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見える感情、見えないまま  作者: 颍川
第二十章 破れたページ――いつまでも、ここにいる
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第一百零一話

---


杏を寝かしつけたあと、石原は自分の部屋へ戻る。

ドアを閉めても、すぐには緒山へ電話をかけなかった。


そのまま扉に背を預けて座り込み、膝に顔を埋める。


落ち着いてから、改めて今の状況を見つめ直した。


――正直、何をどう受け止めればいいのか、自分でも分からなかった。


(……杏が、あの異能力者だった)


(ってことは、この数日の出来事も……)


石原は、少しだけ気落ちしていた。


――もし、この数日間の出来事がすべて、誰かが丁寧に書いた“筋書き”だったのだとしたら。

そこに、いったい何の意味があったのか。


目を閉じた。

あの夜、父が自分の涙を拭った場面が、まだまぶたの裏に残っていた。


――たとえ、それすら“筋書き”だったとしても。


(……こんなところで気落ちしてる場合じゃない)


あの瞬間のぬくもりが本物だったからこそ、杏をこれ以上こんなふうに消耗させるわけにはいかなかった。


偽物の円満では、本当の幸福には届かない。


再び目を開けたとき、その眼差しにはもう迷いがなかった。


石原はそれ以上考え込まず、緒山へ電話をかけた。


「もしもし、先輩?」


ほどなくして、緒山の声が返ってきた。

向こうはひどく静かだった。


「どうしたんですか?」


石原は声を落とし、今夜起きたことを手早く説明した。


杏が取り乱して泣き叫んだこと。

「書き終わっていない」「忘れていた」といった断片的な言葉。

そのすべてを、できるだけ正確に伝えた。


電話の向こうで、しばし沈黙が落ちた。


やがて再び響いた緒山の声は、これまでにないほど重かった。


「先輩。たぶん、先輩の予想は当たってます。

それに、杏ちゃんの状態……私たちが思っていたより危ないです」


「どうすればいい?」


石原はまっすぐに問うた。


「一度、みんなで話し合わないといけません。

でも、杏ちゃんに気づかれる可能性がある場所はだめです」


緒山の口調が少し速くなった。


「すぐに、杏ちゃん抜きの臨時グループを作ります。そこで対策を考えましょう」


そこで、いったん言葉が止まった。


「もし杏ちゃんの能力が、私たちの想像どおりなら……今夜、何か起きるかもしれません」


――世界の再起動。


数分後、臨時グループチャットが作られた。

全員がそろうと、石原は改めて状況を簡潔に共有した。


「でも……石原、前に言ってなかった? 杏ちゃんの感情タグには異常がなかったって」


春野のその一言で、グループはしばらく黙り込んだ。


その沈黙を破ったのは、立花の控えめな書き込みだった。


「えっと……世界の流れそのものを書けるなら、

先輩に何かしらの“制限”をかけて、自分のことを隠すこともできるんじゃないですか?」


その言葉で、皆がはっとする。


――ずっと、その思い込みに引っかかっていた。


「それ、あり得ると思います!

あと、今夜のことなんですけど……私、なんだか嫌な予感がします」


「同感。修正のためなら、今夜再起動が起こる可能性はかなり高い」


立花が不安そうに打ち込んだ。

「じゃあ……止めるべきなんでしょうか?

でも、もし本当に再起動が起きたとして、私たちはどうやって“覚えて”いればいいんですか?」


「最初に先輩が教えてくれる必要がありますね――話を聞く限り、再起動前の記憶を持っているのは先輩だけみたいですし」


「……たぶん、そうだ」


石原は少し考えた。


そのとき、一つの大胆な考えが頭に浮かんだ。


「みんな、聞いてくれ。 一つ、案がある――」


---


一方その頃、杏の部屋。


暗闇の中で、杏は眠っていなかった。


目は泣き腫らし、体も泣き疲れていた。

それでも頭の中だけは妙に冴えている。

――いや、焦りに煽られたような昂ぶりに支配されていた。


失敗。

ミス。

許されない見落とし。


そんな思いが、何度も何度も彼女の内側を焼いていた。


杏は勢いよく身を起こした。

スタンドライトをつけ、引き出しの奥からあのノートを取り出す。


指先で表紙をなぞり、そのまま力を込めて開いた。


「だめ……もうこんなこと、繰り返しちゃだめ……絶対に、抜かりがあっちゃだめ……」


小さく呟きながら、新しいページを開いた。

ペン先は力が入りすぎて、わずかに震えている。


彼女は書き始めた。


――ただ一行、【父が来る当日の午前まで再起動する】と書くだけではなく。


その先、三日分の“筋書き”までも、細かく組み立てていった。


【9月28日(土):父は午前中に予定どおり到着。手土産を持参し、誠実な態度で接する。昼食時、近くのアパートをすでに見つけていることを伝え、段階的に家族との生活に戻りたいと提案。石原久希は態度を軟化させ、理解を示す。場の空気は温かい。

詳細は以下の通り……】


【9月29日(日):父が兄妹を外出に誘い、買い物へ。生活用品をそろえ、関係はさらに改善。夜の電話で、父が石原久希の学業を気遣い、石原久希は簡潔に応じつつも、それを受け入れる。

詳細は以下の通り……】


【9月30日(月):父が手作りの弁当を家に届け、励ましのメモを添える。兄はわずかに心を動かされ、妹はよりいっそう幸せを感じる。

詳細は以下の通り……】


書きぶりは異様なほど細かかった。

会話の一言一句、表情の変化に至るまで、ほとんどすべてを書き記す。


それでも、不安は消えなかった。


杏はさらにページをめくり、次の白紙のページに移ると、これまでで一番大きな字で、力強く書きつけた。


【しっかりして、杏!あなたには筋書きを幸せな結末へ進める責任がある!絶対に忘れるな!絶対に書くのを止めるな!】


筆圧は、紙の裏にまで深く食い込んでいた。


杏はその文字を見つめる。

まるでそこから力をもらったかのように、ふっと息を吐いた。


――その直後。


ノートを閉じ、灯りを消そうとした瞬間。


あの感覚が、また押し寄せてきた。


もう慣れかけていた疲労と虚しさ。

それが、これまででいちばん強く、波のように押し寄せた。


ついさっき書いたはずの細かな内容も、急速に色を失っていった。


残るのは――

「もう準備はできている。明日はうまくいく」

そんなぼんやりとした期待だけ。


“異能力”。

“責任”。

“書くこと”。


それらの具体的な意味は、砂浜に書いた文字みたいに、見えない波にあっという間にさらわれていった。


「わたし……明日の、大事なことを書いた……」


こめかみを押さえる。

強い眠気が一気に押し寄せてきた。


「そうだ……パパが来る……よかった……ちゃんと寝なきゃ……」


ノートを枕の下に押し込み、自分で書いた“警告”の一文すら、もう振り返らないまま。


そのまま、夢のない眠りへと沈んでいった。


――たとえ、目にしたとしても。


能力の存在を“忘れている”彼女にとって、あの文字はただの、意味の分からない記号の並びにすぎなかった。

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