第一百零四話
---
それから先、何度繰り返されたかも分からない再起動の中で――同じような光景が、幾度となく積み重なっていった。
石原は、“忙しくなっていく兄”を演じた。
父の存在は受け入れる。
だが、決定的な場面では、必ず自然な理由をつけて“筋書き”から外れる。
杏に真実を急いで伝えることはしない。
その代わり、“今”から生まれる、小さな現実の積み重ねで、彼女の生活を満たしていく。
日常の些細な出来事。
確かなぬくもり。
それらで、作られた物語が入り込む余地を、少しずつ削っていく。
生徒会の面々も、根気強く支え続けた。
再起動のたびに、石原の助けで記憶を取り戻し、言葉を交わさずとも連携した。
だが、執着は、深く根を張っていた。
杏の再起動は、むしろ増えていった。
大きな“逸脱”が起きたとき。
あるいは、彼女の感情が強く揺れたとき。
そのたびに、すべてがまた巻き戻された。
彼女はまるで、終わりの見えないゲームに閉じ込められたプレイヤーのようだった。
クリアできない。
だが、やめることもできない。
何度もやり直し、完璧な結末を求めて。その結果、彼女自身も、周囲のすべてをも消耗させていった。
この循環が終わることはないのではないか。
そう疑いかけた、そのとき。
――変化が、現れ始めた。
度重なる再起動と対抗が、彼女の精神を削っていたのか。
“脚本”を支配する力に、わずかな綻びが生まれた。
深夜。
一人でノートに向かう杏。
落胆と疲労と孤独に沈む中で、彼女の本心が、抑えきれずに漏れ出すことがあった。
それは、意図せず“現実の誰か”へと投影されていった。
たとえば、緒山が石原と次の手を相談している最中、ふいに言葉を切ることがあった。
そして、いつもの明るさとはまるで違う、ひどく疲れた息まじりの声で呟いた。
「……早く、終わって……」
言い終えた本人が、はっとして固まった。
自分でも分からない、といった様子で戸惑っていた。
またあるとき。
花野がいつも通り、冷静で客観的な分析を提出したあと、続けて、明らかに彼女らしくない一文を送ってくることがあった。
「お兄ちゃん、なんで……」
立花が戸惑いながら問い返し、場に短い沈黙が落ちた。
当の本人は、珍しく困惑した表情を見せたあと、すぐにそのメッセージを取り消し、何事もなかったかのように冷静さを取り戻した。
そうした“ノイズ”は、固く閉ざされた執着にひびが入り始めた証のようだった。
石原たちはそこに希望を見出す一方で、胸の奥を締めつけられるような痛みも覚えていた。
――これは、杏が無意識に発している“助けて”のサインだ。
転機は、ある一見なんでもない再起動のあとに訪れた。
石原は落ち着いた声で、スマホに向かって言った。
「父さん、気遣ってくれてありがとう。
でも来週は、前から決まってる勉強会で隣の市に行く予定なんだ。
今回は会えなさそうだ。体に気をつけて」
――だが、スマホは開かれていない。
ただの“演技”だった。
数日前に、また父との連絡は途切れていたからだ。
杏は、そんな兄の横顔を見つめた。
そして、また沈黙が落ちる。
「お兄ちゃん……本当に送ってるの?」
その一言を言った瞬間――記憶が、また戻った。
――ゴトッ。
杏の手からコップが落ち、水が床に広がる。
彼女はそれを見ようともしなかった。
ゆっくりとその場にしゃがみ込み、膝を抱え、顔を深く埋める。
肩が激しく震えていた。
それでも、声は出なかった。
石原は妹のそばへ歩み寄る。
だが、すぐには何も言わず、ただ静かに寄り添った。
どれほど時間が過ぎたのか分からない。
やがて、かすれた、ほとんど潰れたような声が、腕の中から漏れ出した。
「お兄ちゃん……ずっと……知ってたの……?」
そこにあったのは、恐怖でも拒絶でもなかった。
ただ、果てのない疲労と――もう自分を騙し続けられないという、静かな諦め。
石原は杏を支え、リビングのソファへと座らせた。
白湯を一杯、手に握らせる。
そのまま立ち上がり、少し距離を置こうとした。
考える時間を与えようとしたのだ。
――だが。
杏が袖を掴んだ。
冷たい手だった。
杏はカップを抱えたまま、虚ろな視線で前を見つめていた。
体はまだ微かに震え、記憶の濁流が、崩れかけた自分の世界を洗い流している。
「……全部、思い出したのか?」
石原は隣に腰を下ろし、低く問いかけた。
ここ数日、皆で杏の反応を見てきたことで、彼女が背負っている“代償”の正体も、徐々に見えてきていた。
杏はぎこちなく頷いた。
涙が静かに頬を伝う。
「ノート……再起動……パパも……私が書いたの……」
一つ一つの言葉が、喉を切り裂くように重かった。
「全部……嘘だった……パパは、戻ってきてない」
そのまま勢いよく石原のほうを振り向いた。
目には、怒りと混乱が入り混じる。
「お兄ちゃん! なんで教えてくれなかったの!?
私、ずっとあそこで……馬鹿みたいに一人で全部やってたのに……!」
声が震えた。
「見てて、楽しかったの……?」
「違う、杏」
石原はすぐに否定した。
まっすぐに、逃げずに。
「最初は疑いだった。ほとんど確信に変わったのは、お前が最初に綻んだときだ。
あのとき、話してたら――どうなってたと思う?」
一拍置いた。
「信じられたか?
それとも、もっと強く修正しようとして……自分を傷つけてたんじゃないか」
杏は言葉を失った。
「じゃあ……あのハガキは……?」
最初、石原は何のことか分からなかった。
(……ハガキ?)
杏は俯いたまま、震える声で続けた。
まるで、最後の答えを聞くのが怖いかのように。
「パパから届いたハガキ……お兄ちゃんのベッドの下にあったやつ……どうして教えてくれなかったの……」
そこでようやく、石原は理解した。
(……そうか。あれのことか)
(……俺のせいだったのか)
数秒、沈黙が落ちた。
その沈黙が、杏の心をさらに沈めていった。
やがて石原は、深く息を吸った。
「杏、ごめん。あのハガキ……俺が書いた」
杏の目が、大きく見開かれた。
石原は視線を落としたまま、言葉を続ける。
「父さんの字を真似して、去年の夏休み、他市の活動に行ったときに……向こうから送ったんだ」
その目を、まともに見られなかった。
「……耐えられなかったんだ。
お前が、他のやつの“父親”の話を聞くたびに見せる顔が」
苦く笑った。
「でも、すぐ後悔した。これはただの嘘だって思って……だから隠した。渡さなかった」
言い終えて、苛立つように自分の頭を軽く叩いた。
「なんで捨てなかったのか、自分でも分からない……」
「ごめん。俺が馬鹿なことをした」
杏は呆然とした。
彼女の“物語”の始まりは――兄の、不器用で痛々しい気づかいだったのだ。
これまで積み重ねてきたすべて。
その執着も、努力も。
こんなにも脆い思い違いの上に、成り立っていた。
「どうして……」
その声は、もはや責めるものではなかった。
「どうして……止めるの……?
お兄ちゃんは……パパに戻ってきてほしくないの?
家族でいたくないの……?」
「杏、聞いてくれ」
石原は彼女の手を逃げさせないように握った。
「止めたのは、父さんを拒んでるからじゃない」
「お前が、夜中に一人でノートに向かって、崩れて、全部自分のせいにしてるのを――もう見たくなかったんだ」
一拍置いた。
「“家族がそろう”って、何だと思う?」
視線を一度外に向け、すぐに戻した。
「そばにいることだ。
完璧じゃなくても、見捨てられないってことだ。
泣いてもいいし、疲れてもいい。止まってもいい」
「そういうのは……もう、ある」
静かに続けた。
「生徒会のみんなも、朋奈も、春野も、花野も、立花も……
あいつらは本物だ。自分の意思で、俺たちを選んでここにいる」
「父さんのことは、父さんに任せればいい。
もう、お前が書く必要はない」
石原の言葉は、ゆっくりと、しかし確かに、杏の中に溜まっていた硬いものを溶かしていった。
“完璧な家族”への執着は、彼が語った、現実のささやかな積み重ねの前では――あまりにも空虚だった。
「最初から……ずっと、お前のこと疑ってた。
途中からは、みんなも知ってた」
「俺たち……ずっとやってきてたんだ。お前をそこから引き戻そうとして」
杏は、ぼんやりと兄を見つめた。
涙がまた溢れ出す。
だが今度は、怒りでも、悔しさでもなかった。
――そのときだった。
石原は、はっきりと見た。
妹の頭上にあった、あの固定されたタグがぱらぱらと剥がれ落ちていくのを。
その下から現れたのは、激しく渦巻く、判別のつかない文字の乱れ。
それこそが、ようやく揺らぎ始めた、彼女の本当の内側だった。
杏は涙に濡れた顔で、辺りを見回した。
この見慣れたリビングを。
兄の姿を。
まるで初めて見るように。
「……ごめん」
声が震えた。
「みんなに……ずっと付き合わせて……こんな……くだらないこと……」
もう自分を支えていられなかった。
石原の胸に飛び込み、声をあげて泣く。
「お兄ちゃん……っ……」
石原はしっかりと抱きしめ、背中をゆっくり叩いた。
涙が服を濡らしていくのを、そのまま受け止める。
自分の目にも、熱いものがにじんでいた。
どれくらい時間が過ぎたのか分からない。
やがて泣き声は小さくなり、断続的な嗚咽へと変わった。
石原がもう一度、妹の“感情”を見たとき。
あの乱れていた文字列は、ゆっくりと形を取り戻しつつあった。
まだ【疲労】と【悲しみ】が縁に残ってはいるが、もはや解読不能なものではない。
今回は――再起動は起きなかった。
執着の檻は、幾度もの無駄な繰り返しの果てに、ついに、内側から崩れ始めていた。




