ。バッカじゃない?」
美羽がクスッと笑うと自分の顔が熱くなるのを感じた。
「……うっわ。バカって言われて赤くなってるー、へんたーい♡」
僕の反応を見て、今度はからかうように、意地悪そうに唇が歪む。
「そうだよねー。こんなに一生懸命買い込んじゃうくらい、美羽の事好きなんだもんねぇ? ざーこ♡ 変態♡ マゾ野郎♡」
「口悪いな」
「だって、美羽メスガキだもん。その……嫌だった?」
「全然。好きなのある?」
「…………ばか」
彼女はペットボトルのお茶と昆布のおにぎりを掴んで、プイッと顔を背けた。
良かった。少し調子が出てきたらしい。
「開け方分かんない」
美羽の目はまだ腫れていて、顔にも涙の跡が残っていた。さっきまでまた泣いていたのかもしれない。理由を聞きたくなったが、今日はもう、これ以上美羽に負担はかけたくない。
恥ずかしそうにおにぎりのビニールを摘む彼女を見ていると、尚更そう思う。
「貸して。真ん中に紐があるじゃん。これをこうして引っ張って……」
「へー、すごっ。綺麗に取れた」
包みを剥がしておにぎりを渡すと、美羽は少し俯きながら、恥ずかしそうに受け取った。顔が真っ赤だ。
「いや、初めてだからしょうがないよ。二回目からは普通に出来るって」
「……その、ありがとうね。色々」
「えっ?」
美羽がおにぎりを一口齧った。そしてまた一口、一口と、小さい口で控えめにもぐもぐ口に入れる。
「美味しい……」
気付いたら、目には溢れそうなくらいに涙が溜まっていた。
「み、美羽!?」
「っさい……」
美羽は返事をする代わりに、左手を僕の首に回し、自分の顔をぐっと僕の胸元に押し付けた。
「これ、食べて」
もたれ掛かった姿勢のまま、右手でおにぎりを差し出す。食べかけのおにぎりには小さな口の歯形がくっきりとついていて、中からは具が見えていた。
「え……良いの?」
「食べて」
僕は美羽からおにぎりを受け取った。歯形を見る。さっきまで美羽が口をつけた跡が、まだ海苔やお米にしっかりと着いている。ひしゃげた海苔が歯で押しつぶされ、美羽の唾でテカテカと湿っていた。なぜか凄く後ろめたい。
「…….いただきます」
ドキドキしながらおにぎりを一口齧った。昆布の味が口に広がる。しょっぱいはずなのに今まで食べたどんな食べ物よりも甘い。
「ねえ……美味しい?」
「……うん。美味しいよ」
美羽は僕の胸元から顔を離すと、顔をくしゃっとさせて笑った。
「へへ、良かった」
やばい。今直ぐ抱きしめたい。でも別に付き合ってるわけでもないし、ここで触ろうものなら、それこそ間接キスで興奮してる変態みたいじゃないか。
落ち着け、落ち着くんだ、僕。
だが、美羽は待ってはくれなかった。
「ねえ……私にも食べさせて」
そう言って目を閉じ、手を後ろに回しながら口を開けた。
「み、美羽。いや、え?」
「いいでしょ、飼育委員さん。ほら。あーー」
僕は思わず口の中に釘付けになってしまった。ピンク色の唇。小さい顔に見合った、小さくて綺麗な口。整った歯並びの奥に小さな舌が見える。エロい。ずっと見ていられる。
「……しないの?」
「あっ、えっ! し、します」
急かされて、僕は恐る恐るおにぎりを口に近づけた。お米が歯に当たった瞬間、覆い被さるようにパクッと口が閉じる。
美羽が目を瞑っている間、僕は瞬きすることも忘れてそれを見つめていた。薄めの眉。長いまつ毛。柔らかそうな唇。咀嚼する音。
頬が動くたび、美羽が噛むたびに無意識にその光景を、目に、耳に、脳に覚えさせた。やがて美羽がおにぎりを飲み込むと、か細い喉がコクンと動いた。
自分の心臓の音がする。
美羽がゆっくりと目を開けた。
「ごちそうさま。拓海くん……今、凄い顔してるよ?」
彼女は心の底から楽しそうに嗤った。
ああ、やっぱり彼女はメスガキなのだ。
でもそんな事はもう、些細な事だ。大事なのは僕が今彼女の事をどう思っているかと、彼女が僕のことをどう思っているか。それだけだ。
「美羽、まだ口にご飯付いてるよ」
「えっ」
僕はそう言って、無理やり美羽の唇に自分の唇をくっ付けた。キスのやり方なんて全然分からないから、映画やテレビの、見よう見まねで。
「〜〜〜!」
美羽は一瞬だけビクリと体を震わせたが、抵抗はしなかった。二人でお互いの肩を抱き合って、唇を重ねたまま、5秒、10秒と時間だけが過ぎる。
好きだ。好きだ。好きだ。好きだ。好きだ。
大好きだ。
「っぷはっ! もう無理……」
美羽は唇を離した瞬間、大きく息を吐きだす。
そして口元を押さえながら僕を見た。怒っている様子はない。ただ戸惑っているように見えた。
「いきなり……何するのよ……」
「ご、ごめん!! つい……」
「つい?」
「つい……可愛いな、って思ったから」
その答えがキスして良い理由にはならないと分かっている。でも、それ以外が思いつかない。
「本当ばか。信じらんないヘンタイ。猿。キモ豚。ゴーカン魔」
反対に、彼女は思いつくまま罵声を浴びせる。
「返す言葉もないです……」
「へへ……なーんてね。いいよ。私がそんな事言える立場じゃないし。それに拓海くんがゴーカン魔だったら、美羽なんか殺人鬼だし。お似合いかもね」
その言葉を聞いて、ハッとした。
殺人鬼。
その言葉だけが、なぜかやたらと冷たい響きだった。
「そんな事……」
僕が否定しようとすると、美羽は手で遮って言葉を続ける。
「だからさ……」
美羽は僕のベッドに腰を下ろした。
「美羽の事、分からせていいよ」




