第九十六話
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【九月二十二日・日曜日】
日曜の午後、石原は夏期活動のまとめの初稿を持って学校へ向かった。
会長のサインが必要だった。
陽射しは容赦なく、蝉の声もうるさい。
校内には、部活動に来ている生徒の姿がまばらに見えるだけだった。
石原は旧校舎の生徒会室へ向かう。
足取りは落ち着いていたが、頭の中では思考が休みなく回っていた。
夢と現実。疑いと手がかり――そのすべてを何度も突き合わせながら。
二階の廊下へ上がったとき、見覚えのある姿が目に入った。
花野だった。
理科準備室のほうから歩いてくる。
腕には分厚い上製本を何冊かと、タブレットを抱えていた。
彼女は、いつ見ても妙に隙がない。
夏休みの校内にいても、それは変わらなかった。
「花野さん」
石原は足を止め、声をかけた。
花野は顔を上げた。
レンズの奥の視線は、相変わらず静かだ。
「何?」
「書類を届けに」
石原は歩み寄った。
一瞬だけ迷い――この偶然を逃さないことにした。
記憶の食い違いと、異常な夢について、要点だけを伝える。
花野は聞き終えると、ほとんど間を置かずに結論を出した。
「異能力。日付の巻き戻し、記憶の再構築、夢の挿入。
誰かが“ループの筋書き”を組み替えている」
会長にも共有して、チームで動くべきだと告げられる。
石原はうなずいた。
花野とのやり取りは、まるで冷静な診断みたいだ。
「自分の考えすぎかもしれない」という最後の迷いを、きれいに消し去った。
生徒会室では春野と合流した。
春野は、夏のボランティア活動のフィードバック表をまとめていた。
石原の話を聞き終えると、ペンを置き、表情を引き締める。
「もうお前一人の問題じゃない。今夜、グループで共有する。全員に知っておいてもらう」
石原は否定しなかった。
「その先の動きは、それから決めればいい」
石原は静かにうなずく。
胸の中に、ようやく足場みたいなものができはじめていた。
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家に戻るころには、夕陽がリビングをやわらかな橙色に染めていた。
杏はソファにあぐらをかいて座り、新作のアニメを見ていた。
手元には、食べかけのポテトチップスが置いてある。
石原の姿に気づくと、ぱっと手を振った。
「お兄ちゃん、おかえり! 学校の用事、終わった?」
「……ああ」
石原は短く返しながら、彼女を観察した。
笑顔に陰りはなかった。
頭上の感情タグも、軽い【愉悦】で安定している。
――文字化けは、ない。
石原は自室に入り、ドアを閉めた。
少し時間が必要だった。
グループでどう話すか、頭の中を整理するためだった。
夜八時。
石原は生徒会のグループチャット【夏コラボ】を開いた。
杏も入っていた。
このグループは普段、夏祭りの後処理やそのほかの日常的な連絡に使われている。
石原はそこで、ここ数日の異常について報告した。
起きていることを、できるだけ細かく書く。
立花はすぐに心配の言葉を返してきた。
続いて緒山と春野からも返信がある。慎重ではあるが、二人とも支える側に立っていた。
花野は短く、「記録用のログを別に作るべき」と提案した。
その中で、石原の視線は、杏の返信に止まった。
妙に早い。
「お兄ちゃん! 何か変なこと起きてるの? どうして言ってくれなかったの?」
「パパのことで何かあった? 私にできることある?」
文面には焦りと心配が滲んでいた。
だが石原の目は、スマホの画面ではなく、わずかに開いたドアの隙間の向こうへ向いていた。
リビングの杏。
体を強張らせ、スマホを食い入るように見つめている。
頭上の感情タグが激しく揺れ、送信ボタンを押した瞬間、無理やり押さえ込まれ、継ぎ合わせるように整えられていった。
【石原杏の感情:心配、気遣い】
「大丈夫だ、杏」
石原はグループに返信した。
文面はいつも通り、落ち着いている。
「少し引っかかることがあるだけだ。先に共有しておきたかっただけ。心配するな」
メッセージを送りながら、ドアの向こうの様子を見ていた。
杏はほっとしたように肩の力を抜く。
だがスマホは握ったまま、視線も外さなかった。
やり取りの続きを追っているのが分かる。
会長のまとめと花野の冷静な提案によって、チャットの空気は「気にはかけるが、過度には騒がない」方向へ落ち着いていった。
立花がいくつか励ましの言葉を送り、緒山もそれに続いた。
それ以上、話は深くならなかった。
石原は椅子の背にもたれ、深く息を吸う。
――想定以上だ。
探りの結果は、自分がいちばん考えたくなかった可能性を、はっきりと指し示していた。
いつも笑っていて、無邪気な甘えをたたえたあの目の奥に、自分の知らない何かが潜んでいるのかもしれない。
(……でも、杏の感情タグには……異能力者特有の文字化けはない)
(だとしたら……)
夜は静かに深まっていく。
窓の外では、街の灯りが淡く瞬いていた。
石原は分かっていた。
これまで以上に、冷静でいなければならない。
慎重に動かなければならない。
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【夜・とある人物の部屋】
部屋にはデスクライトだけが灯っていた。
淡い光が机の上を照らしている。
彼女は机の前に座り、ノートを開いていた。
下唇を噛み、指先がわずかに震えている。
――気づかれた。
違和感だけじゃない。
“異能力の関与”とまで判断され、他の人たちにも共有された。
冷たい恐慌が、波のように何度も押し寄せる。
(だめ……このままじゃ……)
(他の人を巻き込むわけにはいかない)
これは、本来、自分たち家族だけの、静かに円満へ向かうための道のはずだった。
外からの視線が入れば、その脆い道は簡単に崩れてしまう。
彼女は新しいページを開いた。
白い紙面が、書かれるのを待っている。
視線が、扉の一文へ向かった。
「――物語は、ろうそくを吹き消したその瞬間から、ロマンチックに始まる」
その言葉を見つめる目に、決意と迷いが入り混じった色がよぎった。
ペンを手に取り、深く息を吸う。
全身の力をそこへ集めるように。
ペン先が紙の上でわずかに震えた。
(みんなの反応を自然に整えれば……)
(あの人自身が、“考えすぎだった”と思うはず……)
小さくつぶやいた。
視線が少しずつ定まる。
やがて、慌てた気持ちは消え、代わりに、ほとんど執念に近い確信がそこに残った。
ペン先が紙に触れた。
強く書き込まれた文字が、くっきりと刻まれる。
三周目修正方針:
【九月二十二日・日曜日・午前】
・目標:石原久希の疑念を消し、異常を本人のストレスや偶然のせいだと思わせる。
彼女はページいっぱいに、細かな調整を書き連ねていった。
そして、ふと手を止めた。
眉がきゅっと寄った。
(緒山朋奈……あの人の反応は、特に重要)
彼女は必死に思い出した。
緒山の話し方。思考の流れ。
その人物像に合った、自然で説得力のある“疑いの言葉”を、頭の中で組み立てていった。
(それに……私自身も)
(少しの綻びも許されない)
――大丈夫。大枠は固まった。
三度目の試行。
ふいに、あの感覚が訪れた。
自分という存在が、わずかに引き剥がされるような軽い目眩の感覚。
デスクライトの光が揺れ、伸び、歪む。
周囲の景色は、水に溶けた絵の具のように輪郭を失っていった。
音のない唸りが世界を満たす。
時間が巻き戻されていく。
まるで逆再生されるように、景色が高速で遡っていく――




