第一百話
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【九月二十八日・土曜日】
翌日、空はよく晴れていた。
石原はいつも通り早く起き、杏と一緒に、普段より少しだけ品数の多い朝食を用意していた。
杏は少し寝不足のようだ。
ときおり視線が揺れた。
それでも、顔には変わらず笑みが浮かんでいた。
時計を何度も見ては、
「そろそろパパ来るかな」
「何持ってくるんだろう」
と、小さく呟く。
――だが。
約束の午前十時を過ぎても、何も起こらない。
十時半。玄関は静かなまま。
十一時。スマホにも何の反応もない。
杏の笑顔が、少しずつ固まっていった。
何度もスマホを確認し、父の番号に電話をかけた。
受話口から流れてくるのは、感情のない機械音声。
――「おかけになった電話は電源が入っていないため――」
「もしかして……途中で何かあったのかもな。電池が切れたとか」
石原は静かな声で言った。
連絡はない。
メッセージもない。
この完全な沈黙と約束の不履行は、ここ数日見てきた、あの“埋め合わせようとする父親”の姿とは、あまりにもかけ離れていた。
「そんなはずない!」
杏の声が、突然鋭く跳ね上がった。
「パパ、ちゃんと来るって言ったもん!」
そのまま部屋へ駆け込んだ。
何かを探そうとして、だが引き出しの前で立ち止まった。
何を探していたのか、自分でも分からなくなったみたいに。
ただ、手当たり次第に中をかき回すだけ。
昼食は、沈黙と焦りの中で過ぎていった。
午後になっても、杏はほとんど電話のそばを離れない。
だが、待ち続けていた着信音は、最後まで鳴らなかった。
夕方。
西日がリビングを、くすんだ金と赤に染める。
石原は、妹の青ざめた顔と、固く結ばれた唇を見て、ついに口を開いた。
「杏。もしかしたら父さん……急に気が変わったのかもしれない。
それか、まだ心の準備ができてないとか」
一拍置いて、続けた。
「大丈夫だよ、杏」
それは、本心からの言葉だった。
あの夜の会話で、彼の中のわだかまりはすでに解けていた。
父の気持ちも理解できるし、こんなことで責めるつもりもない。
だが――その言葉は、杏には違って聞こえた。
「気が変わった? 心の準備ができてない?」
勢いよく振り返った。
目を大きく見開く。
「そんなわけない! ちゃんと約束したのに!
ちゃんと……ちゃんと……!」
言葉が途中で止まった。
なぜなら――その“ちゃんと”の先を、彼女自身が、思い出せなかったからだ。
そのとき。
混乱しきった彼女の頭の中で、何かがいきなり砕け散った。
霧に覆われていた映像と認識の欠片が、一気に押し寄せてきた。
――ノート。
――書くこと。
――能力。
――再起動。
「私……私のせいだ!」
杏は突然叫び、涙を一気にあふれさせた。
激しい悔しさと後悔。
そこに恐怖がないまぜになり、さらに、もう一度制御を失うことへの怯えと、もう二度と“ちゃんとした形”にたどり着けないかもしれない絶望が、一瞬で彼女を呑み込んだ。
「昨日の夜……昨日の夜、最後まで書いてない! 途中でやめたの! 忘れてた! 全部、私のせい!!」
支離滅裂なまま泣き叫び、感情は完全に決壊した。
そのまま、自分の太腿を拳で何度も強く叩き始める。
自分の“見落とし”と“忘れていたこと”を、身体の痛みで罰しようとするみたいに。
「杏! やめろ!」
石原は表情を変え、すぐさま駆け寄り、妹の手首を強く掴んで自傷を止めた。
妹の身体が激しく震えている。
石原はその震える身体を抱き寄せ、背を優しく叩きながら、低い声で言い聞かせた。
「大丈夫だ。もう大丈夫。杏のせいじゃない。だから……落ち着け」
だが、その胸の内では、激しい波が荒れ狂っていた。
妹の言葉が、自分の一番深い疑いを裏づけてしまったのだ。
あの異常な能力。
“完成度”への異様な執着。
――自分の妹こそが、間違いなく“脚本を書く者”だった。
【石原杏の感情:崩壊42、自責43、後悔15】
そして、自分の異能力のこと。
あの特徴的な文字化け。
なぜ、こんな肝心な場面でそれが働かなかったのか。
どうして妹の正体を、もっと早く見抜けなかったのか。
……だが、今はそれを考えている場合ではない。
強い不安が、心臓をぎりぎりと締めつけた。
石原は泣きじゃくる妹を強く抱きしめながら、沈みかけた夕陽のほうへ視線を向ける。
その眼差しは重かった。
今すぐ緒山に連絡しなければならない。
生徒会のみんなと、すべてをもう一度見直す必要があった。




