⑩
「それって、どういう……」
「言葉通りの意味だよー。ほら、どーぞ」
美羽は両足を伸ばすと、そのままベッドに体を投げ出した。さっきまでのしおらしい態度が嘘のように、いつもの意地悪そうな笑みを浮かべている。
「好きにして良いよ。物扱いでもペットでも。変態でも、殴っても。壊しても。拓海くんのやりたいようにして良いよ」
分からせる。
いや、頭では分かっている。この世界でメスガキに対して使われる、その言葉の意味くらい。
だからって、額面通りに受け取って良いものだろうか。
「拓海くん?」
返事をしない僕を、美羽が不思議そうに見上げる。
「……だめだよ、そんなの」
「シタくないの?」
美羽は首を傾げた。あまりにも無邪気な問いかけに、僕は返事に詰まってしまう。
「シタいけど……そういうのじゃない」
ようやく絞り出した言葉は、我ながら情けないものだった。
「それに……美羽だって、手が震えてる」
美羽はハッとしたように差し出した手を引っ込めて、胸の上でギュッと握った。
「……あはっ、ビビってたのバレた? でも……良いって言ったのは、嘘じゃないよ」
美羽は天井を見上げ、大きく息を吐いた。口元には笑みが残っていたが、その声はどこか寂しそうだった。
「えっ?」
「だって美羽、メスガキだもん。このまま生きてても、いつか誰かに分からされちゃうんだし。だからさ、どうせ分からせられるなら拓海くんが良かったなって」
「美羽……」
何と答えればいいのか分からなかった。
美羽にとって、それは遠い未来の話でも、冗談でもないのだろう。いつか必ず訪れるものとして、ずっと覚悟してきたことなのだ。
さっきまでの浮ついた気持ちが、すっと冷めていく。
「殺そうとしちゃった、罪滅ぼしもあるしね」
美羽は笑った。いつものように、僕をからかう時と同じ顔で。
でも、僕には笑えなかった。
「……どうして、あんな事したのか聞いてもいいか?」
美羽の表情が止まった。
聞かない方がいいのかもしれない。そう思ったが、今度こそちゃんと美羽の話を聞きたかった。
「……自由になれるかも、って思っちゃった。今の今まで私に興味なかった人が、お風呂に入ってドキドキしちゃってさ。気づいたらいつの間にか無防備に寝てるんだもん。チャンス、って思うじゃん」
「お前な」
思わず呆れた声が出た。
美羽は小さく笑ったが、すぐに俯いてしまった。膝の上で重ねた両手を、じっと見つめている。
「……でさ。もうこんな事二度と無いと思ったから。美羽の事を見てくれて、名前で呼んでくれて、多分、お互いちょっと気になってる。そんな幸せな事、もう無いかもって」
僕は黙って聞いていた。
美羽の声は穏やかだった。まるで、ずっと昔の出来事を思い出しているみたいに。
「だからさ。もう終わりにしようかなって。拓海くんを殺したら、美羽も終わる理由が出来るって思ったんだ。もう何も希望を持たなくてもいい、誰かを憎む資格もなくなる。メスガキに生まれた事を呪って、一人で死ぬの。そういうクソみたいな終わり方がお似合いなのかなって」
美羽は最後まで泣かなかった。
それが、かえって辛かった。
僕は今日、美羽と一緒に過ごして楽しかった。お風呂に入って、話をして、少しだけ仲良くなれた気がしていた。
でも、美羽は違ったのだ。
僕と同じように楽しいと思いながら、その先に何もないことを考えていた。そんなことにも気づかず、僕は一人ではしゃいでいた。
「ごめん……」
「なんで謝るのさ? 拓海くんは何も、悪くないよ」
美羽が困ったように眉を下げた。
「違うんだ。僕も最初、美羽を見ようともしてなかった。いやいや仕方なく話しかけたし、家に連れて帰ったのだって仕方なくそうしただけだ。それで裸を見て、お風呂に一緒に入って……その、好きになったっていうか……」
言いながら、どんどん恥ずかしくなってきた。
こんな時に何を言っているんだ、僕は。
「ふふ、最低だけど……正直だね。この小っちゃい体を見て好きになっちゃったの?」
「違うよ! いや、その、それもゼロじゃないかもだけど……。多分、楽しかったんだと思う」
「楽しい?」
美羽が顔を上げた。
「うん。美羽といるのが」
言葉にしてみると、案外簡単なことだった。
美羽は口が悪いし、すぐに人をからかうし、何を考えているのか分からないところもある。でも、一緒にいると楽しい。もっと話したいし、もっと色んな顔を見てみたい。
それだけは、間違いなかった。
「でも、美羽は拓海くんが思ってるような子じゃないよ? 教室にいる美羽は……猫を被ってるだけ。目をつけられないように、ひっそりと息を殺してやり過ごしてるだけ」
美羽は自分の膝を抱えた。
僕は教室での美羽を思い出した。いつも静かで、誰かに話しかけることもなく、ただそこに座っていた。
あれが美羽の本当の姿なのだと思っていた。
でも違った。
僕がそう思い込んでいただけだ。
「これからは僕が守るよ。飼育委員だからじゃなくて、美羽の事が好きだから」
美羽が目を丸くした。
僕だって、自分で驚いている。こんな台詞、昨日までの僕なら絶対に言えなかった。
「殺されそうになったのに?」
「殺されそうになっても。この子になら良いって思えたから」
あの時は、本当に怖かった。
息ができなくなって、目の前が暗くなって、美羽の顔さえよく見えなくなった。
それでも、どうしても彼女を憎めなかった。
僕が今日初めて知った美羽の姿よりも、ずっと長い時間をかけて、彼女を傷つけてきたものがある。そう思うと、責める言葉なんて出てこなかった。
「……そういう事言うな、キモい」
美羽は顔を背けた。怒ったような声だった。
「ごめん。そうだよね、死んだら守れないし……」
確かに、言われてみればその通りだ。守るなんて格好つけておきながら、死んでもいいなんて、我ながら矛盾している。
「ばーか。…………ねえ、拓海くん」
美羽が小さく笑った。
「何?」
振り向いた美羽と目が合う。
さっきまでの意地悪そうな笑みは消えていた。少し赤くなった目元を細めて、僕の顔をじっと見つめている。
「もう一度、キスして」
僕は美羽の肩にそっと手を置いた。
さっきは勢いに任せてしまったけれど、今度は違う。美羽が目を閉じるのを待ってから、ゆっくりと顔を近づける。
唇が触れた。
ほんの数秒。それだけで胸がいっぱいになってしまい、僕はそっと顔を離した。
「子供のキスだね」
美羽は目を細め、くすくすと笑った。
「……勘弁してよ。僕だっていっぱいいっぱいなんだから」
「でも、嫌じゃなかったよ」
そう言って、美羽は僕の肩にこつんと額を預けた。さっきまで散々からかってきたくせに、今度は自分の方が恥ずかしくなったらしい。
僕は何も言わず、彼女の背中に腕を回した。
「ねぇ、拓海くん」
「何?」
「…………私も好き」
耳元で聞こえた小さな声に、心臓が跳ねた。
顔を見ようとしたが、美羽は僕の胸に額を押しつけたまま動こうとしない。代わりに、背中に回された腕にぎゅっと力がこもった。
僕も彼女を抱きしめ返した。
何か言わなきゃと思ったけれど、気の利いた言葉なんて一つも浮かんでこない。それでも美羽は離れようとせず、僕も離したくなかった。
そのまま二人でベッドに横になった。
美羽は僕の服の裾を掴み、時々、ちゃんとそこにいるか確かめるように指先を動かした。
僕は彼女の髪を撫でながら、何度も名前を呼んだ。そのたびに美羽は小さく返事をして、最後には「うるさい」と笑った。
やがて返事がなくなった。
寝息を立てる美羽の顔を見ているうちに、僕もいつの間にか眠ってしまったらしい。
◇ ◇ ◇
「拓海くん、起きて! 学校だよ!!」
「うわっ!?」
耳元で大声を出され、僕は飛び起きた。
目の前にはパジャマ姿の美羽がいた。カーテンの隙間から朝日が差し込み、昨夜のコンビニ袋が床に転がっている。
「み、美羽!? ……あ、そっか。あれから寝ちゃったんだっけ……」
まだ頭がぼんやりしている。
そうだ。昨日は美羽と色々あって、最後には二人で……。
思い出した途端、顔が熱くなった。
「呑気なこと言ってないで、早く! 美羽が帰ってこなかったってバレたらヤバいの! 分からせられちゃうかも!!」
「えぇっ!? ちょっと待って、すぐ支度するから!!」
眠気が一瞬で吹き飛んだ。
僕は慌ててベッドから降り、制服を引っ張り出した。シャツに腕を通しながら時計を見る。いつもなら、まだ寝ている時間だ。
いや、今日はそんなことを言っていられない。
美羽が帰っていないことを誰かに知られたら、どうなるか分からないのだ。
「もう本当……馬鹿なんだから」
背後から呆れた声がした。
「ごめん、僕がちゃんと起きてれば……」
振り返ったところで、美羽がつま先立ちになった。
頬に、柔らかいものが触れる。
「み、美羽!?」
「学校に着いたら出来なくなるから、行ってきますのチューだよー」
美羽は悪戯が成功した子供のように笑った。
こっちはそれどころじゃないのに。
いや、嬉しいけど。ものすごく嬉しいけど!
「ほら、早く早く! 遅れちゃうよ!」
「分かったから、ちょっと待って!」
僕は鞄を掴み、財布と鍵を確かめた。美羽はもう玄関で靴を履いている。
昨日までとは何もかも違う朝だった。
◇ ◇ ◇
朝の住宅街を、自転車が走る。
僕がペダルを漕ぎ、美羽は後ろに乗っていた。人通りの少ない道を選びながら、いつもよりずっと早い時間に学校へ向かう。
背中に美羽の手が添えられている。
それだけで、何だか落ち着かなかった。
「こんなに早く登校するの初めてだよ」
「だろうね。いっつも遅刻ギリギリだもんね♡」
「見てたの!?」
「そりゃそうだよ。だって、あの教室だけが美羽の世界だったんだもん。クソ人間どもを、一人一人観察しながら、頭の中でどうやって惨たらしく殺すか考えるの。ちなみに拓海くんはね……」
「ちょっと! 怖いこと言わないでよ!」
思わず振り返りそうになって、慌てて前を向いた。
背後から、けらけらと笑う声が聞こえる。
冗談だよね?
いや、美羽の場合、どこまでが冗談なのか本当に分からない。
「おっとと……。でももうその遊びは卒業かな。これからは毎日、拓海くんを見て過ごすの。そして、放課後どうやって遊ぼうか考えるの」
美羽の声が、少しだけ柔らかくなった。
僕はペダルを漕ぎながら、教室の隅で静かに座っていた彼女を思い出した。
あの頃の僕は、美羽が何を考えているのか知ろうともしなかった。いつも同じ教室にいたのに、名前を呼ぶことさえなかった。
でも、これからは違う。
明日も明後日も、美羽と話せる。学校が終わったら、こうして自転車で出掛けて、一緒に遊ぶ事だってできる。
そんな当たり前のことが、今は嬉しくて仕方なかった。
「……裏切らないでね、拓海くん。裏切ったら美羽、何するか分かんないよ」
背中に回された腕に、少しだけ力がこもった。
声はいつもの調子だったけれど、僕には冗談に聞こえなかった。
「はい。肝に銘じます……」
「ふふっ、よろしい。とりあえずあの、山下って子には気を付けてね。あの子絶対、あんたのこと好きだから」
「え? いやいや、ないでしょ」
山下さんが?
確かに最近、話しかけられることは増えたけれど、僕なんかを好きになる理由が思いつかない。
「そういうところよ」
美羽は呆れたようにため息をついた。
「え、何が?」
「べっつにー」
背中で美羽が笑う。
学校が近づくにつれて、少しずつ生徒の姿が増えてきた。僕は人目につかない道へ曲がり、校門から少し離れたところで自転車を止めた。
美羽がひょいと降りる。
服は僕のお古だが、お風呂に入って、ドライヤーで髪を整えて、ベッドでぐっすりと寝た美羽は昨日までとはまるで別人みたいだった。
これから僕はきっと、美羽を毎朝送り届けるのと同時に、クラスで悪い虫が付かないように目を光らせる事にも気を付けなくちゃいけないだろう。
美羽は少し明るくなったけれど、問題は山積みだ。
世界は依然として、メスガキに厳しい。
僕はただの飼育委員で、美羽はクラスで飼ってるメスガキというのも変わらない。
でも、卒業するまでは僕が美羽を守り続ける。
そして、卒業したら彼女をここから連れ出そう。
今まで貯めたお金でアパートを借りて、高校に入ったらアルバイトも始める。
お父さんやお母さんも、借りれる力は全部利用して、美羽を守り抜く。それが僕の、新しい戦いだ。
「じゃあ今日も一日よろしくね、私の飼育委員さん♡」
校門の前で美羽は振り返り、いつもの意地悪そうな笑顔を見せた。
思わず笑ってしまった。
まったく。これから毎日こんな調子なのだろうか。
僕はこのメスガキを、心から愛している。
ここまで読んでいただきありがとうございました。
思いつきで書いた設定が膨らんで、適当に書いているうちにどんどん愛着が湧いてしまいました。もっと書きたかったのですが10話と銘打った為にひとまずここで終わりです。
気が向いたら学校編とかも書きたい。誰が読んでくれるのかは知らんけど。
作者はメスガキもペットも大好きです。クラスの奴ら許せねえ。メスガキに幸あれ。
評価、感想も是非お待ちしております。他の作品もよかったらどうぞ。




