⑧
「かっ……っ……!!」
息が苦しいっ……
起き上がろうにも、背中がソファーに沈み込んで力が入らない。美羽は僕に馬乗りになり、両膝で僕の腕を押さえつけている。
殺す気だ。
首にかかった指の力が、そう言っている。美羽は本当に僕を殺そうとしている。
何でっ……!? 美羽っ……
まさか、演技だった?! 今日の事は全部、騙されたのか!?
せっかく仲良くなれたと思ったのに。これからもっと一緒に居たいと思ったのに。これから……これからだと思ったのに……
くそっ……! ちくしょう……!!
「……っ……ぐぅぅ……っ!!!」
酸欠で回らない頭を振り、身を捩って何とか隙間を作ろうとする。くそっ、ソファーなんかで寝るんじゃなかった。力を入れるほど沈み込んで、足も踏ん張りが効かない。
何でだよ。何でそんなことするんだよ。
折角会えたのに。美羽……
美羽は青い顔をして、鬼のような形相で僕を押さえつけている。向こうも必死だった。ガリガリの細い腕で僕の首を絞めながら、血が出そうなくらい歯を食いしばっている。
僕は自由の利かない身体を必死に捩りながら、霞んでいく視界の中で彼女を睨み付けた。せめて死の瞬間まで、お前を許さないと目で殺してやる。
嘘だ。そんなんじゃない。
本当は死ぬ瞬間まで、美羽から目を離したくなかっただけだ。苦しい。死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ。好きだ。好きだ。大好きだ。
そう思った瞬間、体の力がふっと抜けた。
……ああ。
もういいや。
短くて、つまらない人生だったけど、最後に好きな人が出来た。その人に殺されるなら仕方ない。
だからせめて、その瞬間まで目に焼き付けよう。
「好……きだ……」
良かった。最期の言葉は恨み言じゃなかった。だから少なくとも、僕のこの気持ちだけは嘘じゃない。
そうして今度こそ僕は意識を手放した。
*
次に目が覚めた時は、ソファーじゃなくて絨毯の上だった。
「……ゲホッ、ゲホッ!!」
何だか凄く嫌な夢を見た。好きになった女の子に首を絞められて、殺される夢だった。まだ首にかけられた手の感触が残っているようで気持ちが悪い。これは比喩じゃなくて本当に吐きそうだ。首が痛いし、喉も痛い。最悪の気分だ。
「ゲホッ、ケホケホっ…………ん……?」
どこかから、花のような甘い香りが鼻をくすぐった。
そうだ。僕はさっきまで美羽をお風呂に入れて、それからテレビを見て、寝落ちして……
あれ? じゃあさっきのは現実か?
寝転んだまま首筋に手をあてた。何もわからなかったが、首の下にクッションが敷かれている。
……そうだ、美羽。
起き上がろうとすると頭がズキリとした。酸欠なのか、体に力が入らない。浅い呼吸をして少しずつ整えながら、数分かけてやっと起き上がれるようになった。
僕のことはいい。それよりも美羽だ。
辺りを見回しても、彼女の姿はどこにもない。
嫌な予感がする。
僕はふらつきながら立ち上がると、リビング、洗面所、トイレと、家の中を順番に見て回った。しかし、彼女の姿はどこにもない。
洗面所の鏡に映った自分の首筋の赤い跡を見て、先程の事が夢ではなかったのだと確信したが、驚くほどに怒りは湧いてこなかった。
そんな事より理由が知りたい。
やはりどうしても信じられない。きっと何か理由がある。これまで無関心だった僕が今、そんな事を考えているというのは、本当に皮肉な事だ。
どこを探しても家の中には居ない。……となると外か? 逃げたのか? 一人で? 危なすぎる。
玄関まで壁伝いにヨロヨロと歩いてドアを開けると、すぐそこに美羽がいた。玄関先の階段に一人腰掛けて、外を眺めている。
「ケホッ……美羽……」
声はまだ掠れていたが、何とか振り絞った。美羽は振り返らない。
「美羽。虫に刺されるよ。うちに戻ろう」
もう一度声を掛ける。返事がない。
そう思った時。
「……どうして?」
振り返らないまま、美羽がぽつりと呟いた。
「……どうして何も訊かないの? どうして美羽の事責めないの? 殺そうとしたんだよ、私。分かるでしょ……」
「美羽……」
「バカなの……?」
声が震えていた。
「もしかして、泣いてるの?」
「何で探しに来てるのよ……家に居ないって分かったら、鍵かけて、警察でもなんでも呼べば良いじゃん。それに……何で、あんな事……」
「美羽?」
様子がおかしい。美羽の肩に触れようとした、その時。
「……っ触んなっ! バカぁぁっ!!」
美羽は僕の手を払いのけて、辺りに響き渡るような大声で叫んだ。振り返ったのは、あのおどおどして、大人しくて、従順で、はにかむと可愛い美羽ではなかった。
そこに居たのは一人のメスガキだった。
威嚇するように僕を睨み付け、荒々しい口調で吠えている。そのくせ声は震え、顔は涙でぐしゃぐしゃになっていた。
そこに居るのは……傷付いた一人の女の子だった。
それはさっきまでと変わらない、僕の好きな人の初めて見せた、本当の姿だった。
「大っ嫌い! 人間なんて! 美羽の事ペットにして、蔑んで、好き放題言って! 美羽が何したっていうのよ!? メスガキってそんなにダメなの? 生きてちゃいけないの?! ねえ……」
……そうだ。傷つかないわけがない。美羽にだって心がある。あんな扱いをされて、悔しくないわけがない。悲しくないわけがない。
「ねえ、教えてよ……何で私たちだけ、こんな目に遭わなきゃいけないの? 暗い教室で、ずっと一人ぼっちで……。分からせって何? 言いたい事も言っちゃいけないの? ちょっと口答えしただけで、雑巾みたいに踏みつけられて一生ペコペコしなきゃいけないの?」
美羽は涙を拭おうともせず、僕を睨み続けた。
「何で……何でお母さんは死ななきゃいけなかったの? お父さんは、どうして助けてくれなかったの……? ねえ、拓海くん。教えてよ……」
堰を切ったように、美羽の言葉は止まらなかった。きっと、ずっと溜め込んでいたのだ。暗い教室で一人きり、何度も同じことを考えていたのかもしれない。
それを今、ようやく吐き出している。
誰が責められるっていうんだ。
「美羽…………」
答えなんて、僕にあるはずがない。それでも目を逸らすことはできなかった。気が付けば僕は、美羽の手を必死で握りしめていた。
「家に帰ろう。僕はここにいるから。ずっと、君のそばにいるから」
何が出来るかは分からないけど。それでも、これからは一人じゃない。
許しを乞うように。祈りを捧げるように。ただそう思って、強く強く彼女の手を握り続けた。
「ひっく、興味無いって言ったくせに……ひっく、名前も……覚えてくれなかったくせに」
「……ごめん」
「許さない」
即答だった。
そして、僕の胸に顔を埋めた。
「美羽のこと裏切ったら絶対に、許さないんだから……」
僕は美羽を離さないよう、その肩をしっかりと抱きしめた。




