第一百零六話
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果てのない闇だった。
まるで、時間さえ止まってしまったみたいに。
杏はその闇の中で、びくりと身を縮めた。
――気づけば、隣にいる石原にしがみついていた。
失敗したの?
戻れなかった?
それとも……“戻る”ってこと自体が、永遠の虚無に落ちることだったの?
背筋に、ぞくりとした寒気が這い上がった。
声を上げそうになった、その瞬間――
「パッ!」
何の前触れもなく、あたたかな光が視界いっぱいに広がった。
冷たさも、暗闇も、一瞬で押し流してしまうように。
杏は、光の眩しさに目を細め、何度か瞬きをした。
最初に飛び込んできたのは、砂糖細工で飾られたクリームケーキ。
上に立てられた数字のキャンドルは、たった今消えたばかりらしく、細い煙をふわりと立ち上らせている。
その周りにあったのは、見慣れた家の食卓。
お菓子や飲み物が、いっぱいに並んでいた。
そして、テーブルを囲んでいたのは――
笑顔を浮かべた、見慣れた顔、顔、顔。
春野は小さなフォークを手に、ケーキの端のいちごをこっそり狙おうとしていた。
花野は少し離れた場所に静かに座り、眼鏡の奥の落ち着いた目を杏へ向けていた。
立花は今にも鳴らすつもりらしいクラッカーを手にしていて、顔いっぱいに嬉しさを浮かべていた。
朝日葵は兄の隣で、目を輝かせながら手を叩いていた。
そして緒山は――テーブルの向こう側に立ち、インスタントカメラを手にしたまま、満面の笑みをまだ引っ込めきれていなかった。
レンズは、たった今まで杏のほうを向いていたのだろう。
みんなの視線が、杏に集まっていた。
あたたかくて。
やさしくて。
祝ってくれているのが、何も言わなくても分かる目だった。
杏は、ただ呆然とした。
そして、そっと視線を動かし、自分の左隣にいる石原を見る。
石原は、静かに小さく頷いた。
それだけで十分だった。
たったそれだけの仕草が、杏の中に残っていた不安も揺らぎも、きれいに拭い去ってしまった。
――戻ってきた。
本当に、戻ってきたんだ。
完璧ではないかもしれない。
それでも、何よりたしかな“今”に。
「杏ちゃん、どうしたの? ぼーっとしちゃって。キャンドルは消したけど、お願いごとはちゃんと覚えてないとだよ?」
立花が明るく笑いながら急かす。
「一般的な認識としては、願い事は口に出すことで“成就”の神秘性が損なわれる可能性がある」
花野が眼鏡を押し上げ、いつも通り淡々と言った。
けれど、少しだけ上がった口元が、その声音のやわらかさを隠しきれていなかった。
「ただし、社会学的に見れば、公言することで達成への動機が強化されるケースもある」
「花野、相変わらず堅いって!」
春野がからりと笑って、大きく手を振った。
「俺は全然アリだと思うぞ、杏ちゃん。言っちゃえよ!
ここにいるのはみんな仲間だ。杏ちゃんの願いなら、みんなで叶えりゃいい!」
「そうそう、みんなで叶えよう!」
朝日葵も勢いよく頷き、隣の朝日守もやさしく微笑んだ。
緒山はカメラを置き、杏のそばまで来ると、そっと腰を落として目線を合わせた。
その瞳は、星の光を溶かしたみたいに、澄んでいてあたたかい。
「どう? 今日の主役さん。どんなお願いしたの?」
杏は、ゆっくりとみんなの顔を見ていった。
春野の頼もしさ。
花野の冷静さ。
立花の明るさ。
朝日兄妹のやさしさ。
緒山のぬくもり。
そして、隣にいる兄の、言葉にしなくても分かる確かな支え。
長い“物語”の中には、執着の霧もあった。
作りもののぬくもりもあった。
苦しくて、どうしようもない引っ張り合いもあった。
それでも最後には、この人たちが、それぞれのやり方で、自分をあの悪い夢の中から、ちゃんとこの灯りのある場所まで連れ戻してくれたのだ。
鼻の奥がつんと痛くなった。
目の奥が、熱を持って潤む。
杏は深く息を吸い込んだ。
そして、ありったけの力で、いちばん大きく、いちばん明るい笑顔を浮かべた。
涙はそのまま、きらきらと睫毛の上に残ったままで。
はっきりと。
力強く。
今の自分の中にある、たった一つの、最後の願いを。
「わたし――」
みんなをもう一度見渡した。
最後に、兄と緒山へ視線を止めた。
一語一語を、宝物みたいに大事にしながら。
「ずっと、みんなと一緒にいたい!」
ほんの短い静けさのあと。
「いいねっ!」
真っ先に春野が大きな声を上げ、手を叩いた。
「もちろん、ずっと一緒だよ!」
立花が歓声を上げながらクラッカーを鳴らし、色とりどりの紙吹雪がぱっと舞う。
「願い事、確かに受理した」
花野が頷き、口元の笑みを少しだけ深くした。
朝日葵は楽しそうに手を叩き、朝日守も笑いながら拍手を送っていた。
緒山は立ち上がり、笑顔をそのまま石原へ向ける。
二人の視線が重なった。
そこに流れたものは、もう言葉にしなくてもよかった。
石原は、生き生きと輝きを取り戻した妹を見た。
それから、目の前にいる、騒がしくて、愛おしくて、この上なく本物の仲間たちを見た。
ずっと張りつめていた心が、ようやくほどける。
そっと手を伸ばし、妹の髪をくしゃりと撫でた。
「……ああ。約束だ」
灯りはあたたかく。
笑い声は部屋いっぱいに満ちていて。
ケーキは甘い香りを漂わせていた。
現実の世界は、細かな悩みも、ありふれた嬉しさも、不完全なままの本当らしさも、そして何より、かけがえのないつながりも――その全部を抱えていた。
まるで大きくてあたたかな腕のように、帰ってきた少女と、彼女をここまで連れてきたみんなを、やさしく包み込んでいるようだった。
これから先も、道はまだ長い。
きっと、風の強い日だってある。
けれど今は。
消えたのはろうそくの火だけだった。
胸の中の灯りは、もう消えない。




