第一百零五話
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感情は、嵐のあとみたいだった。
まだ細かな波紋は残っている。
それでも、もう水面は静かさを取り戻しつつあった。
杏は石原の胸の中で、最後の力を振り絞るように泣き尽くした。
それはまるで、この数か月間抱え込んできた執着も怯えも、涙と一緒に洗い流してしまうみたいだった。
やがて顔を上げたときには、目も鼻も、真っ赤だった。
「……なんか、すごく長い夢を見てたみたい」
鼻をすすりながら言う声はかすれていたが、もう震えてはいない。
石原は、そっと彼女の頭を撫でた。
「そろそろ、夢から覚める時間だ。……家に帰ろう」
「……家」
杏はその言葉を繰り返しながら、リビングを見渡した。
そこにある家具は、どれも記憶にある“家”と同じはずなのに――どこか違って見えた。
――無理やり塗り固められた完璧さは消えて、代わりに、ようやく現実がそこに残っている。
それは、父がいない現実でもあったし、過去の痛みが完全に消えたわけでもない。
それでも――今、こうして兄と寄り添っていられる温もりは、確かにそこにあった。
ふと、杏は思い出す。
「ノート……まだ、部屋にある」
石原を見るその目には、もう“手放せる”という安堵があった。
「……あれ、破けば……戻れるよね?」
「なんで俺に聞くんだよ……」
杏は少しだけ照れたように笑った。
石原はそのまま、彼女の手を取った。
「一緒に行く」
「……うん」
二人は、杏の部屋へ戻った。
星空の表紙のノートは、机の上に静かに置かれている。
スタンドライトの光を受けて、淡く光っていた。
杏は近づくが、すぐには手を伸ばさなかった。
指先で、表紙の星をなぞる。
ゆっくりとページを開き、最初の一文を指差した。
「お兄ちゃん、ここ……これが、最初に書いた言葉」
【ろうそくの火を消したその瞬間から――どうか、私の世界に来てください】
声は少し詰まりながらも、はっきりとしていた。
「あの日……誕生日のろうそくを吹き消して、お願いしたの。
『パパが戻ってきますように』『また家族で一緒にいられますように』って」
「でも、目を開けても……何も変わらなかった。
チャイムも鳴らないし、電話も来なかった」
「そのとき、このノート……私の願いを分かってたみたいに、
この言葉が勝手に浮かんできたの」
少し間を置いて、目を伏せた。
「……どう使えばいいかも、なんとなく分かっちゃった」
そして、小さく続ける。
「ただ……叶えたかっただけ。
たとえ、自分で作った世界でもいいから」
石原は何も言わなかった。
少しだけ空気が重くなる。
それに気づいた杏は、ふいに顔を上げて、いたずらっぽく片目を細めた。
「ねえお兄ちゃん。
この世界、もうすぐ消えちゃうんだよ? しかも、最後になっても誰も何も覚えてないんだって~」
口元に、いつもの軽やかな笑みが戻っていた。
「どう? こういうときこそ、言っときたいこととか、ないの?」
石原は一瞬、言葉に詰まった。
その含みのあるからかいに、耳の奥がじんわり熱くなった。
少し狼狽しながら妹を睨み、軽くその額を弾く。
「……変なこと言うな」
ぶっきらぼうな声。
だがその奥には、照れと優しさが滲んでいた。
杏は額を押さえながら「えへへ」と笑う。
その笑いには、もう迷いはなかった。
再びノートへ視線を落とした。
深く息を吸い、両手でしっかりとノートの端を掴んだ。
――そのとき。
「――♪」
ポケットの中で、着信音が鳴った。
静かな部屋の中で、不自然なほどはっきりと響く。
石原の手が止まった。
スマホを取り出し、画面を見る。
その表示に、呼吸が一瞬止まった。
――「朋奈」。
杏にもそれが見えた。
そっと手を離し、背中の後ろで手を組みながら、にやりと笑った。
――“ほら、早く出なよ?”
そんな顔だった。
石原は軽く咳払いをして、通話ボタンを押した。
そのまま、ほとんど反射みたいにスピーカーへ切り替えた。
「……どうした、朋奈?」
できるだけ何でもないふうを装って、そう答えた。
電話の向こうから、緒山の聞き慣れた声が届いた。
澄んだ声――けれど、わずかに張りつめている。
「えっと……先輩、杏ちゃんの様子、どうですか?」
「もう大丈夫だよ! 朋奈さん、心配してくれてありがとう!」
杏がスマホに顔を寄せ、先に答えた。
その声は軽やかで、心からのものだった。
「あと一歩で、私たち、“あっちの世界”に戻れるよ~」
通話の向こうが、ふっと静かになった。
ほんの二秒ほど。
やがて、緒山の声が戻ってきた。
一度、息を吸い込んだような間があった。
語尾はわずかに震えていたが、それでも言葉だけは驚くほどはっきりしていた。
「そっか……じゃあさ」
電波越しの声は、ゆっくりと、まっすぐに届く。
「この世界の“私たち”は……もうすぐ“消えちゃう”んだね」
杏は瞬きをして、小さくうなずいた。
「うん……そういうことになるかな」
「先輩」
緒山が、もう一度呼ぶ。
今度は、より強く意識を向けるような声だった。
「……どうした?」
石原は応じた。
視線は自然と、今にも引き裂かれようとしているノートへと落ちていた。
胸の奥に、うまく言葉にできない感情が広がった。
この世界との別れ。
そして、通話の向こうにいる彼女の気持ち。
「私が“消える”前に――」
緒山の声は、そっと落とされた。
けれど、その一言一言には揺るぎない真剣さがある。
崩れかけた境界の向こうからでも、はっきり届いた。
「……このまま、通話したままでいてください」
石原はスマホを握る手に力を込めた。
横を見る。
杏が、静かにうなずきながら、背中を押すような視線を向けていた。
石原は強くうなずいた。
「……ああ」
低く、はっきりと答えた。
杏は兄の様子を見届けると、深く息を吸い込んだ。
そして、両手でノートをしっかりと掴む。
――次の瞬間。
全身の力を込めて、左右へと一気に引き裂いた。
ビリッ――!
鋭い音が、部屋の中に響き渡る。
表紙が裂け、内側のページがばらばらに散った。
そこに書かれていた無数の“設定”と“筋書き”が露わになり――
すぐに、輪郭を失っていった。
同時に。
部屋の壁が、水面のように揺らぎ始めた。
窓の外の景色は歪み、溶けた。
光は引き伸ばされ、異様な帯へと変わっていった。
世界そのものが、低い唸りを上げながら、崩れ始めていた。
現実と虚構の境界が曖昧になり、 すべてが飛び散る光となって、ほどけていく。
音さえも、静かにかき消されていく中で――最後の瞬間。
電話の向こうから、緒山の声が届いた。
吐息みたいに、かすかに。
それでも、はっきりと。
すべてのざわめきを突き抜けるように。
「先輩……大好きですよ」
――次の瞬間。
すべてが、闇に沈んだ。
音も、光も、なにもかも。
そして――静寂が、降りた。




