第一百零三話
杏の計画は、完全に崩れていた。
やがて杏は、ある奇妙な“当たり前”に気づき始めた。
――父からの気遣いや謝罪は、必ず石原を通して伝えられる。
父のメッセージも、贈り物も、そのすべてが石原の言葉を経由して杏へ届く。
杏のスマホでは、父の番号はいつも
「現在つながりません」
あるいは「電源が入っていません」
のどちらかだった。
そして、兄の説明はどれももっともらしかった。
「電波が悪い場所にいるのかもな」
「充電器忘れたんじゃないか」
「寝てるのかも」
「父さんのほう、通信ちょっと不安定みたいだ。俺もつながったりつながらなかったりでさ。確認できたらまた言う」
――その“確認”に、続きがあったことは一度もなかった。
最初のうちは、杏は父が“戻ってきた”ことへの喜びと、兄の態度が“和らいだ”ことへの満足に浸っていた。
深く考えることはなかった。
だが、時間が経つにつれ、かすかな違和感が芽を出し始める。
兄と先輩たちは、いつも忙しそうにしていた。
以前のように、自然に“家族の時間”を作れないほどに。
家の中も、大きくは変わっていなかった。
増えたのは、父から届いたという“特産品”くらいだ。
父の“存在感”は、兄の言葉と、温度のない物だけに支えられていた。
疑問が、蔓のように絡みついて増えていった。
どうして、兄だけが父と連絡を取れるのか。
どうして、父は直接自分に連絡してこないのか。
どうして兄は――何かを避けているように見えるのか。
胸の奥で、不安が静かにかき回され始めた。
思い出す。
これまでに感じた、理由の分からない既視感。
ときどき見せる、兄の言いかけてやめるような表情。
そして、生徒会の皆の視線。
これまで通りの親しさの中に、ほんのわずか、気づきにくい違和が混じっていた。
心配と、どこか値踏みするようなまなざし。
彼らと兄の間には、言葉にしなくても通じる何かが流れていた。
まるで、自分だけが触れられない“何か”を共有しているかのように。
その疎外感と、“父”の曖昧な存在への疑いが絡み合い、重くのしかかった。
笑顔は少しずつ引きつっていき、ひとりでぼんやりする時間が増えていく。
かつて自分を支えていた“家族が元に戻る”という温かな想像も、今ではどこか遠く感じられた。
そして、金曜の夕方。
石原はまたしても「生徒会の急なオンライン作業がある」と言い、
杏の「明日、パパも呼んで一緒にご飯食べない?」という提案を断った。
何事もないように背を向け、自室へ入り、扉を閉める兄。
杏はリビングの真ん中に立ち尽くしたまま、暮れていく外の空を見ていた。
長く積み重なってきた孤立感。
この世界がどこか薄っぺらく感じる感覚。
そして、どうしようもない疲れ。
それらが、限界に達した。
杏は兄の部屋のドアの前まで歩く。
手を上げて――止めた。
中から、押し殺した声が聞こえてきた。
緒山と何かを相談しているらしい。
その声は、これまで聞いたことのないほど真剣で、切迫していた。
――そのとき。
ぽたり、と。
一滴の涙が、床に落ちた。
続けて、二滴、三滴。
杏は冷たいドアにもたれ、そのままずるずると座り込んだ。
膝を抱え、顔を埋めた。
どうして、こんなに疲れてるんだろう。
どうして、パパが“戻ってきた”はずなのに、家が遠く感じるんだろう。
どうして、お兄ちゃんも先輩たちも、向こう側にいるみたいなんだろう。
――そのとき。
部屋のドアが、内側から開いた。
石原はスマホを手にしていた。
表情には、さっきまでの話し合いの重さがまだ残っていた。
そのまま、足元に視線が落ちる。
そこに、丸まって泣いている妹の姿。
胸が強く締めつけられた。
すぐに通話を切り、しゃがみ込む。
「杏?」
杏は顔を上げた。
涙でぼやけた視界の中、すぐ目の前にある兄の顔には、はっきりとした心配が浮かんでいた。
杏は勢いよく、兄の袖を掴んだ。
声は震え、途切れ途切れだった。
「お兄ちゃん……教えて……パパ……本当は、お兄ちゃんに連絡なんて来てないんじゃないの?」
「それとも……全部、嘘なの……?」
「わたし……何を忘れてるの……!?」
次々にこぼれる問い。
涙と一緒に、堰を切ったように溢れ出す。
――その瞬間。
無数の映像と認識の欠片が、堤防を突き破る水のように、一気に流れ込んできた。
思い出した。
また、思い出してしまった。
すべてを。
石原は、妹の目が大きく見開かれるのを見て――その瞬間が、ついに来たのだと悟った。
石原は手を伸ばし、そっと妹の手に触れた。
自分の袖を掴んだままの、冷たく震えるその手に。
「杏……」
声は低く、どうしようもない痛ましさと、ようやくここまで来たという安堵が入り混じっていた。
「話そう」
杏の顔には、確かに大きな動揺が浮かんでいた。
記憶の断片が、瞳の奥で揺れている。
だが、それ以上に強かったのは――恐怖と自責だった。
「違う……違うよ! パパは戻ってきたんだよ! ちゃんと私たちのこと考えてくれてる! なのに、なんでそんなこと言うの!?」
杏は勢いよく石原を突き放した。
その目は、再び偏執と混乱に染まり、涙を浮かべながらも強く拒んでいる。
「きっと……私のやり方がまだ足りないだけ……
そうだ、脚本……書き直さなきゃ!」
振り返ると、そのまま自室へ駆け込んだ。
鍵をかける音。
石原が外から呼びかけても、説明しても、扉は開かれなかった。
中から聞こえてきたのは、乱雑に何かを探す音と、紙の上を走るペンの音だけだ。
石原はドアノブに手をかけたまま、しばらく動かなかった。
だが――結局、踏み込むことはしなかった。
扉越しに、杏の声がかすかに漏れてきた。
「やり直す」
「今度はもっとちゃんと書く」
「綻びはだめ……」
――そして。
あの感覚が、また来た。
視界が揺れた。
世界が歪んだ。
再起動。
すべてが、より早い“安全な地点”へと巻き戻された。
杏の顔には、再び無邪気な期待が浮かんだ。
――また、“代償”を支払ったのだと分かる。
父からの“ちょうどいいタイミング”の連絡。
生徒会の面々も、まるで進み具合を初期化されたかのように振る舞った。
石原は再び、あの臨時チャットを立ち上げた。
決まった文面で状況を共有し、記憶をつなぎ、再び集まった。
――最初の話し合いは、失敗に終わった。
だが、それは終わりではない。
むしろ、これから始まる長く、消耗する戦いの、ほんの入り口に過ぎなかった。
石原は諦めなかった。
理解したのだ。
杏の執着と、“代償”による影響は、彼女を固く閉ざしていた。
真実をまっすぐぶつけても、より激しい再起動を招くだけだと。
だから彼と生徒会は、方針を変えた。
遠回りでもいい。
時間がかかってもいい。
少しずつ崩していくしかない。




