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見える感情、見えないまま  作者: 颍川
第二十章 破れたページ――いつまでも、ここにいる
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第九十九話

---


九月二十三日の夜、あの“氷が解ける”ような再会があってから――日々はまるで、やわらかな光に薄く包まれたようだった。


父の訪れる頻度は、規則的で、それでいて出来すぎなくらいちょうどよかった。


週末の午前になると電話をかけてきて、兄妹ふたりの都合を確かめる。

それから、高価ではないものの、ちゃんと気を遣って選んだ“田舎の特産品”を提げてやって来る。


石原が何気なく口にした本のことを覚えていて、次に会ったときには、さりげない顔でその話題を出すこともあった。


杏の学校でのことも、不器用ながら聞こうとしていた。

埋め合わせをしようとする父親であろうと、懸命になっているように見えた。


一方で、生徒会の調査も止まってはいなかった。


花野は、記憶の異常や集団認識への干渉に関する事例資料を大量に整理した。

春野は会長権限を使い、外部からの介入の痕跡がないかを探るため、最近の校内出入り記録や通信記録を慎重に調べていた。


立花と緒山は、どちらかといえば寄り添いと観察の役目を担い、石原とほとんど毎日のように連絡を取り続けている。


だが、調査はどれも、透明な壁に突き当たったように進まなかった。


新たな“再起動”は起こらない。

目立った論理の破綻もない。


石原の頭の中にある、あの食い違った二つの記憶を除けば、すべてが、不気味なほど穏やかだった。


杏の顔には、毎日満ち足りたような笑みが浮かんでいる。

失っていたはずの家族のぬくもりに、彼女はすっかり浸っているように見えた。

その目は明るく、陰りがない。


石原自身でさえ、考えすぎだったのではないかと思い始めていた。


けれど、あの食い違った記憶を、ただの“偶然”で片づけるなんて、そんな説得力のない理屈を、誰が信じられるだろう。


この穏やかさの下には、きっと何かが潜んでいる。


石原は気づいていた。

杏が、一人で過ごす時間を以前より増やしていることに。


特に夜になると、自室にこもることが多くなっていた。


部屋のドアの隙間から、深夜まで灯りが漏れていたこともあった。


そしてその翌日になると、父からの“ちょうどよすぎる”連絡や訪問が、決まって起こっていた。


(まさか……杏が……)


だが、妹の穏やかな感情タグを思い出すたびに、その疑いは跡形もなく消えていった。


(いや……そんなはず、ない)


---


ある夜、石原は水を飲もうとしてキッチンへ向かった。


杏の部屋の前を通りかかったとき、ドアの隙間からまだ灯りが漏れているのに気づく。


足を止めた。

少し迷って、そのまま立ち去ろうとした。


だがそのとき、部屋の中から、かすかに途切れ途切れの音が聞こえてきた。


ペン先が紙をこする音。


それから――小さくて聞き取れない、かすかな呟き。


石原は眉をひそめた。

それでも結局、邪魔はしなかった。


そして、彼が見なかったその部屋では、杏が机に伏せるようにして座っていた。


ノートは開かれ、もう大半が文字で埋まっていた。


彼女のペン先は、紙の上を滑らかに走る。

彼女が書いていたのは、翌日、父が約束どおり家に来たあと、“近くのアパートへ戻るための話を、さらに父と進める”という“筋書き”だった。


そのとき食卓で交わされるはずの、和やかな会話も。

父がどのシャツを着てくるのか、どんな手土産を持ってくるのか――そんな細部に至るまで。


(もうすぐ……あの頃に戻れる……私たちの家に、また)


書き始めの字は、流れるようで、熱を帯びていた。

紙の向こうから、書いている彼女の高鳴る鼓動が伝わってくるようだった。


けれど、書き進めるうちに、筆跡は少しずつ揺れ始める。

力の入り方も、均一ではなくなっていった。


作り上げたぬくもりを書き連ねながら、口元だけが、無意識にわずかに下がっていく。

どこからともなく、空虚さが胸の内へ忍び込んできた。


あまりにも静かだった。


聞こえるのは、ペン先のかすかな音だけ。

それから、この“筋書き”には属していない、窓の外の遠い街のぼやけた雑音だけ。


石原は隣の部屋にいる。

生徒会の先輩たちも、それぞれ自分の家にいるはずだ。


現実世界の輪郭は、すぐそこに手が届きそうなのに、分厚くて、ぬくもりのある曇りガラスを一枚隔てた向こうにあるようだった。


視界が、少しずつ滲み始める。


眠いわけじゃない。

徹夜くらい平気な夜型のはずなのに。


むしろそれは、精神がゆるやかにほどけていくような、そんな感覚。


ノートの上の文字が、まるで蠢くみたいに揺れ、ばらばらにほどけていくように見えた。


彼女は強く瞬きをした。

視線が、今しがた書いたばかりの一行へ落ちる。


【父は感慨深げに言った。「ここも、ようやくまた家らしくなったな」】


――家?

家って、何?

どうして、こんなことを書いてるの?

パパ……明日、引っ越しの話をしに来る?


そうだ。明日は大事な日だ。

お兄ちゃんと一緒に、パパと話して……


でも――


その瞬間、力が入りすぎたペン先がぱきりと折れた。

紙の上で止まり、濃いインクが小さく滲む。


杏はゆっくりと顔を上げた。

虚ろな目で、窓の外の濃い夜を見つめた。


強い剥離感が、身体の内側から彼女を引き剥がすように襲ってくる。


ペンを握る自分の手を見た。

開いたままの、文字で埋め尽くされたノートを見た。


そこから、見知らぬ恐慌がじわりと広がっていった。


「わたし……」


口を開く。

声はかすれていた。


「わたし、いま……何してるの?」


頭の中が真っ白だった。


ノート?

これは……何かを書くためのものだっけ?


そうだ。明日、パパが来る。大事な話をする。楽しみで――だから眠れなくて、なんとなく書いたり描いたりしてただけ……?


きっと、そうだ。


彼女は重くなった頭を軽く振り、霧のような混乱を振り払おうとした。


強い疲労と、うまく言葉にできない“おかしさ”が、胸の奥をざわつかせる。


「疲れた……」


小さく呟き、ノートを閉じた。

そこに書かれた、“明日”を動かすはずの言葉には、もう目を向けなかった。


それをただのノートみたいに扱って、無造作に引き出しへ押し込んだ。


そして重い足取りのまま、ベッドに倒れ込む。


ほどなくして、本物の疲れに引きずられるように、眠りへと落ちていった。

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