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見える感情、見えないまま  作者: 颍川
第十九章 書き換えられた絆――決してたどり着けない場所
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第九十七話

---


【九月二十二日・日曜日・朝】


杏はベッドの上で目を覚ました。

カーテン越しの朝の光は、やわらかい明るさだ。


ぱちぱちとまばたきをする。

ほんの一瞬、頭が空白になった。


(今日は……日曜? お兄ちゃん、このあと学校に書類を出しに行くんだっけ)

(昨日……昨日、何かあったっけ。お兄ちゃんとご飯……? パパとも?)


記憶が途切れ途切れだった。

まるで映りの悪い古いテレビだ。


杏は体を起こし、部屋を出た。


玄関では、石原が靴を履いていた。


「お兄ちゃん、気をつけてね」


明るく笑いかけた。

声も、いつも通り軽やかだ。


「……ああ」


石原は一度だけ彼女を見た。

いつもより、ほんの少しだけ視線が長かった。


だが何も言わず、そのままドアを開けて出ていった。


杏は小さく息をつく。


リビングに戻り、スマホを手に取った。

画面を指でなぞるが、何をするつもりだったのか自分でも分からなかった。


(……いいや。お兄ちゃんが帰ってきてからで)


テレビをつける。

にぎやかなアニメの音が、部屋を満たした。


---


石原は、静まり返った校舎の廊下を歩いていた。


朝からずっとまとわりついていた違和感が、時間が経つほどに強くなっていく。


(今日は……日曜? 何かが……噛み合ってない)


石原はわざと少し遠回りをした。

音楽室の前を通るルートへ回る。


この時間帯、花野が校内にいるなら、ここにいる可能性が高い。

だが今日は、音楽室の扉は閉ざされ、中は静まり返っていた。


扉には一枚のメモが貼られていた。

整った字だ。


「バンド午前緊急練習のため使用中。――花野」


石原はそのまま生徒会室へ向かった。

扉はわずかに開いている。

ノックをしたが、返事はなかった。


押し開けると、やはり中には誰もいなかった。


春野の机はきれいに整えられている。

椅子もきちんと机の下へ収まっていた。


石原は書類を置き、しばらくその場に立ち尽くした。


静かすぎる。


まるで、この世界全体が意図的に自分を避けているみたいだった。


石原はすぐには動かなかった。


その場に立ったまま目を閉じる。

朝からずっと消えない、この妙な既視感を無理やり整理しようとした。


――そして。


目を開いた。


昨日。


はっきり覚えている。

昨日は日曜日だった。


学校へ来て、花野と春野に会い、話をした。

帰宅後、グループで通話し、異能力について話し合った。


なのに――今日もまた、九月二十二日、日曜日。


時間が進んでいない。


それだけじゃない。

今日は花野にも春野にも会えていない。


すべてが、一つの結論へ収束していった。


――世界が、もう一度リセットされた。


花野と春野が“ちょうど”不在だったのも、

この異能力者の意図的な仕込みだ。


ループは、現実だ。


背筋に冷たいものが走った。


疑いを消すために――ここまでやるのか。時間を巻き戻し、現実ごと書き換えて。


……だが。


なぜ、自分は覚えている?


なぜ、あの食い違う記憶も、昨夜のやり取りも、はっきりと残っている?


――自分の能力のせいか?


石原は深く息を吸い込んだ。

胸の内で渦巻く寒気と、現実感の揺らぎを押し込めた。


ここで立ち止まるわけにはいかない。


この“やり直された舞台”の上で、用意された流れに従うだけでは終われない。


石原はもう迷わなかった。


スマホを取り出し、足早に生徒会室を後にした。


人目の少ない場所まで移動し、そこで立ち止まると――今、この状況でいちばん心を落ち着けてくれる相手の番号を呼び出す。


「もしもし? 先輩?」


緒山の声が聞こえてきた。

背景にはやわらかい音楽が流れていた。どうやら家にいるらしい。


「この時間に電話って、どうしたんですか?

学校の用事、もう終わったんですか?」


その声は――あまりにもいつも通りだった。


“昨夜”対策を話し合ったあとの、あの張りつめた共通認識もなければ、“新しい一日”に対する違和感もない。


石原の胸が、わずかに沈んだ。

だが声だけは、できる限り平静に保った。


「終わった。ただ、会うはずだった人には会えなかった」


「えっ?」


石原は一拍置く。

そして、いちばん重要な確認から入ることにした。


「朋奈。昨日のことなんだけど――」


少し言葉を選んだ。


「土曜の食事のあとに話しただろ。俺の家で起きてる“異常な干渉”について。あれ、朋奈はどう見る?」


通話の向こうが静まり返った。


二秒。


石原にとっては、やけに長い時間だった。


「異常な干渉……?」


緒山の声には、はっきりとした戸惑いが混じっている。

けれどすぐに、それは心配の色へと変わった。


「先輩、それって……土曜の食事のあとに感じた違和感のことですよね?

あのあと、少し話しましたよね……」


一度言葉を切った。


「何か、新しく気づいたことがあったんですか?」


――土曜の違和感は覚えている。

――二人で話したことも覚えている。


だが、“昨日”――日曜の夜にあったグループでのやり取りは、存在していない。


時間は巻き戻されている。


しかも、その起点は――土曜の夜から日曜の朝のあいだ。


緒山の記憶は、二人で話した時点で止まっている。


「……ああ」


石原はすぐに答えた。

思考はもう次の段階へ進んでいた。


「少しな。どうも、一つの出来事だけの話じゃない気がする」


そして続けた。


「朋奈、頼みたいことがある。

たぶん――他の人たちが気づく前に、こっちから先に動いたほうがいい」


通話の向こうで、空気が引き締まる。


「分かりました、先輩」


石原には分かっていた。


“知っているはずの情報”を、この“巻き戻されたあとの緒山”に、もう一度伝え直さなければならない。


そして、何も起きていないように見えるこの新しいループの中で、先に観測の目を向けておく必要がある。


――今度は違う。


自分がループの中にいると、はっきり自覚している。


通話を終え、緒山と情報をもう一度共有し、方針を決めたことで、石原の中の不安はわずかに落ち着いた。


打ち合わせ通り、その夜。


緒山は【夏コラボ】のグループチャットに、「先輩が言っていた奇妙な現象が少し気になる」という形で話題を投げた。


切り口は、あくまで穏やかだった。


話題の中心は、「記憶の信頼性」。

そして「強い執着が認識に及ぼす普通ではない影響」。


“ループ”や“異能力”といった直接的な言葉は避けられていた。

雰囲気としては、ちょっとした討論に近い。


やり取りは、最初は穏やかに進んだ。


花野は、いくつかの心理学的データを挙げ、人間の記憶はもともと可塑性が高く、感情の揺れや強い期待によって、記憶の“補完”や“混同”が起きやすいと指摘した。


その説明は簡潔で、既存の理論に沿っていた。


立花は、自分の「記憶違い」で恥ずかしい思いをした経験をいくつか話した。

明るい口調で、場の重さをやわらげる。


「記憶って完全じゃないって思うと、ちょっと怖いですよね」


そう言った。

石原も、その感覚には覚えがあった。


春野は慎重な立場から書き込んだ。

認識の食い違いに直面した場合は、複数の情報源で確認を取ること、客観的な基準を持つことの重要性を強調した。


杏も会話に加わった。


その文面は、心配と気遣いに満ちていた。


「なんだか難しい話だね……

でも、お兄ちゃんが気にしてるってことは、何か感じたからだよね?」


少し間を置いてから続けた。


「でも、もしかして……ストレスが強かったり、

うまくいってほしいって気持ちが強すぎて、

記憶を無意識に少し良く補正しちゃってる可能性もあるのかなって……」


流れは、石原と緒山が想定していた方向へ進んでいった。


あくまで自然な議論として進んでいく。

石原の疑念も、浮いたものにはならなかった。


同時に、介入の痕跡があるかどうかも観察できた。


そのあと、石原は自分の状況を改めて説明する。


議論はすぐにまた動き出した。


――だが。


石原の警戒は、一瞬たりとも緩まなかった。


発言のタイミング。

言葉の選び方。


そのすべてを、黙って見ていた。


そして――流れが変わった。


議論が中ほどまで進んだころだった。

「異能力が現実を歪めうるか」という派生した話題に入ったときだ。


緒山が、グループにこんな文面を投げた。


「仮に、記憶や出来事の細部を大規模かつ精密に書き換えられる能力が存在するとしたら、その仕組みやエネルギー源は想像もつかないものになります。

むしろそれは、未知に対する恐怖が生み出したイメージに近いのではないでしょうか」


「先輩が感じた違和感も、複数の要因が重なった認知のズレで説明できる可能性が高いと思います。

まずは先輩の負担を軽くすることを優先すべきで、早い段階で“超常的な力”を前提に考えるのは、かえって精神的な負荷を強めるかもしれません」


論理は明確で、筋も通っている。

石原への配慮すら感じられる。


そして自然に話題を「ストレス」や「偶然」へ誘導し、この一件を“よくある心理現象”として収めようとしていた。


――だが。


その文章を目にした瞬間、石原の目が見開かれた。


(おかしい!)


これは緒山の言葉じゃない。


少なくとも、ついさっき電話で「異能力者の可能性をみんなに共有する」と合意した彼女が、

この場で出すはずのない内容だ。


結論を急いで固めようとする意図。

思考を“現実的な範囲”に閉じ込めようとする圧力。


それに、この言い回しもおかしい。

普段の彼女なら、もっと柔らかく、相手を支えるように話すはずだ。


石原はすぐに指を動かした。


「今の文章、朋奈が打ったのか?」


――返事はない。


数分後、ようやく返信が来た。

その文面には、隠しきれない動揺が滲んでいる。


「私……? さっき何を考えてたのか、うまく思い出せません。

あの発言も……記憶にないんです」


やはり……!


冷たいものが背中を這った。


「どういうこと……?」


立花が疑問のスタンプを送った。


「“認知のズレ”や“複数要因”という分析自体には整合性がある。

少なくとも、思いつきで出てくる内容ではない」


花野も戸惑いを隠せていなかった。


「緒山。打ち込む直前、どんなふうに考えてたか、できるだけ思い出してみてくれ」


春野が落ち着いた調子で促した。


少しの沈黙。


緒山は記憶をたどるように言葉を探しているようだった。


「……確かに、あのときは

“これがいちばん筋の通る説明だ”って、すごく自然に思ってました」


一度区切った。


「ストレスとか、偶然とか、感情の影響とか……

そういう要素を重ねれば、先輩の状況は説明できるって」


「その考えがあまりに自然に浮かんできたので、

そのまま整理して書き込んだんだと思います。でも……」


少し間を置いて、続けた。


「今、先輩に言われて振り返ると、

その“自然な判断”に至るまでの時間が、短すぎました」


「それに、直前に電話で話した内容とも食い違っています」


「私なら、まず先輩と個別に確認するか、少なくとももっと曖昧な言い方で様子を見るはずです。あんなふうに断定は……しません」


緒山の自己分析は、暗がりを照らすライトみたいに、ひとつの構造を浮かび上がらせた。


――思考の流れそのものに、あらかじめ“道筋”が埋め込まれている。


本人は自分で考えているつもりでも、気づかないうちに、用意された結論へ導かれていく。


石原が違和感を指摘したことで、他のメンバーも次々に気づき始めた。


立花も、自分が「記憶は当てにならない」と証明したくなる衝動が、妙に強かったと気づいた。

春野や花野でさえ、軽く誘導されるような感覚があったと認めた。


「言われてみれば……私もさっき、“お兄ちゃんのストレスかも”って強く思っちゃってた。

ちゃんと他の可能性、考えてなかったかも……」


杏もそう書き込んだ。


影響は極めて微細だった。


自分の思考と区別がつかないほど自然に紛れ込んでいる。


――だが、確かにある。


もし石原が指摘しなければ、誰もそれに気づかなかっただろう。


そして――


緒山。


石原に最も近く、議論の方向を定めやすい位置にいる彼女こそ、最も強く、直接的に影響を受けていた。


だからこそ、“電話での合意”と“グループでの発言”に、はっきりしたズレが生まれた。


……


夜風が窓を抜け、静かにとある部屋へ入り込む。


机の上のノートが開いていた。


そこに書かれている一行。


――会議では、「異能力」という単語を出さないこと。


そのノートの持ち主は――今、何をしているのか。


……


石原は、確信していた。


――もう十分だ。


「つまり――」


ゆっくりと打ち込んだ。


「俺たちは無意識のうちに、“ある言葉”を避けるよう誘導されている」


一拍置いた。


「異能力。誰かが、意図的に介入している」


さらに続ける。


「この件は、正式に“警戒と観察を要する異常現象”として扱うべきだと思う。

各自、違和感を覚えたら必ず記録して共有してくれ」


少し考えてから、補足した。


「個別の連絡手段も維持しておくこと。

重要な判断は、必ず複数人で確認する。安全第一で頼む」


「了解」「わかりました」「OKです」「うん!」


返答は簡潔で、迷いがなかった。

杏だけが返信しなかった。


本来なら、内側で自然にほどけていくはずだった議論は、逆に“異常の存在を確かめる場”へと変わった。


見えない“脚本家”が撒いた疑念と分断の種は、芽を出す前に、連携によって摘み取られたのだ。


そして――


リビングの杏は、画面の向こうで動いていくやり取りを見つめながらも、どこか上の空のまま、指先を止めていた。


---


薄暗い部屋。

デスクライトの光の下で、杏の顔色は青白かった。


目の前にはノートが開かれていた。

万年筆は手を離れて転がり、ペン先から滲んだインクが紙に小さな染みを作っていた。


(……失敗した。また、失敗した)


あれだけ慎重にやったはずだったのに。

露骨な衝突は全部避けた。


ただ、みんなが“自然に”――お兄ちゃんが考えすぎているだけだと、そう思うようにしただけなのに。


しかも――一番信頼している“朋奈さん”に、いちばん説得力のある“常識的な説明”を言わせるところまで整えたのに。


(なのに……どうして……どうして先に電話してるの……?

そんなに通じ合ってるの……?)


時間は、もっと前まで戻したはずだった。


(まさか……お兄ちゃん……覚えてるの?)


(リセットされる前のこと……)


その考えが浮かんだ瞬間、視界がぐらりと揺れ、背筋に冷たいものが走った。


もし、覚えているのだとしたら――自分がやってきたことは、全部、見透かされていることになる。


滑稽だった。


まるで、ひとりで空回りしているみたいで。


ノートの文字が、ゆらゆらと揺れて見えた。


「議論の誘導」「反応の設計」――書き並べたはずの計画は、どれもひどく頼りなく見えた。


気づいてしまった。


関わる人が増えれば増えるほど、制御しきれない要素も増えていく。


そのぶん、綻びも大きくなる。


緒山とお兄ちゃんの“個別でのやり取り”――そこは、最初から抜け落ちていた。


「……あっち側から入るのは、無理か」


かすれた声で、ぽつりと呟いた。


(変数が多すぎる……抑えきれない)


疲労が押し寄せた。

あの、慣れた空虚さも一緒に。


思考の一部が、ゆっくり霧の中に沈んでいくような感覚があった。


杏はぎゅっと手のひらに爪を立てた。

痛みで、かろうじて意識をつなぎ止める。


――焦点。


もっと単純なところに戻さないと。


(パパがちゃんとやれば……)


(お兄ちゃんだって……きっと)


どれだけ疑っていても、心まで石みたいに固いわけじゃない。


ちゃんと伝われば、きっと、揺らぐ。


そうなれば外からの視線も、疑いも、自然と消えていく。


――そうだ。


鍵は、父親だ。


杏は再びペンを握った。


重くなる頭と、じわじわ痛むこめかみを無視して、無理やり意識を集中させた。


震えるペン先が、白紙に触れた。


【調整方針】


・物語の焦点をずらす。中心人物同士の関係性の深化へ。


・次の場面。翌日――九月二十三日、月曜日、夕方。


・イベント。朝、父親から電話。家を訪ねたいと申し出る。理由は子どもたちの様子を見るため。土産あり。


完璧な再会の形を、細部まで組み立てていった。


書き終えた瞬間、力が抜ける。


そのまま椅子に沈み込むように座り込み、焦点の合わない目で天井を見上げた。


ノートの文字が、わずかに揺れていた。


(パパ……お兄ちゃん……家族……)


これらの言葉は、まだ温かい吸引力を放っていた。


けれど、それらをつなぐ道筋も、自分が今まさに敷こうとしている“その道”も、どこか、はっきりしなくなっていく。


ただ一つ、分かっていることがある。


続けなければならない。


この物語を、“幸せな結末”まで、導かなければならない。


どうして自分がそれを確信しているのか。

どうして“書く力”を持っているのか。

そして、絶えず明晰さを侵食し続けるこの疲労と虚空がどこから来るのか。


――そんなことは、どうでもいい。


夜はさらに深くなる。


書き手と、その手によって書き換えられていく世界を、静かに包み込んでいく。


新たな「家族の温もり」のシナリオが、再び始まろうとしていた。

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