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見える感情、見えないまま  作者: 颍川
第十九章 書き換えられた絆――決してたどり着けない場所
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第九十五話

---


店を出ると、暮れかけた空気が街に降り始めていた。


杏は少し前を弾むように歩き、鼻歌まで口ずさんでいた。

見るからに機嫌がいい。


石原はその後ろを歩きながら、手にした小説を握りしめる。

固い背表紙の角が、掌にわずかに食い込んでいた。


思い描いていた父子関係の和らぎは、たしかに起きた。

紛れもなく、現実としてそこにあった。


石原は胸元に手を当てる。

――そこに残る温もりも、本物だった。


帰り道を歩いていた。

目の前の街並みが、記憶のぼやけた光景と重なっては離れていった。


父の、ぎこちない詫びの色を滲ませたあの顔。

杏のさりげない後押し。

それから――結局、一度も倒れなかったあのグラス。


(……考えすぎか)


石原は視線を横へ向けた。


隣を歩く杏は、スマホをいじりながら、まだ口元に笑みを残していた。

頭上の感情タグは、はっきりと安定していた。


【石原杏の感情:喜び85、期待15】


乱れはない。

後ろ暗さも、まるで見えなかった。


「杏」


石原は声をかける。

思っていたより、ずっと落ち着いた声が出た。


「ん?」


杏が顔を上げた。

その目はきらきらと輝いていた。


「お兄ちゃん、今日すごく楽しかったよね。

パパも……ちゃんと変わろうとしてるんだと思う」


「ああ……そうだな」


石原は短く応じた。

視線は、彼女の顔から外さないまま。


それから、ずっと引っかかっていたことを口にした。


「前に父さんと飯を食ったとき……何か嫌なこと、なかったか?

なんか、うまく思い出せなくて」


できるだけ何でもないふうに。

だが、その反応だけは見逃さないように。


その瞬間、杏の手から力が抜けた。


――ぱたっ


スマホが地面に落ちた。


杏は慌ててそれを拾い上げ、小さくつぶやく。


「うぅ……私のスマホ……」


そして顔を上げた。

笑顔は、さっきと変わらないまま。


「え、嫌なこと? そんなのなかったよ。

それより……“前に”って、いつの話?」


少し首をかしげた。


「今日が、パパと初めて外でご飯食べた日でしょ?」


「……そうか」


石原はそれ以上は追及しなかった。

彼女の言葉に合わせるように、軽くうなずく。


「たぶん、俺の勘違いだ」


そう言いながらも、胸の奥の違和感は消えなかった。


その後、杏は特に影響を受けていないようだった。

むしろ、いつもよりよくしゃべっていた。


週末に父を家へ呼ぶか、それとも一緒に映画でも観に行くか――

そんな話を、楽しそうに続ける。


石原はほとんど聞いているだけで、ときおり短く相槌を打つ。

だが胸の奥では、静かに何かが渦巻いていた。


家に着き、自分の部屋へ戻った。

ドアを閉め、背を預けたまま、深く息を吸う。


(これは気のせいじゃない……)

(ストレスのせいでもない……)

(それに……杏は、何か知っているはずだ)


脳裏に、生徒会室の光景が浮かんだ。


いつも核心を突いてくる花野。

落ち着いていて頼れる春野。

細かいところによく気がつく立花。

そして――緒山。


石原はスマホを取り出し、緒山とのトーク画面を開いた。


カーソルが点滅している。

だが、何から打てばいいのか分からなかった。


いきなり「世界が書き換えられた気がする」なんて言うのか?


――どう考えても、妄想じみた戯言にしかならない。


迷っていると、スマホが震えた。


「先輩、無事に家に着きましたか?(´・ω・`)」

「今日のお父さんとの食事会……うまくいきましたか?」


――今朝出発するとき、石原は緒山に父に会うと連絡した。その時の彼女も、熱心に石原を励ましてくれた。


その二行を見て、石原の胸の奥で張りつめていた何かが、わずかにほどける。

彼女はいつもこうだった。必要なときに、ちょうどいい温度で寄り添ってくれる。


「うん、着いた。食事は……まあ、問題なく終わった」


少し迷ってから、そのまま送る。


「ただ、少しおかしいことがある」


「気になること? 今、通話できますか?」


次の瞬間には、通話の着信音が鳴っていた。


石原が電話に出ると、スマホから緒山の声が届く。


向こうはひどく静かで、かすかにページをめくる音が混じっていた。


「先輩、今、部屋にいます。おかしいって、どういうことですか?」


声には、過度な好奇心も心配もない。

ただ、静かに聞こうとしているのだけが伝わってきた。


石原は考えを整理しながら、できるだけ客観的に話した。

食事の場で感じた、食い違う記憶のこと。

それから、問いかけたときの杏の不自然な反応も。


通話の向こうで、しばらく沈黙が流れた。

聞こえるのは、浅い呼吸の音。


「まったく違う二つの記憶……しかも、後から重なったほうが明らかに“理想寄り”なんですね」


緒山は考え込むように言った。


「先輩、最近ちゃんと眠れてますか? ストレスは強いですか? それとも、何か変わったものに触れたりは?」


「睡眠は問題ない。ストレスは……あるけど、これとは違う。

曖昧な夢とか錯覚じゃない。もっとはっきりした、矛盾する“記憶”って感じだ」


「そうですか……でも、私は先輩の話、信じます。

となると、考えられるのは――」


一度言葉を切った。


「記憶に干渉して、場合によっては現実の細部まで書き換える……そういうのって、私たちには“心当たりのある領域”ですよね」


石原はすぐにその示唆を理解した。

――異能力。


「……異能力者、か」


石原は声を低くした。


「可能性はあります。

それに、ここまで明確に先輩の家族関係に影響が出ている以上、その人は先輩のことをかなり知っているはずです。

あるいは……“執着”そのものが、この件に強く結びついているのかもしれません」


緒山の言葉は、落ち着いていてはっきりしていた。


「杏ちゃんの反応……あの子の可能性は?」


石原は一瞬戸惑ったが、すぐにその結論を否定した。


「感情タグに乱れはないし……最近の様子を見る限り、何かを抱えているようにも見えない」


石原は目を閉じた。


「機会を見て、花野さんにも聞いてみるつもりだ」


「私も手伝いましょうか?」


「……いや、今はいい。この件、正直かなり妙だ。

相手の目的も読めないし……緒山さんを巻き込みたくない」


「もう、先輩ったら」


少しだけ拗ねたふりの声だった。


「でも、先輩の判断は尊重します。

いつでも連絡してください。あと……」


少し間を置いて、声が落ちた。


「何かあったら、くれぐれも気をつけてください。先輩」


通話は切れた。

部屋には再び静けさが戻る。


それでも、石原の胸にあった重さは、ほんの少しだけ軽くなっていた。


石原は窓の外の深い夜を見つめた。

その瞳が、確かな意思を帯びた。

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