第九十八話
---
【九月二十三日・月曜日】
朝。
カーテンの隙間から差し込む陽射しが、食卓の上にくっきりとした光の跡を落としている。
石原は黙ったまま、朝食を口に運んでいた。
向かいでは杏が牛乳をちびちび飲みながら、ときおりリビングのローテーブルに置かれたままのスマホへ視線を向けていた。
その目には、表に出しきれない焦りと、誰かからの連絡を待つそわそわした落ち着かなさがにじんでいた。
「お兄ちゃん、今日……」
そう言いかけたそのときだった。
まるで無言の合図でも届いたかのように、スマホが唐突に鳴り出す。
少し静かすぎる朝のリビングに、その着信音はやけに場違いなくらい響いた。
杏はほとんど椅子から跳ねるように立ち上がると、足早にスマホのもとへ向かう。
画面をひと目見た瞬間、顔がぱっと輝いた。声まで弾んでいる。
「パパ!」
ひとつ深呼吸してから、通話ボタンを押した。
「もしもし、パパ? おはよう!」
石原は箸を止め、妹の様子を目で追う。
向こうが何を言っているのかまでは聞き取れなかった。
ただ、杏が何度も頷きながら、笑みをどんどん明るくしていくのだけは分かった。
まるで、蕾が朝の光にほころんでいくみたいに。
「うん! 私もお兄ちゃんも家にいるよ……今日? 夕方? いいよ! ……え、何か持ってこなくていいのに。来てくれるだけで嬉しいよ! ……うん、お兄ちゃんは――」
そこまで言って、杏は振り向いた。
期待とお願いをいっぱいに詰め込んだような大きな瞳で石原を見つめながら、スマホを少し耳から離す。
「パパが、今夜うちに寄りたいって。いい?」
受話口から漏れるかすかな声の向こうに、中年の男の穏やかな問いかけが混じる。
どこか遠慮がちで、ほんの少しだけ様子をうかがうような響きだった。
「……久希の邪魔にならないかな。忙しいなら、無理しなくていいんだけど……」
石原は箸を持つ指先に、わずかに力を込めた。
父の声は誠実だった。
聞き慣れた、不器用なくせにまっすぐな気づかいも、確かにそこにある。
記憶の中にいる父と、ほとんど同じ声だった。
――けれど。
昨日、グループチャットで交わされた異能のやり取り。
緒山が最後に送った、微妙に書き換えられてから元に戻ったあのメッセージ。
それに、自分の頭の中にある、どうにも噛み合わない二つの“記憶”。
そんなものを抱えたままでは、この電話をただの親子のやり取りとして受け止めることはできなかった。
石原は杏を見る。
そこにあるのは、曇りのない期待だけだった。
“何かがおかしいかもしれない”なんてことは、これっぽっちも考えていない。
ただ、父親が自分から会いに来てくれることを、心から喜んでいる。
「久希……?」
受話口の向こうから、父の声がもう一度届いた。
かすかに、探るような緊張が混じっている。
杏はスマホをもう少し石原のほうへ差し出した。
その目に宿った願いは、言葉にしなくても分かるくらいまっすぐだ。
石原は胸の内で、小さく息をついた。
――この目は、断れない。
この電話が本当に現実のものなのか、それはまだ分からない。
けれど少なくとも今この瞬間、妹が抱いている期待だけは本物だ。
その光を、自分の手で踏み消すことはできなかった。
「……うん」
スマホのほうへ向けて、石原は落ち着いた声で答えた。
「別にいい。何時ごろ?」
受話口の向こうで、ほっとした空気が伝わってくる。
父の声が明らかに軽くなった。
「六時半くらいかな。仕事が終わったらそのまま行くよ。
実家から届いた新米と野菜を少し持っていく。新鮮なんだ」
「やった! パパがうちに来るんだ!」
杏はもう嬉しそうに、そのまま会話を引き取っていった。
「じゃあ夜、待ってるね! 気をつけて来てね!」
通話が切れると、リビングはまた静けさを取り戻す。
杏はスマホを抱えたまま、頬に興奮の赤みを残していた。
「よかったね、お兄ちゃん!」
石原のほうへ向き直ったその顔には、さっきと変わらない晴れやかな笑みがあった。
「パパ来るんだよ! 夜はパパの好きな料理、いくつか作ろうよ?」
石原は杏を見て、小さく頷く。
声は穏やかだった。
「いいよ。杏が決めて」
視線を落とし、少し冷めかけた朝食へと再び箸を伸ばした。
---
夕方。
空はやわらかな橙と薄い桃色に染まっている。
インターホンが鳴ったとき、石原はリビングに座っていた。
ふと、視線が冷蔵庫の扉へと流れる。
色あせかけた付箋の数。
それは、時間が止まってしまったあの瞬間を、黙ったまま刻んでいる年輪みたいだった。
杏は嬉しそうに玄関へ駆けていく。
声には、石原が聞き慣れた、取り繕いのない期待がそのまま乗っていた。
「パパ!」
玄関の方から、どこかぎこちない挨拶と衣擦れの音が聞こえてきた。
石原は立ち上がった。
父親は、見た目にもかなり重そうな布袋を二つ提げて入ってきた。
顔には、あちこち回ってきたあとの疲れがそのまま残っている。
そこに浮かんでいたのは、相手の様子をうかがうような、ひどく慎重な笑みだった。
こめかみに混じる白髪が、やけに目に刺さる。
「久希」
父は石原を見て、少し掠れた声を出した。
「その……田舎の新米を持ってきた。あと、家の……梅干しも。食欲が進む味だと思う」
途中でわずかに言葉を詰まらせ、視線が揺れる。
そうして袋を玄関に置いた。
「ありがとうございます」
石原は軽く頷き、布袋を受け取った。
父の着ている少し古びたジャケットは、どこかサイズが合っていなかった。
袖口にも少し擦り切れた跡がある。
夕食は杏が用意したものだった。
簡単な料理ばかりだったが、食卓にはちゃんと温もりがあった。
父はあまり多くを語らなかった。
ほとんどは黙って箸を動かし、ときおり二人の皿におかずを取り分ける。
その手つきは、少しぎこちなかった。
空気は打ち解けているとは言えなかった。
けれど、冷え切っているわけでもなかった。
少しずつ温度を取り戻していく水みたいな、そんな時間だった。
食後、父は立ち上がり、食器の片付けを手伝い始める。
その視線が何度かキッチンをかすめ――やがて、冷蔵庫の扉のところで止まった。
父は近づき、何気ない手つきで付箋の端を指先でなぞる。
そして、一番下に貼られた一枚で手を止めた。
日付だけは新しい。
なのに、そこだけ妙に浮いて見える――何も書かれていない白い付箋。
母がいなくなったあと。
石原があるとき無意識に貼って、そのまま何も書けなかったものだった。
「……まだ残ってたんだな」
父の声は小さく、何かを驚かせないような、そんな静けさがあった。
そっとその付箋を剥がし、指先に挟んだまましばらく眺めた。
そして、また静かに貼り戻した。
ただ、ほんの少しだけ位置を整えて。
「時間が経つのは早いな」
その何気ない仕草が、鍵となったのだろうか。
不意打ちみたいに、石原の記憶の奥で閉じたままだった箱がこじ開けられた。
砕けた映像と音が、一気に流れ込んでくる――
両親が最後のころに交わしていた、押し殺したような言い争い。
振り返りもしないまま出ていった母の背中。
冷蔵庫に貼られた付箋が、少しずつ減っていったこと。
それから、胸の奥で日に日に重くなっていったのに、とうとう口にできなかったあの問い。
リビングの灯りが、ふっと揺れた気がした。
石原は喉の奥がきゅっと詰まり、手のひらにうっすら汗がにじんだ。
石原は杏を見た。
杏は目を輝かせたまま、父を見つめている。
その顔にあるのは、曇りのない、ただそれだけで満ちた満足だった。
彼はまた思い出していた。
夏祭りの花火の下で、きらきらと輝いていた緒山の瞳。
生徒会室で、皆が向けてくれた迷いのない信頼。
春野が口にした言葉。
トラックで、自分を取り戻した立花の姿。
――それらを、もう一度思い浮かべたとき。
「今」から伝わってくるその温もりが、音もなく彼の沈み続けていた心を支えていた。
沈み続けていた心を、そっと受け止めるように。
(……聞かければ……どんな答えでも)
胸の奥を長いあいだ蝕み続けてきた疑問を――どうしても、口にしなければならなかった。
「父さん」
自分の声が、静かに響く。
思っていたよりも落ち着いていた。
それでも、指先と同じように、わずかに震えている。
父と杏が、同時にこちらを見た。
石原は深く息を吸い、指先を掌に食い込ませる。
痛みで自分を縛るようにして、父の目をまっすぐ見据えた。
「父さんと母さんがあのとき別れたのって……俺のせいか?」
言葉が落ちた瞬間、リビングに短い静寂が広がった。
父の顔に、はっきりとした驚きが浮かぶ。
まるで、理解できない問いを突きつけられたかのように。
やがて眉が寄った。
怒りではない。
深い戸惑いと――そして、痛ましさ。
「どうして……」
声はかすれていた。
手にしていた布巾を置き、一歩前へ出た。
視線は息子の顔に釘付けだった。
「久希、どうしてそんなふうに思うんだ?」
石原は唇を引き結んだまま、何も答えない。
ただ、意地を張るように父を見返していた。
父は深く息を吐き、頬をこする。
言葉を探すように、わずかに間を置いた。
「違う。久希、そんなことはいっさいない」
その口調は、はっきりと、そして急いていた。
石原の頬を、知らぬ間に涙が伝う。
父はそれに気づき、そっとハンカチで拭った。
「問題があったのは、俺と母さんだ。
性格とか、ものの考え方とか……細かいことが積み重なってな」
「何度も解決しようとした。でも……うまくいかなかった。
別れるって決めたのは、大人である俺たちの、いちばん身勝手で――いちばん間違った選択だった」
父は数歩近づき、肩に手を伸ばそうとした。
だが、途中でためらい、そっと下ろす。
「一番申し訳ないのは、お前と杏だ。
ちゃんとした家庭を残せなかった。それどころか、あんな思いまでさせてしまった」
視線が、息を詰めている杏へと向く。
その奥に、より深い後悔が滲んだ。
「特にお前だ、久希。お前は考えすぎる。何でも自分のせいにする……
そう思わせたのは、俺たちの責任だ。本当に、すまない」
(……俺のせいじゃ、ない)
(最初から、違ったんだ)
石原はその場に立ち尽くした。
父の言葉は、穏やかな水のように、胸の奥へと流れ込んでいく。
長いあいだ固まっていた、自責の塊を少しずつ溶かしていくように。
すぐに崩れ落ちるような解放感はなかった。
代わりに――じわじわと広がる、鈍い痛み。
それが心臓から四肢へ、身体の隅々へと染み渡っていった。
ふと、軽い眩暈を覚えた。
張り詰めていた見えない糸が、わずかに緩んだような感覚。
「……俺は」
口を開いた。
だが、喉が詰まって言葉にならない。
父もまた、目を赤くしていた。
不器用にもう一度手を伸ばし――
今度は、そっと腕に触れた。
「……父さんが……帰ってくるのが遅くなった」
ずっとこのやり取りを見つめていた杏は、いつの間にか俯いている。
大きな瞳に涙をいっぱいに溜めていた。
何度も目元を拭いながら、嗚咽をこらえきれずにいた。
石原は父の目を見る。
それから、妹の顔を見た。
張り詰めていた肩の力が、ゆっくりと抜けていった。
(……俺は、この気持ちさえ疑っていたのか)
胸の奥に、わずかな後ろめたさが広がった。
石原は、ぎこちなく口元を緩める。
浅いけれど、確かな笑みだった。
「……ああ。おかえり、父さん」
静かに、そう言った。
窓の外はすっかり夜になっていた。
室内の灯りが、やわらかく空間を満たしている。
――まるで、“父子のわだかまりが解ける一幕”が、どこかで決められていた筋書きどおりに進んでいくみたいに。
けれど、強い幸福に包まれた、その瞬間。
その筋書きを書いた当人だけが――理由の分からない空虚と疲労に、ふいに襲われていた。
彼女は無意識に、テーブルの縁へ手をついた。
それでも、覚えている。
兄が、笑っていたことを。
――それでいい。
それだけで、十分だった。




