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見える感情、見えないまま  作者: 颍川
第二十章 破れたページ――いつまでも、ここにいる
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第一百零五話

---


感情は、嵐のあとみたいだった。

まだ細かな波紋は残っている。

それでも、もう水面は静かさを取り戻しつつあった。


杏は石原の胸の中で、最後の力を振り絞るように泣き尽くした。

それはまるで、この数か月間抱え込んできた執着も怯えも、涙と一緒に洗い流してしまうみたいだった。


やがて顔を上げたときには、目も鼻も、真っ赤だった。


「……なんか、すごく長い夢を見てたみたい」


鼻をすすりながら言う声はかすれていたが、もう震えてはいない。


石原は、そっと彼女の頭を撫でた。


「そろそろ、夢から覚める時間だ。……家に帰ろう」


「……家」


杏はその言葉を繰り返しながら、リビングを見渡した。


そこにある家具は、どれも記憶にある“家”と同じはずなのに――どこか違って見えた。


――無理やり塗り固められた完璧さは消えて、代わりに、ようやく現実がそこに残っている。


それは、父がいない現実でもあったし、過去の痛みが完全に消えたわけでもない。

それでも――今、こうして兄と寄り添っていられる温もりは、確かにそこにあった。


ふと、杏は思い出す。


「ノート……まだ、部屋にある」


石原を見るその目には、もう“手放せる”という安堵があった。


「……あれ、破けば……戻れるよね?」


「なんで俺に聞くんだよ……」


杏は少しだけ照れたように笑った。


石原はそのまま、彼女の手を取った。


「一緒に行く」


「……うん」


二人は、杏の部屋へ戻った。


星空の表紙のノートは、机の上に静かに置かれている。

スタンドライトの光を受けて、淡く光っていた。


杏は近づくが、すぐには手を伸ばさなかった。


指先で、表紙の星をなぞる。


ゆっくりとページを開き、最初の一文を指差した。


「お兄ちゃん、ここ……これが、最初に書いた言葉」


【ろうそくの火を消したその瞬間から――どうか、私の世界に来てください】


声は少し詰まりながらも、はっきりとしていた。


「あの日……誕生日のろうそくを吹き消して、お願いしたの。

『パパが戻ってきますように』『また家族で一緒にいられますように』って」


「でも、目を開けても……何も変わらなかった。

チャイムも鳴らないし、電話も来なかった」


「そのとき、このノート……私の願いを分かってたみたいに、

この言葉が勝手に浮かんできたの」


少し間を置いて、目を伏せた。


「……どう使えばいいかも、なんとなく分かっちゃった」


そして、小さく続ける。


「ただ……叶えたかっただけ。

たとえ、自分で作った世界でもいいから」


石原は何も言わなかった。


少しだけ空気が重くなる。


それに気づいた杏は、ふいに顔を上げて、いたずらっぽく片目を細めた。


「ねえお兄ちゃん。

この世界、もうすぐ消えちゃうんだよ? しかも、最後になっても誰も何も覚えてないんだって~」


口元に、いつもの軽やかな笑みが戻っていた。


「どう? こういうときこそ、言っときたいこととか、ないの?」


石原は一瞬、言葉に詰まった。


その含みのあるからかいに、耳の奥がじんわり熱くなった。


少し狼狽しながら妹を睨み、軽くその額を弾く。


「……変なこと言うな」


ぶっきらぼうな声。

だがその奥には、照れと優しさが滲んでいた。


杏は額を押さえながら「えへへ」と笑う。

その笑いには、もう迷いはなかった。


再びノートへ視線を落とした。


深く息を吸い、両手でしっかりとノートの端を掴んだ。


――そのとき。


「――♪」


ポケットの中で、着信音が鳴った。


静かな部屋の中で、不自然なほどはっきりと響く。


石原の手が止まった。


スマホを取り出し、画面を見る。


その表示に、呼吸が一瞬止まった。


――「朋奈」。


杏にもそれが見えた。


そっと手を離し、背中の後ろで手を組みながら、にやりと笑った。


――“ほら、早く出なよ?”

そんな顔だった。


石原は軽く咳払いをして、通話ボタンを押した。

そのまま、ほとんど反射みたいにスピーカーへ切り替えた。


「……どうした、朋奈?」


できるだけ何でもないふうを装って、そう答えた。


電話の向こうから、緒山の聞き慣れた声が届いた。

澄んだ声――けれど、わずかに張りつめている。


「えっと……先輩、杏ちゃんの様子、どうですか?」


「もう大丈夫だよ! 朋奈さん、心配してくれてありがとう!」


杏がスマホに顔を寄せ、先に答えた。

その声は軽やかで、心からのものだった。


「あと一歩で、私たち、“あっちの世界”に戻れるよ~」


通話の向こうが、ふっと静かになった。

ほんの二秒ほど。


やがて、緒山の声が戻ってきた。


一度、息を吸い込んだような間があった。

語尾はわずかに震えていたが、それでも言葉だけは驚くほどはっきりしていた。


「そっか……じゃあさ」


電波越しの声は、ゆっくりと、まっすぐに届く。


「この世界の“私たち”は……もうすぐ“消えちゃう”んだね」


杏は瞬きをして、小さくうなずいた。


「うん……そういうことになるかな」


「先輩」


緒山が、もう一度呼ぶ。

今度は、より強く意識を向けるような声だった。


「……どうした?」


石原は応じた。

視線は自然と、今にも引き裂かれようとしているノートへと落ちていた。


胸の奥に、うまく言葉にできない感情が広がった。

この世界との別れ。

そして、通話の向こうにいる彼女の気持ち。


「私が“消える”前に――」


緒山の声は、そっと落とされた。

けれど、その一言一言には揺るぎない真剣さがある。


崩れかけた境界の向こうからでも、はっきり届いた。


「……このまま、通話したままでいてください」


石原はスマホを握る手に力を込めた。


横を見る。

杏が、静かにうなずきながら、背中を押すような視線を向けていた。


石原は強くうなずいた。


「……ああ」


低く、はっきりと答えた。


杏は兄の様子を見届けると、深く息を吸い込んだ。


そして、両手でノートをしっかりと掴む。


――次の瞬間。


全身の力を込めて、左右へと一気に引き裂いた。


ビリッ――!


鋭い音が、部屋の中に響き渡る。


表紙が裂け、内側のページがばらばらに散った。

そこに書かれていた無数の“設定”と“筋書き”が露わになり――


すぐに、輪郭を失っていった。


同時に。


部屋の壁が、水面のように揺らぎ始めた。


窓の外の景色は歪み、溶けた。

光は引き伸ばされ、異様な帯へと変わっていった。


世界そのものが、低い唸りを上げながら、崩れ始めていた。


現実と虚構の境界が曖昧になり、 すべてが飛び散る光となって、ほどけていく。


音さえも、静かにかき消されていく中で――最後の瞬間。


電話の向こうから、緒山の声が届いた。


吐息みたいに、かすかに。

それでも、はっきりと。


すべてのざわめきを突き抜けるように。


「先輩……大好きですよ」


――次の瞬間。


すべてが、闇に沈んだ。


音も、光も、なにもかも。


そして――静寂が、降りた。

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