表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
見える感情、見えないまま  作者: 颍川
第二十章 破れたページ――いつまでも、ここにいる
PR
108/116

第一百零三話

杏の計画は、完全に崩れていた。


やがて杏は、ある奇妙な“当たり前”に気づき始めた。


――父からの気遣いや謝罪は、必ず石原を通して伝えられる。


父のメッセージも、贈り物も、そのすべてが石原の言葉を経由して杏へ届く。


杏のスマホでは、父の番号はいつも

「現在つながりません」

あるいは「電源が入っていません」

のどちらかだった。


そして、兄の説明はどれももっともらしかった。


「電波が悪い場所にいるのかもな」

「充電器忘れたんじゃないか」

「寝てるのかも」


「父さんのほう、通信ちょっと不安定みたいだ。俺もつながったりつながらなかったりでさ。確認できたらまた言う」


――その“確認”に、続きがあったことは一度もなかった。


最初のうちは、杏は父が“戻ってきた”ことへの喜びと、兄の態度が“和らいだ”ことへの満足に浸っていた。

深く考えることはなかった。


だが、時間が経つにつれ、かすかな違和感が芽を出し始める。


兄と先輩たちは、いつも忙しそうにしていた。

以前のように、自然に“家族の時間”を作れないほどに。


家の中も、大きくは変わっていなかった。

増えたのは、父から届いたという“特産品”くらいだ。


父の“存在感”は、兄の言葉と、温度のない物だけに支えられていた。


疑問が、蔓のように絡みついて増えていった。


どうして、兄だけが父と連絡を取れるのか。

どうして、父は直接自分に連絡してこないのか。

どうして兄は――何かを避けているように見えるのか。


胸の奥で、不安が静かにかき回され始めた。


思い出す。


これまでに感じた、理由の分からない既視感。

ときどき見せる、兄の言いかけてやめるような表情。


そして、生徒会の皆の視線。


これまで通りの親しさの中に、ほんのわずか、気づきにくい違和が混じっていた。

心配と、どこか値踏みするようなまなざし。


彼らと兄の間には、言葉にしなくても通じる何かが流れていた。

まるで、自分だけが触れられない“何か”を共有しているかのように。


その疎外感と、“父”の曖昧な存在への疑いが絡み合い、重くのしかかった。


笑顔は少しずつ引きつっていき、ひとりでぼんやりする時間が増えていく。


かつて自分を支えていた“家族が元に戻る”という温かな想像も、今ではどこか遠く感じられた。


そして、金曜の夕方。


石原はまたしても「生徒会の急なオンライン作業がある」と言い、

杏の「明日、パパも呼んで一緒にご飯食べない?」という提案を断った。


何事もないように背を向け、自室へ入り、扉を閉める兄。


杏はリビングの真ん中に立ち尽くしたまま、暮れていく外の空を見ていた。


長く積み重なってきた孤立感。

この世界がどこか薄っぺらく感じる感覚。

そして、どうしようもない疲れ。


それらが、限界に達した。


杏は兄の部屋のドアの前まで歩く。

手を上げて――止めた。


中から、押し殺した声が聞こえてきた。

緒山と何かを相談しているらしい。


その声は、これまで聞いたことのないほど真剣で、切迫していた。


――そのとき。


ぽたり、と。


一滴の涙が、床に落ちた。


続けて、二滴、三滴。


杏は冷たいドアにもたれ、そのままずるずると座り込んだ。

膝を抱え、顔を埋めた。


どうして、こんなに疲れてるんだろう。

どうして、パパが“戻ってきた”はずなのに、家が遠く感じるんだろう。

どうして、お兄ちゃんも先輩たちも、向こう側にいるみたいなんだろう。


――そのとき。


部屋のドアが、内側から開いた。


石原はスマホを手にしていた。

表情には、さっきまでの話し合いの重さがまだ残っていた。


そのまま、足元に視線が落ちる。


そこに、丸まって泣いている妹の姿。


胸が強く締めつけられた。


すぐに通話を切り、しゃがみ込む。


「杏?」


杏は顔を上げた。


涙でぼやけた視界の中、すぐ目の前にある兄の顔には、はっきりとした心配が浮かんでいた。


杏は勢いよく、兄の袖を掴んだ。

声は震え、途切れ途切れだった。


「お兄ちゃん……教えて……パパ……本当は、お兄ちゃんに連絡なんて来てないんじゃないの?」


「それとも……全部、嘘なの……?」


「わたし……何を忘れてるの……!?」


次々にこぼれる問い。

涙と一緒に、堰を切ったように溢れ出す。


――その瞬間。


無数の映像と認識の欠片が、堤防を突き破る水のように、一気に流れ込んできた。


思い出した。


また、思い出してしまった。


すべてを。


石原は、妹の目が大きく見開かれるのを見て――その瞬間が、ついに来たのだと悟った。


石原は手を伸ばし、そっと妹の手に触れた。

自分の袖を掴んだままの、冷たく震えるその手に。


「杏……」


声は低く、どうしようもない痛ましさと、ようやくここまで来たという安堵が入り混じっていた。


「話そう」


杏の顔には、確かに大きな動揺が浮かんでいた。

記憶の断片が、瞳の奥で揺れている。


だが、それ以上に強かったのは――恐怖と自責だった。


「違う……違うよ! パパは戻ってきたんだよ! ちゃんと私たちのこと考えてくれてる! なのに、なんでそんなこと言うの!?」


杏は勢いよく石原を突き放した。


その目は、再び偏執と混乱に染まり、涙を浮かべながらも強く拒んでいる。


「きっと……私のやり方がまだ足りないだけ……

そうだ、脚本……書き直さなきゃ!」


振り返ると、そのまま自室へ駆け込んだ。


鍵をかける音。


石原が外から呼びかけても、説明しても、扉は開かれなかった。


中から聞こえてきたのは、乱雑に何かを探す音と、紙の上を走るペンの音だけだ。


石原はドアノブに手をかけたまま、しばらく動かなかった。


だが――結局、踏み込むことはしなかった。


扉越しに、杏の声がかすかに漏れてきた。


「やり直す」

「今度はもっとちゃんと書く」

「綻びはだめ……」


――そして。


あの感覚が、また来た。


視界が揺れた。

世界が歪んだ。


再起動。


すべてが、より早い“安全な地点”へと巻き戻された。


杏の顔には、再び無邪気な期待が浮かんだ。


――また、“代償”を支払ったのだと分かる。


父からの“ちょうどいいタイミング”の連絡。

生徒会の面々も、まるで進み具合を初期化されたかのように振る舞った。


石原は再び、あの臨時チャットを立ち上げた。

決まった文面で状況を共有し、記憶をつなぎ、再び集まった。


――最初の話し合いは、失敗に終わった。


だが、それは終わりではない。


むしろ、これから始まる長く、消耗する戦いの、ほんの入り口に過ぎなかった。


石原は諦めなかった。


理解したのだ。


杏の執着と、“代償”による影響は、彼女を固く閉ざしていた。

真実をまっすぐぶつけても、より激しい再起動を招くだけだと。


だから彼と生徒会は、方針を変えた。


遠回りでもいい。

時間がかかってもいい。


少しずつ崩していくしかない。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ