⑦
終章より
メスガキと人類の関係は、数千年にわたる共生と対立の歴史によって形成されてきた。
彼女たちは人間を嘲笑い、挑発し、時に争い、時に親密な関係を築いてきた。
しかし、メスガキの行動を理解するうえで忘れてはならないことがある。
メスガキは人間ではない。だが、人間でないことは、苦痛を感じないことを意味しない。
メスガキの飼育とは、単に食物と住居を与え、その生命を維持することではない。
その個体が何を求め、何を嫌い、どのような環境で安心して生活できるのかを理解することが、適切な飼育の第一歩となるのである。
『メスガキの生態について』
国立生物文化研究所 編纂/改訂第七版・第2章「人類とメスガキの共生史」より抜粋
「おい、濡らしたまんまにしてると風邪引くぞ。こっちにきなさい」
「えー?」
僕がキャッキャと笑いながら逃げると、父も笑いながら追いかけて、大きくて優しい手を僕の両脇に滑り込ませた。
「ほいっ。捕まえたー」
「わー! きゃははは」
そうして不器用な手つきで、ドライヤーを掛けて僕の髪を乾かしてくれたっけ。
もう、随分と昔の事だ。
今となっては髪を乾かしてくれるどころか、家に顔すらも出さなくなった。
「お父さんは他に良い人がいるのよ」
僕が中学一年生だったころ、おもむろに母がそう言った。
正直なところ、その時の僕には何のことかまだよく分からなかった。
多分、それまで週一で帰ってきたお父さんが二週間に一回になり、月一になり、二ヶ月に一回になり。お父さんが最近帰ってこないとか、僕がそういう事を漏らしたからだったと思う。
その日からお母さんも少しずつおかしくなった。
まず、ご飯を作らない日が増えた。僕は最初、外食が増えた事を喜んだ。母に外で食べる方が好きかと問われて、素直に『うん』と答えた。回転寿司を食べた帰りだったと思う。
それから徐々に母の帰りが遅くなった。僕が朝起きてリビングに行くと、テーブルに千円札が二枚置かれていることが多くなった。初めは封筒に入っていて、その横に「食事代です、ごめんね」といった事が書かれた書き置きが添えられていたが、すぐに剥き出しで置かれるようになった。
きっと、仕事が大変なんだろうと思った。
賢い僕は、朝昼はスナックパンで最低限の飢えを凌ぎ、夜は米だけ買ってスーパーの半額のお惣菜を買うことでお金を貯める方法を発見した。
趣味もスマホやテレビを見るくらいしか無かったので、同級生に比べて貯金は結構あるんじゃないかと思う。日に日に貯金箱にお札が増えていくのが楽しかった。
そのうち両親もほとぼりが冷めて、次に三人揃った日が来たら、こっそり貯めたお金で僕が二人にご飯をご馳走しよう。「実はこっそり貯めてたんだ。今日は僕が何でも奢ってやるよ!」と偉そうに言うと、お母さんとお父さんが「ちゃっかりした子ね」といって笑う。湿っぽいのは嫌いなので、そっちのシナリオが好みだった。
いつその日が来るのか、心の中でほくそ笑んだ。
だが、そんな生活が半年も続くと高揚感もとっくに過ぎ去ってしまうものだ。
お金は貯まったが、その機会は一向にやってこなかった。
そして、ある日突然ピンと来た。うちの家はもうとっくの昔に壊れてしまっていたんだ、と。
ただそこまで悲観はしなかった。ネットで検索すると、児童虐待とかネグレクトとかいう言葉がよくヒットするけれど、父と母はまだ離婚していない。それは多分、僕の為だと思うし、母が毎晩派手な格好をして飲んで帰ってきても毎朝きちんと制服にアイロンが掛けられているのは、僕が学校で恥ずかしい思いをしなくて良いようにしてくれているからだ。きっとそうだ。
だから、うちの両親はどちらも少し不器用なだけなのだ。僕がそれまで我慢して待っていれば、いつかきっとまた元の形に戻る。
そして今。
僕はお古のパジャマを着た美羽の後ろで、彼女の髪を乾かしていた。ゴワゴワだった髪の毛が今はサラサラで、ふわふわしている。どうやらトリートメントを使って正解だったらしい。良い匂いがして、思わず顔を埋めたくなる。
テレビのついたリビングにブオオオォ、というドライヤーの音だけが響いている。美羽はテレビの音なんか聞こえないはずなのに、番組表を確認しながらしきりにチャンネルを切り替えていた。
テレビが好きなのかな、と僕は思った。物珍しいのかもしれない。確かに学校にテレビはないし、警備員の巡回もあるので好き勝手に歩き回るというわけにもいかないだろう。
これまではただ漠然と、いつ見ても隅っこでうずくまってそこにいるだけの存在だと思っていた。最初は物珍しそうに見ていた友達もすぐに興味を失ったし、自分は最初から気に留めていなかった。
あの日から今日まで、美羽は夜、何をして過ごしていたんだろう。そして今日明日、これから先、何をしながら夜を過ごすのだろう。
「ずっとうちに住めば良いのに」
ポツリと、そんな言葉が漏れた。言った瞬間、我ながら凄く勝手だと思った。幸い、僕の呟きはドライヤーの音にかき消されて美羽には届かなかった。
時計は既に午後8時を指している。髪の毛を乾かした後、今は二人でお茶を飲みながら、ぼんやりとテレビを見ていた。僕はいつもなら外で何かを買っている時間なのに、今日は出来る限り引き伸ばそうとしている。
次に外に出た時がきっと、美羽と別れる時だと分かっていた。明日また会えるのは分かっていても、こんな夜はもう二度と来ない。そんな気がする。
今日はいろんな事があった。風呂に入ったせいか何故だか凄く眠い。この番組が終わったら、外に出て、ご飯を食べて、美羽を送り届けたあと、今度こそ別れて、また……明日…………
その続きを考えるより先に、僕はリビングのソファーで深い眠りに落ちていった。
* * *
どこだろう、ここは。
暗い。ただひたすらに暗い。
夜の海のように真っ暗で何もない場所に、沈み込む感覚だけがある。僕はただひたすらに沈んでいた。息が出来ない。
何かに掴まろうともがくが、手は空を切るばかりで何の感触もない。地面を蹴ろうとしても、泳いで浮かびあがろうとしても、余計に苦しくなる。
「お母さんの作るご飯と回転寿司、どっちが好き?」
お母さんの声が聞こえた。返事をしようにも、パクパクと魚のように口が開くだけで、やがて口も動かせなくなった。
これから先は分かってる。次の日から毎朝、お金だけが机に置かれている。少し小さい僕が遠くの方で喜んでいた。そして、喜んだせいで僕の周りからお父さんもお母さんも消えた。あの時ちゃんと一緒に居たいって言えば良かった。お母さんの作るご飯の方が良いって言えば良かった。ごめんなさい、ごめんなさい。
やがて自分の手が、喉に回る。僕は要らない人間だから、こうするのが正しいのかも知れない。徐々に指先にこめる力が強くなる。息が吐けない。吸うこともできない。
ああ、死ぬのか。嫌だな。
でも、最後に良いこともあった。何だったっけ。
「だって、可愛かったんだもん♡」
そうだ。女の子と一緒にお風呂に入ったんだ。大人しいけど、笑うと可愛い子だった。誰だっけ? そうだ、確か……名前は……
「美……羽……」
頭が焼けるように熱い。
息を吸おうとしたが、依然として息は出来ない。
薄らと目を開けると、美羽が僕の首を絞めていた。




