第一百零一話
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杏を寝かしつけたあと、石原は自分の部屋へ戻る。
ドアを閉めても、すぐには緒山へ電話をかけなかった。
そのまま扉に背を預けて座り込み、膝に顔を埋める。
落ち着いてから、改めて今の状況を見つめ直した。
――正直、何をどう受け止めればいいのか、自分でも分からなかった。
(……杏が、あの異能力者だった)
(ってことは、この数日の出来事も……)
石原は、少しだけ気落ちしていた。
――もし、この数日間の出来事がすべて、誰かが丁寧に書いた“筋書き”だったのだとしたら。
そこに、いったい何の意味があったのか。
目を閉じた。
あの夜、父が自分の涙を拭った場面が、まだまぶたの裏に残っていた。
――たとえ、それすら“筋書き”だったとしても。
(……こんなところで気落ちしてる場合じゃない)
あの瞬間のぬくもりが本物だったからこそ、杏をこれ以上こんなふうに消耗させるわけにはいかなかった。
偽物の円満では、本当の幸福には届かない。
再び目を開けたとき、その眼差しにはもう迷いがなかった。
石原はそれ以上考え込まず、緒山へ電話をかけた。
「もしもし、先輩?」
ほどなくして、緒山の声が返ってきた。
向こうはひどく静かだった。
「どうしたんですか?」
石原は声を落とし、今夜起きたことを手早く説明した。
杏が取り乱して泣き叫んだこと。
「書き終わっていない」「忘れていた」といった断片的な言葉。
そのすべてを、できるだけ正確に伝えた。
電話の向こうで、しばし沈黙が落ちた。
やがて再び響いた緒山の声は、これまでにないほど重かった。
「先輩。たぶん、先輩の予想は当たってます。
それに、杏ちゃんの状態……私たちが思っていたより危ないです」
「どうすればいい?」
石原はまっすぐに問うた。
「一度、みんなで話し合わないといけません。
でも、杏ちゃんに気づかれる可能性がある場所はだめです」
緒山の口調が少し速くなった。
「すぐに、杏ちゃん抜きの臨時グループを作ります。そこで対策を考えましょう」
そこで、いったん言葉が止まった。
「もし杏ちゃんの能力が、私たちの想像どおりなら……今夜、何か起きるかもしれません」
――世界の再起動。
数分後、臨時グループチャットが作られた。
全員がそろうと、石原は改めて状況を簡潔に共有した。
「でも……石原、前に言ってなかった? 杏ちゃんの感情タグには異常がなかったって」
春野のその一言で、グループはしばらく黙り込んだ。
その沈黙を破ったのは、立花の控えめな書き込みだった。
「えっと……世界の流れそのものを書けるなら、
先輩に何かしらの“制限”をかけて、自分のことを隠すこともできるんじゃないですか?」
その言葉で、皆がはっとする。
――ずっと、その思い込みに引っかかっていた。
「それ、あり得ると思います!
あと、今夜のことなんですけど……私、なんだか嫌な予感がします」
「同感。修正のためなら、今夜再起動が起こる可能性はかなり高い」
立花が不安そうに打ち込んだ。
「じゃあ……止めるべきなんでしょうか?
でも、もし本当に再起動が起きたとして、私たちはどうやって“覚えて”いればいいんですか?」
「最初に先輩が教えてくれる必要がありますね――話を聞く限り、再起動前の記憶を持っているのは先輩だけみたいですし」
「……たぶん、そうだ」
石原は少し考えた。
そのとき、一つの大胆な考えが頭に浮かんだ。
「みんな、聞いてくれ。 一つ、案がある――」
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一方その頃、杏の部屋。
暗闇の中で、杏は眠っていなかった。
目は泣き腫らし、体も泣き疲れていた。
それでも頭の中だけは妙に冴えている。
――いや、焦りに煽られたような昂ぶりに支配されていた。
失敗。
ミス。
許されない見落とし。
そんな思いが、何度も何度も彼女の内側を焼いていた。
杏は勢いよく身を起こした。
スタンドライトをつけ、引き出しの奥からあのノートを取り出す。
指先で表紙をなぞり、そのまま力を込めて開いた。
「だめ……もうこんなこと、繰り返しちゃだめ……絶対に、抜かりがあっちゃだめ……」
小さく呟きながら、新しいページを開いた。
ペン先は力が入りすぎて、わずかに震えている。
彼女は書き始めた。
――ただ一行、【父が来る当日の午前まで再起動する】と書くだけではなく。
その先、三日分の“筋書き”までも、細かく組み立てていった。
【9月28日(土):父は午前中に予定どおり到着。手土産を持参し、誠実な態度で接する。昼食時、近くのアパートをすでに見つけていることを伝え、段階的に家族との生活に戻りたいと提案。石原久希は態度を軟化させ、理解を示す。場の空気は温かい。
詳細は以下の通り……】
【9月29日(日):父が兄妹を外出に誘い、買い物へ。生活用品をそろえ、関係はさらに改善。夜の電話で、父が石原久希の学業を気遣い、石原久希は簡潔に応じつつも、それを受け入れる。
詳細は以下の通り……】
【9月30日(月):父が手作りの弁当を家に届け、励ましのメモを添える。兄はわずかに心を動かされ、妹はよりいっそう幸せを感じる。
詳細は以下の通り……】
書きぶりは異様なほど細かかった。
会話の一言一句、表情の変化に至るまで、ほとんどすべてを書き記す。
それでも、不安は消えなかった。
杏はさらにページをめくり、次の白紙のページに移ると、これまでで一番大きな字で、力強く書きつけた。
【しっかりして、杏!あなたには筋書きを幸せな結末へ進める責任がある!絶対に忘れるな!絶対に書くのを止めるな!】
筆圧は、紙の裏にまで深く食い込んでいた。
杏はその文字を見つめる。
まるでそこから力をもらったかのように、ふっと息を吐いた。
――その直後。
ノートを閉じ、灯りを消そうとした瞬間。
あの感覚が、また押し寄せてきた。
もう慣れかけていた疲労と虚しさ。
それが、これまででいちばん強く、波のように押し寄せた。
ついさっき書いたはずの細かな内容も、急速に色を失っていった。
残るのは――
「もう準備はできている。明日はうまくいく」
そんなぼんやりとした期待だけ。
“異能力”。
“責任”。
“書くこと”。
それらの具体的な意味は、砂浜に書いた文字みたいに、見えない波にあっという間にさらわれていった。
「わたし……明日の、大事なことを書いた……」
こめかみを押さえる。
強い眠気が一気に押し寄せてきた。
「そうだ……パパが来る……よかった……ちゃんと寝なきゃ……」
ノートを枕の下に押し込み、自分で書いた“警告”の一文すら、もう振り返らないまま。
そのまま、夢のない眠りへと沈んでいった。
――たとえ、目にしたとしても。
能力の存在を“忘れている”彼女にとって、あの文字はただの、意味の分からない記号の並びにすぎなかった。




