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見える感情、見えないまま  作者: 颍川
第十九章 書き換えられた絆――決してたどり着けない場所
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第九十六話

---


【九月二十二日・日曜日】


日曜の午後、石原は夏期活動のまとめの初稿を持って学校へ向かった。

会長のサインが必要だった。


陽射しは容赦なく、蝉の声もうるさい。

校内には、部活動に来ている生徒の姿がまばらに見えるだけだった。


石原は旧校舎の生徒会室へ向かう。

足取りは落ち着いていたが、頭の中では思考が休みなく回っていた。

夢と現実。疑いと手がかり――そのすべてを何度も突き合わせながら。


二階の廊下へ上がったとき、見覚えのある姿が目に入った。


花野だった。


理科準備室のほうから歩いてくる。

腕には分厚い上製本を何冊かと、タブレットを抱えていた。


彼女は、いつ見ても妙に隙がない。

夏休みの校内にいても、それは変わらなかった。


「花野さん」


石原は足を止め、声をかけた。


花野は顔を上げた。

レンズの奥の視線は、相変わらず静かだ。


「何?」


「書類を届けに」


石原は歩み寄った。

一瞬だけ迷い――この偶然を逃さないことにした。


記憶の食い違いと、異常な夢について、要点だけを伝える。


花野は聞き終えると、ほとんど間を置かずに結論を出した。


「異能力。日付の巻き戻し、記憶の再構築、夢の挿入。

誰かが“ループの筋書き”を組み替えている」


会長にも共有して、チームで動くべきだと告げられる。


石原はうなずいた。


花野とのやり取りは、まるで冷静な診断みたいだ。

「自分の考えすぎかもしれない」という最後の迷いを、きれいに消し去った。


生徒会室では春野と合流した。


春野は、夏のボランティア活動のフィードバック表をまとめていた。


石原の話を聞き終えると、ペンを置き、表情を引き締める。


「もうお前一人の問題じゃない。今夜、グループで共有する。全員に知っておいてもらう」


石原は否定しなかった。


「その先の動きは、それから決めればいい」


石原は静かにうなずく。

胸の中に、ようやく足場みたいなものができはじめていた。


---


家に戻るころには、夕陽がリビングをやわらかな橙色に染めていた。


杏はソファにあぐらをかいて座り、新作のアニメを見ていた。

手元には、食べかけのポテトチップスが置いてある。


石原の姿に気づくと、ぱっと手を振った。


「お兄ちゃん、おかえり! 学校の用事、終わった?」


「……ああ」


石原は短く返しながら、彼女を観察した。


笑顔に陰りはなかった。

頭上の感情タグも、軽い【愉悦】で安定している。

――文字化けは、ない。


石原は自室に入り、ドアを閉めた。


少し時間が必要だった。

グループでどう話すか、頭の中を整理するためだった。


夜八時。

石原は生徒会のグループチャット【夏コラボ】を開いた。

杏も入っていた。


このグループは普段、夏祭りの後処理やそのほかの日常的な連絡に使われている。


石原はそこで、ここ数日の異常について報告した。

起きていることを、できるだけ細かく書く。


立花はすぐに心配の言葉を返してきた。

続いて緒山と春野からも返信がある。慎重ではあるが、二人とも支える側に立っていた。

花野は短く、「記録用のログを別に作るべき」と提案した。


その中で、石原の視線は、杏の返信に止まった。

妙に早い。


「お兄ちゃん! 何か変なこと起きてるの? どうして言ってくれなかったの?」

「パパのことで何かあった? 私にできることある?」


文面には焦りと心配が滲んでいた。


だが石原の目は、スマホの画面ではなく、わずかに開いたドアの隙間の向こうへ向いていた。


リビングの杏。

体を強張らせ、スマホを食い入るように見つめている。


頭上の感情タグが激しく揺れ、送信ボタンを押した瞬間、無理やり押さえ込まれ、継ぎ合わせるように整えられていった。


【石原杏の感情:心配、気遣い】


「大丈夫だ、杏」


石原はグループに返信した。

文面はいつも通り、落ち着いている。


「少し引っかかることがあるだけだ。先に共有しておきたかっただけ。心配するな」


メッセージを送りながら、ドアの向こうの様子を見ていた。


杏はほっとしたように肩の力を抜く。

だがスマホは握ったまま、視線も外さなかった。

やり取りの続きを追っているのが分かる。


会長のまとめと花野の冷静な提案によって、チャットの空気は「気にはかけるが、過度には騒がない」方向へ落ち着いていった。


立花がいくつか励ましの言葉を送り、緒山もそれに続いた。


それ以上、話は深くならなかった。


石原は椅子の背にもたれ、深く息を吸う。


――想定以上だ。


探りの結果は、自分がいちばん考えたくなかった可能性を、はっきりと指し示していた。


いつも笑っていて、無邪気な甘えをたたえたあの目の奥に、自分の知らない何かが潜んでいるのかもしれない。


(……でも、杏の感情タグには……異能力者特有の文字化けはない)


(だとしたら……)


夜は静かに深まっていく。

窓の外では、街の灯りが淡く瞬いていた。


石原は分かっていた。

これまで以上に、冷静でいなければならない。

慎重に動かなければならない。


---


【夜・とある人物の部屋】


部屋にはデスクライトだけが灯っていた。

淡い光が机の上を照らしている。


彼女は机の前に座り、ノートを開いていた。


下唇を噛み、指先がわずかに震えている。


――気づかれた。


違和感だけじゃない。

“異能力の関与”とまで判断され、他の人たちにも共有された。


冷たい恐慌が、波のように何度も押し寄せる。


(だめ……このままじゃ……)


(他の人を巻き込むわけにはいかない)


これは、本来、自分たち家族だけの、静かに円満へ向かうための道のはずだった。


外からの視線が入れば、その脆い道は簡単に崩れてしまう。


彼女は新しいページを開いた。

白い紙面が、書かれるのを待っている。


視線が、扉の一文へ向かった。


「――物語は、ろうそくを吹き消したその瞬間から、ロマンチックに始まる」


その言葉を見つめる目に、決意と迷いが入り混じった色がよぎった。


ペンを手に取り、深く息を吸う。

全身の力をそこへ集めるように。


ペン先が紙の上でわずかに震えた。


(みんなの反応を自然に整えれば……)


(あの人自身が、“考えすぎだった”と思うはず……)


小さくつぶやいた。

視線が少しずつ定まる。


やがて、慌てた気持ちは消え、代わりに、ほとんど執念に近い確信がそこに残った。


ペン先が紙に触れた。

強く書き込まれた文字が、くっきりと刻まれる。


三周目修正方針:


【九月二十二日・日曜日・午前】


・目標:石原久希の疑念を消し、異常を本人のストレスや偶然のせいだと思わせる。


彼女はページいっぱいに、細かな調整を書き連ねていった。


そして、ふと手を止めた。

眉がきゅっと寄った。


(緒山朋奈……あの人の反応は、特に重要)


彼女は必死に思い出した。

緒山の話し方。思考の流れ。


その人物像に合った、自然で説得力のある“疑いの言葉”を、頭の中で組み立てていった。


(それに……私自身も)


(少しの綻びも許されない)


――大丈夫。大枠は固まった。


三度目の試行。


ふいに、あの感覚が訪れた。


自分という存在が、わずかに引き剥がされるような軽い目眩の感覚。


デスクライトの光が揺れ、伸び、歪む。

周囲の景色は、水に溶けた絵の具のように輪郭を失っていった。


音のない唸りが世界を満たす。


時間が巻き戻されていく。

まるで逆再生されるように、景色が高速で遡っていく――

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