第一百零二話
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【九月二十八日・土曜日・午前】
石原は、見慣れた朝の光の中で目を覚ました。
――ほぼ同時に、強烈な眩暈が襲った。
再起動が起きた。
石原はすぐにスマホを掴み、臨時のグループチャットをもう一度作った。
すると、ほぼ同時にいくつものメッセージが表示された。
どれも、言っていることは同じだ。
「先輩、おはようございます。変な夢を見ました。昨夜、みんなでグループを作って大事な話をしていた気がするんですけど、内容が思い出せなくて……先輩、何か覚えてますか?」
石原は一瞬、背筋が冷えた。
だがすぐに、安堵に似た熱が胸に広がる。
すぐに打ち込んだ。
「今は9月28日の午前中だ。
父さんは今日の午前中に来る予定だ。
みんなに残ってる違和感は、再起動前のやり取りの名残だ。
杏が異能力者だ。繰り返す。杏が異能力者だ」
さらに続けた。
「予定どおり動く。まずは観察と確認。
その上で、刺激しない範囲で“筋書き”から外れる行動を試す」
「了解」
スマホを置くと、リビングから杏の鼻歌が聞こえてきた。
石原が部屋を出ると、杏が果物を並べている。
顔には、純粋な期待がそのまま浮かんでいた。
昨夜の崩壊の気配は、どこにもなかい。
石原に気づくと、ぱっと笑顔になった。
「お兄ちゃん、おはよう! パパ、もうすぐ来るって!」
――そして今回は。
九時五十分。
インターホンが、きっちりと鳴った。
父は前回よりも多くの手土産を持ち、服装もきちんと整っていた。
玄関に入った瞬間、その視線は迷いなく石原へ向く。
目には、確かな慈愛と期待があった。
昼食時。
父はごく自然な流れで、そして誠実な口調で切り出した。
すでに学校の近くにアパートを見つけており、借りるつもりだと。
「君たちの生活を邪魔するつもりはない。ただ、近くにいれば、何かと助けにもなれるだろう。
父さんは……もう少し、二人のことを見ていたい」
言葉は真摯で、視線も揺るがなかった。
わずかに赤くなった目元。
演技なのか――それとも“設定された感情”なのか。
前回よりも、さらに本物らしい。
石原は内心で冷え切りながらも、表にはわずかに心を動かされたような顔を浮かべた。
杏の期待に満ちた視線を受け、ゆっくりと頷く。
「それが父さんの考えなら……俺たちは構わない」
杏の顔に、ぱっと幸福の色が広がった。
――だが。
この日の午後から、“筋書き”にわずかなノイズが混じり始めた。
石原は「生徒会に急な用事が入った」と理由をつけ、父の「一緒に新しいカーテンを買いに行こう」という誘いを断った。
代わりに、杏に同行を任せた。
父の表情が、ほんの一瞬だけ固まる。
だがすぐに笑顔に戻り、理解を示した。
翌日、日曜の午後。
父から再び「家族で買い物に行こう」という電話が入った。
石原は「図書館で資料を調べる約束がある」と断り、また杏一人に任せる。
電話越しの父の声は、変わらず穏やかだった。
だが通話が終わったあと――杏はしばらく黙り込んでいるように見えた。
月曜日。
父は家を訪れ、手作りの弁当を石原に渡した。
だが石原は、“少し心を動かされた”ような反応は見せなかった。
生徒会室での作業の合間に、その弁当を持って皆のもとへ行く。
蓋を開けた。
――確かに、手間はかかっていた。
石原は少し間を置き、それをテーブルの中央へ押し出す。
「うまそうだ。食べるか?」
緒山が笑って卵焼きを一つ取り、花野は眼鏡を押し上げて淡々と評価した。
「見た目は整っている。栄養バランスも良好。ただし糖分はやや多め」
立花は小さな声で言う。
「先輩のお父さん……本当に頑張ってるんですね。ちょっと……心苦しいです」
だが三人とも理解していた。
これは、無言の対抗だった。
象徴的な意味を持つ“父の弁当”を、ただの食事に変える。
それも、複数人で分け合う、ありふれた昼食へと。
石原は、その分けられた弁当の写真を撮り、杏へ送った。
「父さんの料理、うまかった。みんな喜んでた。ありがとう」
メッセージを受け取った杏は、嬉しさを感じながらも――どこか、引っかかるものを覚えた。
父の弁当は……兄のためのものではなかったのか?
どうして、他の人に分けたのだろう。
けれど――それが間違いだとも、言い切れない。
やがて、さらに“筋書き”から外れる出来事が起きた。
火曜日。
父は現れなかった。
前回と同じく、連絡も取れなかった。
おそらく杏は、また何らかの影響を受けている。
――“書いた範囲”が、そこで途切れているのだろう。
石原は、自ら父へメッセージを送った。
「父さん、この数日はありがとうございました。
こっちは勉強と生徒会で少し忙しくて、週末も準備がありそうです。
引っ越してきたばかりでしょうし、まずは落ち着いてください。無理に毎日来なくても大丈夫です。
また時間が合うときに会いましょう」
返事は、なかなか来なかった。
だが石原は杏に、「父さんからは大丈夫だと返事があった」と伝えた。
同時に、生徒会のメンバーも動いていた。
杏を、より頻繁に軽い活動へ誘うようにしたのだ。
それらは明らかに、“筋書きの外側”にある行動だった。
杏は、変わらず幸せそうにしている。
父の存在は、彼女に安心を与え続けていた。
だが時折、枕の下のノートへと無意識に視線を向けた。
――なぜ気になるのかは、思い出せないまま。
世界は回り続けている。
だがその歯車の噛み合わせには、わずかな軋みが生まれていた。
執筆者が書いたはずの“筋書き”から、登場人物たちが静かに逸れ始めていた。
そして、その執筆者の手は。
代償に侵食されながら、少しずつ力を失い、迷い始めていた。




