第九十四話
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昼。『和亭』というファミリーレストラン。
同じ窓際の席で、差し込む陽射しの角度まで同じだった。
兄妹は先に着いていた。
石原は、生徒会の書類が入ったファイルをテーブルの縁から離し、壁際の内側へ寄せて置いた。
――ただ、無意識にそうしていた。
それから、静かに待った。視線は窓の外の、車の行き交う通りへ向いている。
父親は時間どおりに現れた。少し張りのあるシャツを着て、髪もきちんと整えていた。手には紙袋を提げていた。
笑ってはいたが、石原と目が合った瞬間、視線が癖のように一度だけ泳ぐ。
けれど、すぐに持ち直した。
「久希、杏。だいぶ待ったかな」
声は少し乾いていた。
「ううん、私たちも今来たところだよ」
杏が先に答えた。声は軽く、場を明るくしようとしているのが伝わる。
席に着き、注文を済ませた。
流れは、断片的な記憶の中の光景と驚くほどよく似ていた。
近況を聞かれたときの父の受け答えは、まるで売れっ子作家が書いたみたいに妙に滑らかだった。
田舎での暮らしを話すときも、前みたいなわざとらしい「懺悔っぽさ」は薄れていて、その代わり、ぎこちないなりに話したがっている感じがある。
杏はちょうどいいところで言葉を挟み、父子のあいだに落ちる気まずい沈黙を埋めていった。
石原の警戒は、終始張りつめたままだ。
石原の視線は、何度も父の手元のコップへ向かった。
(たしか……あのとき、コップに当たったはずだ)
父が少し熱を帯びて話した拍子に、腕が癖みたいにひと振りされた。
――その先は、コップのほうへ向いている。
石原の呼吸がわずかに止まった。
だが、父の腕はそのまま空中で弧を描き、自然に膝の上へ戻った。
流れのままコップを手に取り、一口飲んで、また話を続ける。
コップはしっかり元の場所に立ったままで、水面にも目立った揺れはなかった。
記憶の中の衝突も、驚きの声も、散らかった惨状も――何ひとつ起きなかった。
静かすぎて、かえって胸がざわつく。
石原はしばらく動けなかった。
そのあと、父はふと思い出したように口を止めた。
少し落ち着かない手つきで手を拭き、脇に置いていた紙袋を取り上げると、石原の前へそっと押しやった。
「これ……杏から聞いたんだけど、最近この作家の本を読んでるんだって。通りがかった本屋で見たら、新刊が出てたから、その……」
最後まで言い切らないまま、言葉が途切れた。
視線には、探るような色と、かすかな期待がにじんでいる。
石原は紙袋を受け取った。中には、ハードカバーの本が一冊入っていた。
自分が追っている、とあるマイナーな作家の、先週出たばかりの新刊だ。
シュリンクもそのままで、わざわざ買ってきたのが分かった。
石原は顔を上げ、父を見た。
目の前の男は、気まずそうに頭をかきながら、返事を待つ子供みたいな顔をしていた。
そのとき、杏の声がちょうどいいところで入った。
驚いたような、でもどこか背中を押すような調子で――
「わあ! 本当にその作家さんだ!パパ、すごいね、ちゃんと覚えてたんだ!」
そう言ってから、石原のほうを振り向き、目を細めて笑った。
「お兄ちゃん、最近寝る前ずっとこの作家さんの前の作品読んでたもんね。新刊いつ出るんだろうって、この前も言ってたし」
「ね? パパ、ちゃんと気にかけてくれてたんだよ」
(……気にかけて、か)
石原は本を受け取り、小さく礼を言う。だが、胸の奥の疑いは薄れなかった。
それでも、感情――あるいは、長いこと押し殺してきた期待みたいなものが、この、どこか作り物めいた温かさの中で、抑えきれずにほんのわずかだけ顔をのぞかせる。
そのあと、父は不器用に田舎の夜空の話をし始めた。
古い望遠鏡をうまく合わせられずに手こずったこと。けれど、思いがけず土星の輪がはっきり見えたこと。
それを話すとき、父の顔に浮かんだ短い興奮は、演技には見えなかった。
杏が「今度、私も連れてってよ!」と声を上げると、父は反射的に「いいよ」と答え、それから少し不安そうに石原を見る。
その目には、控えめな誘いと、断られることを怖がる色が混じっていた。
(……俺の疑いすぎか)
杏は父親をにこにこと見つめていた。その横顔は、陽射しの中で明るく、曇りがない。
頭上の感情タグは相変わらず安定していた。
【喜び】と【期待】。それに、「うまく後押しできた」ことへの【満足】も、少しだけ強まっている。
石原は黙ってそれを聞いていた。咀嚼する動きは、やけに遅かった。
距離を取るべきだった。
もっと醒めた目で、目の前のすべてを見極めるべきだった。
けれど、父親が三度目に言いかけてはやめ、結局、皿に残っていた最後の天ぷらを、取り箸でためらいがちに石原の小皿へよそったとき、石原は喉の奥がかすかにつかえるのを感じた。
そのぎこちない仕草には、息子に少しでもよくしてやりたい――そんな、不器用なりの思いがにじんでいた。
石原は紙袋の中の本に目をやり、もう一度、小さく礼を言う。
「ありがとう」
自分の声が耳に入った。思っていたより穏やかで、もっと……普通だった。
父の目が、ほんのわずかに明るくなったのが分かる。
けれど、すぐにまた伏せられ、曖昧に「うん」とだけ返した。
杏の笑顔はいっそう明るくなり、口数も増えた。
学校であったどうでもいい話まで持ち出して、まるでこの場の空気を保つために動いているみたいだった。
食卓の話題は、そのまま、安全でたわいない日常へと滑っていった。
尖った問いもなければ、冷たい対立もない。
あるのは、ときおり交わされる受け答えと、食器が触れ合うかすかな音。
それから、窓の外で少しずつ傾いていく陽射しだけだった。
浅い、見慣れない温かさがあった。
まるで冬の終わりに解け始めた雪解け水が、音もなく心の奥の凍った土を濡らしていくみたいに。
石原は、その温かさを確かに感じていた。
だからこそ、胸の奥の警鐘は、いっそう鋭く鳴る。
軽い眩暈を覚えるほどに。
記憶の中のあの台本――気まずさと失敗と、冷え切った対立で満ちていたはずの台本が、すっかり上書きされていくのを感じていた。
代わりにそこへ重なっていくのは、温かく、和解へ向かって着実に進んでいく「修正版」だ。
二つの記憶が、頭の中で激しくぶつかり合っていた。
どちらも同じくらい現実味があるのに、向かう先だけがまるで違っていた。
どっちが「今」なんだ。
どっちが「本物」なんだ。
目の前の光景を、完全に否定することはできなかった。否定できない。
今この瞬間の、穏やかで、ときおり温かささえ滲むやり取りのほうが、記憶の中――あるいは、自分が勝手にそうだと思い込んでいたあの気まずい元の台本よりも、心のどこか深い場所に隠れていた願いに、ずっと近かったからだ。
(もしかして……似たような夢を見ただけなのか?)
「ごちそうさま」
石原は箸を置く。声は、いつもの落ち着きを取り戻していた。
父も慌てたように箸を置く。
「あ、ああ。そうか。何か、まだ頼むか? デザートとか」
「いえ、大丈夫です。ありがとうございます。少し、トイレに」
席を立ち、やや静かな通路へ出た。
石原は冷たいタイル張りの壁にもたれ、目を閉じて深く息を吸う。
ずっと欲しかった温もりだった。
けれど石原にできるのは、警戒を解かないまま、それを受け取ることだけだった。
顔を洗う。冷たい水が、肌を鋭く打った。
顔を上げると、鏡の中の自分は眉をわずかに寄せていた。
目の奥には、消えない戸惑いと葛藤が沈んでいる。
席へ戻るころには、杏が笑いながら父に別れを告げていた。また今度、一緒にご飯を食べようと約束までしていた。
父はうなずき、それからもう一度、石原へ視線を向けた。まるで、本当に父親らしくあろうとするみたいに。
「気をつけて帰れよ、久希」
そう言って、一拍置いてから付け足した。
「本……気に入ってくれるといいんだけど」
石原はうなずいた。視線は逸らさなかった。
「うん。ありがとう、父さん」
その「父さん」は、気づかぬうちに口をついて出ていた。




