ツークシュピッツェ/野黒沢 〜リヒトから一番遠いリヒト〜
出不精旅に出る。
しかし、もう異国の地に二週間近く滞在すると、もう旅のベテランになった気になるから不思議なものである。
それでそんな旅のベテランの僕から、これから旅行に行こうとしているそこの貴方に言いたい言葉がある。
そこにある土地の、トイレだけは確認しておいてほしい!!
清潔な空間とは言わない。最低限の《《礼節のあるトイレ》》を望む!
僕だって別に潔癖なわけじゃない。伊達に築四十年のボロいビルで二十年間働いていたわけじゃないのだ。
公園の公衆トイレだって文句なく使用させていただく。だがそこが日本であればの話だ!!
これから旅に行く全ての人に、この言葉を教訓として胸に刻み込んでほしい。
『入れる方』は、まだ我慢できる。だが『出す方』は我慢ができないのだ。
故にトイレは想像の十倍切実な問題なのだ。男で潔癖ではない僕が言うのだ。間違いない。
ビルケンコプラのトイレ。あれはトイレではない。
穴の空いた拷問部屋だ。
使わせてもらえるだけありがたく思え。とお叱りの言葉を受けるのを承知で言う。あれはトイレじゃない。
まあ、我慢して使うわけだが。
部屋も、これをホテルの部屋とは認めない。
体育系の部活の合宿場だ。と言ったら体育系の部活の合宿場に失礼かもしれない。
タコ部屋だ。これも行ったことないから偏見だが。
二十人近くの、いかつい外国人が本物の銃を携えて壁にもたれ、いびきをかいている。
戦争映画とかでたまに見るあれだ。
このように、リヒト東部というのは治安の悪い国なのだろうというのは、誰に説明されなくてもわかる。
正直帰りたい。
窓の外には鉄格子がはまっている。
寝ぼけ眼のまま、窓の外を見ると、一面巨大な水場が広がっている。
尻と腰と背中と肩と頭の後ろが痛い。コンクリートの壁に数時間、体をもたれていたからだろう。
『旅のしおり』の大陸図を眺めてみると、ビルケンコプラ(亀野)の南には変わった形の大きな湖があるのがわかった。
人のいないレイクビューのホテル。物騒な室内とは別世界の、静かな湖の景色にしばらく僕は見とれていた。
「眠れたか」
いつの間にかエゴンが横に立っていた。
僕は素直に首を横に振った。
「だろうな。まあ気持ちは察するよ。早く慣れる事だ。……と言っても、
南東部の都市はここを含めて八つしかない。
ちょっと我慢すれば自由とクソの国リヒトに行けるから。楽しんでくれや」
リヒト東部の人間が全員そうなのか、それともエゴンがそうなのか、
京人よりもリヒト人が嫌われているように感じるのは、なんなのだろう。
僕はぼんやりと湖を眺めていると、湖面に何かが建っていることに気がついた。
あれも銅像だ。二体並んで建っている
「あれも倫平太? それとその配下?」
僕が聞くとエゴンは、見もせずにタバコに火をつけた。
「もちろん……倫平太だ。 ふー。
……彼はどこにでもいるよ。南東部には。
なんと言ったって英雄だからな。
隣のは倫平太の配下の綾鶴。彼も大した人間だ。
第一次大戦時から戦って、第二次大戦時ここで命を落とした」
「英雄……。京国で言うところの、竹中晶のような?」
僕が言うと、エゴンはそれ以上僕が何かを喋るのを手で制した。
「……あのな。お前、ここはリヒト領だ。うかつに京国人の名前は出すなよ。
……特に南東部ではな。俺も、今仕事中じゃなかったらぶん殴ってる所だったぜ」
何やら怒られた。ここの土地のルールがわからない。
* * * * *
朝食は当然のように車内だった。それは、リヒト領に来て僕が初めて食べた料理と同じだと思う。
マトンと焼きバナナのケバブだ。
エゴンが言うには朝から屋台はやっており、そこで買ったものだという。
香辛料と羊さんと油の匂いが壮絶な戦争をしている。
……どこを触ったらいいのか、生地が油でベトベトしていた。
もちろん紙ナプキン的な物はついていたが、それも油が染み込んでいた。
車内には僕とエゴンを含めて五名ほどの人間がいるが、皆気にせず腹に収めていた。
運転中の人間も、ハンドルを片手にケバブを食っている。
……器用なことをするなあ。と僕が見ていたら、ものの数秒でたいらげ、窓を開けて紙ナプキンを路上に投げ捨てた。
え? と思うと、隣のエゴンも全く同じことをした。
「おい……」
と、倫理観の高い日本人の僕は思わず呟いてしまった。
「ん? なんだ?」
「あ、いいやナンデモナイデス……」
日本でやったら犯罪だ。
……こいつら国家の関係者なんじゃないのか!? 軍関係とか!
ここには法律がないのか!?
ケバブは、味は美味しかった。
* * * * *
「今から行くのは、ツークシュピッツェ。もしくは野黒沢だ。
都市の人口は、ラァジの指針する二十段階評価のうち六」
「……なんで名前が二つあるんですか?」
僕は、リヒト領にきてからずっと思っていた疑問をぶつけてみた。
大陸地図に、リヒトの地名の後についていた()の中の京名の謎だ。
「その昔は、この大陸は京の統一国家だったって話は?」
「聞いてます」
「じゃあわかるだろ。京だった頃の名前が残ってんだよ」
「い、いやそれはわかりませんよ。今はリヒト領なんでしょう?
どうして占領されていた頃の名前をわざわざ残すんですか?」
するとエゴンは深いため息をついた。
「それはな。特にここリヒト東部では考えが割れてるからだ。
ツークシュピッツェのことを、『ツークシュピッツェ』と呼びたい奴もいれば、
『黒野沢』って呼びたい奴もいる。統一するにしたってクソリヒトの政治家様はそんな気概も根性もない。結局はほったらかしってことだ」
説明をされているのに、今の僕には全く理解ができない話だった。
結局ここはどこなのだ?
ただ、答えは一つじゃないことがわかったので、僕は考えることをやめた。
「今から行く都市は……田舎の街なんですか?」
「いーや、違う。……なんといえばいいかな。まあ、行けばわかるよ」
なぜだろう。なんか嫌な予感しかしなかった。
僕は地図アプリを開いて、いつものルーティーンを開始した。
ツークシュピッツェ……もしくは野黒沢は、徳島を北とする『縦四国』で言うところの……
難しいところではあるが『竜串』のあたりということになる。というのも、ラギ大陸の南東部は、最東が丸く膨らんでいるのだ。
よってツークシュピッツェ、もしくは黒野沢が大陸最東端となるのだ。
ルーティーンを終えて僕は地図アプリを閉じようとした瞬間である。
ガキィン!!
背後からものすごい音が響いたと思ったら、後ろから頭を掴まれ、無理やり屈まされた。
一体何が起きたのだろう? 周囲の空気が一瞬で変わり、周りには日本語とドイツ語が混ざって男たちが騒いでいる。
聞き取れないが……「クソが!」とかそんな言葉だ。
するとエゴンとは反対側に座っている男が窓を開けて、自動小銃を発砲する。
「え!? え!?」
「頭上げんな!!」
……数分間、僕は息を止めて一体何が起きているのか想像するしかなかった。
とても嫌な想像だ。
……後ろからは明らかに異質なエンジン音。
多分、僕らの後に護衛車ではない車が突然割り込んできたんだ。
……何かに衝突し、ボンネットが歪み、フロントガラスが破壊される音が聞こえてきた。
エゴンの声が響く。
「……仕留めたか?」
すると反対隣の男が喋る前に、銃声が響いて何かの叫び声が一瞬聞こえた気がした。
「……ああ」
「クソ! だから軍用車なんか借りるのは嫌だったんだ! 何もわかってねえクソリヒトが!!」
頭の後の手が退いたので、僕はそっと頭を上げて後ろを覗いてみた。
「……ひ!!」
思わず声が出た。僕の席の真後ろ。防弾ガラスの外に貼ってある金網に、銃弾が引っかかっていた。
これが防弾ガラスじゃなかったら今頃僕は……
「オイオイ。弾見るのも初めてかよ。
……これがリヒト東部だ。マトモなクソか、狂ったクソしかいねえ。で、今のは狂ったクソだ。ようこそ」
* * * * *
ビルケンコプラを出てからは、本当に何もなかった。
道中、エゴンが電話で何かを話していたが、ドイツ語だったので聞き取れなかった。
何もないというのは、本当に何もないのだ。
遠くで海が見え、近くには緑の平原しかない。
……逆にいうと、何かあるとものすごく目立つのだ。
見渡す限り平原なので、かなり遠くが見渡せる。
遠くの方に住宅街なのか、建物群が見える。
建物の色が、全て赤黒いのはわかる。
車で近づいてみてようやく建物の全貌が見えてきた。
* * * * *
それは、住宅街というよりも……一つの建物に、建て増しにつぐ建てまし的に、後から色々な建物を無理くりくっつけたような、
もはやどうやって建っているのかもわからない歪な建築物だった。
そして……明らかにおかしなものを見た。
歪な建物に至る、ゲートの脇に、高い木から銅像が吊るされているのだ。
銅像には首が無かった。
少なくとも、この建物で暮らしている人間はマトモな人間じゃないのはわかった。
車がゲートに近づくと、武装した男たちが建物から出てきた。顔にマスクを巻いている。
停車して、エゴンが両手を上げて出ていく。
そして、マスクを巻いた男たちはエゴンを確認すると一人一人軽くハグをした。
何が行われているのか、全くわからなかった。
その場で、実に一時間待たされた。
非常に胃の痛い一時間だった。
待たされている間、運転手が窓を開けると、なんだか甘い匂いがした。
甘いと言っても、砂糖とかお菓子とか、そんな甘さではない。
もっと自然で、もっと優しい甘さだ、と、直感で感じた。
「ハーハハハハ!! ハッハッハッハッハアア!!」
異常な笑い声が建物から響いてきて、僕は思わずビクっとしてしまった。
笑が治ったと思ったら、建物の入り口が乱暴に開き、そこから空を仰いで片足ケンケンしながらエゴンが出てきた。
「ハハハ……ハハハハァ……」
そのまま、ウネウネとした動きで車に近づくと、手前で倒れてしまう。
何が起きているのかさっぱりわからなかった。
……すると、ゴン!! と、車に何かがぶつかる音が聞こえた。
助手席に座っている男が窓を開けて外を見ると、舌打ちをして窓を閉める。
ゴン! ゴン! ……ゴン!!
何度か音が響いたと思うと、頭から血を流したエゴンが立ち上がるのが見え、僕は思わず悲鳴をあげた。
そして助手席をノックする。助手席に座ってる男が窓を開ける。
「……『幸雄』さんだけ入室を許可された。ここで待っててくれ」
エゴンの口から、ものすごく甘い匂いがした。それが、ここの空気と一緒なのはすぐに気がついた。
エゴンが黙って僕の方に手を伸ばす。
当然、躊躇った。
すると、隣の席の男が、
「言われた通りにしたほうがいい」
というがそれでも僕は目の前で頭から血を流している男に、親父を触らせたく無かった。
「はあ」
と横からため息が聞こえると、隣に座っていた男が、無理やり僕から親父を取り上げて、エゴンに渡す。
エゴンはそれを受け取ると、ふらふらと、建物の奥へ消えていった。
「……悪いことしたな。謝るよ」
僕が呆然としていると、隣の男が僕の肩を叩いて言った。
「でもわかってくれ。ちょっと、事情が複雑でな……エゴンも奴なりに最善の方法を尽くした結果がこれなんだ」
「ここは? 市庁……ではないですよね?」
「バカ言うなよ……」
心底うんざりした声で、隣の男が言った。
「どこなんです? ここは」
「…… ……麻薬カルテルだ。リヒト東部のほとんどを仕切ってる」
それで僕は、今まで吸ってた空気が麻薬の匂いだと気がついて、思わず咳き込んだ。
「なんでそんなのに親父を?」
「向こうが呼んだからだよ。だからお前もここにいる」
親父が、知らない大陸の麻薬カルテルと何の関係が?
考えれば考えるほど嫌になってきた。
そして、市庁よりも先にここに来ると言うことは、つまりはツィークシュピッツェの市長より優先度が高いと言うことだろう。
僕は車の中で何もせず、何も考えず、呼吸すらするのも嫌になっていた。
エゴンが戻ってきたのは、そこから三時間後のことだった。
車はカルテルから遠ざかり、
エゴンから親父が返された。
「本当に悪い……少し、血がついちまった……」
親父の遺骨に、本当に小さくだが、赤い点がついていた。
「何度か拭いたんだけどな。手遅れだったよ。でも中身は無事だ。信じてくれ」
僕は何も言えなかった。
もし、僕がエゴンを信じられず、無理やりあの建物の中まで親父を運んでいったなら、今頃どうなっていたのか。
考えたくも無かった。
* * * * *
ビルケンコプラからツークシュピッツェは、大した距離でもないのだが、如何せん寄り道があったせいだ。
市庁に着いた時には夜になっていた。
市庁と、警察署と消防署を、コンパクトに合体させたような施設がぽつねんと建っているだけだった。
夜になっていたが、市長さんは待っていてくれたそうだ。
「わざわざお越しくださり、誠にありがとうございます」
市長さんは親父に挨拶を済ませた後、僕に声をかけてくれた。
「ご覧になられたかと思いますが、情けない話、ここツークシュピッツェに治安維持装置は機能していません。
若者は皆、カルテルの一員になってしまうのがここ大陸南東部ですので、全く野放しの状態なんです。
何せここは……《《リヒトから一番離れている場所》》ですので」
市長さんの顔には、諦めの表情が浮かんでいた。
* * * * *
ツークシュピッツェに宿はない。
だから、5台の車で輪になり、何もない平原でキャンプをした。
真前には市庁があるが、別に困ることはないからこの辺りの土地を好きに使っていいとのことだった。
「大変だったな。今日一日」
火を見つめながら、エゴンが僕の隣で言う。
大変だったのは、あんたの方だろう。と、言いたかった。
「わかってくれ。南東部は複雑なんだ。まあ……少しづつ慣れてくれよ」
一生無理だよ。と、喉元から出てしまいそうだった。
「さて、明日向かうのは『トレッタハッシュピッツェ』もしくは『荒野戸』だ。
公式イメージは『東南部唯一の観光都市だと本人たちは思っているが、実際観光しているのはマフィアかカルテルの人間しかいないヤバい都市』だ。
……ま、今日はよく寝てくれ」




