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見える感情、見えないまま  作者: 颍川
第二十章 破れたページ――いつまでも、ここにいる
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第一百零六話

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果てのない闇だった。

まるで、時間さえ止まってしまったみたいに。


杏はその闇の中で、びくりと身を縮めた。

――気づけば、隣にいる石原にしがみついていた。


失敗したの?

戻れなかった?

それとも……“戻る”ってこと自体が、永遠の虚無に落ちることだったの?


背筋に、ぞくりとした寒気が這い上がった。


声を上げそうになった、その瞬間――


「パッ!」


何の前触れもなく、あたたかな光が視界いっぱいに広がった。

冷たさも、暗闇も、一瞬で押し流してしまうように。


杏は、光の眩しさに目を細め、何度か瞬きをした。


最初に飛び込んできたのは、砂糖細工で飾られたクリームケーキ。

上に立てられた数字のキャンドルは、たった今消えたばかりらしく、細い煙をふわりと立ち上らせている。


その周りにあったのは、見慣れた家の食卓。

お菓子や飲み物が、いっぱいに並んでいた。


そして、テーブルを囲んでいたのは――

笑顔を浮かべた、見慣れた顔、顔、顔。


春野は小さなフォークを手に、ケーキの端のいちごをこっそり狙おうとしていた。

花野は少し離れた場所に静かに座り、眼鏡の奥の落ち着いた目を杏へ向けていた。

立花は今にも鳴らすつもりらしいクラッカーを手にしていて、顔いっぱいに嬉しさを浮かべていた。

朝日葵は兄の隣で、目を輝かせながら手を叩いていた。

そして緒山は――テーブルの向こう側に立ち、インスタントカメラを手にしたまま、満面の笑みをまだ引っ込めきれていなかった。

レンズは、たった今まで杏のほうを向いていたのだろう。


みんなの視線が、杏に集まっていた。


あたたかくて。

やさしくて。

祝ってくれているのが、何も言わなくても分かる目だった。


杏は、ただ呆然とした。


そして、そっと視線を動かし、自分の左隣にいる石原を見る。


石原は、静かに小さく頷いた。


それだけで十分だった。


たったそれだけの仕草が、杏の中に残っていた不安も揺らぎも、きれいに拭い去ってしまった。


――戻ってきた。

本当に、戻ってきたんだ。


完璧ではないかもしれない。

それでも、何よりたしかな“今”に。


「杏ちゃん、どうしたの? ぼーっとしちゃって。キャンドルは消したけど、お願いごとはちゃんと覚えてないとだよ?」


立花が明るく笑いながら急かす。


「一般的な認識としては、願い事は口に出すことで“成就”の神秘性が損なわれる可能性がある」


花野が眼鏡を押し上げ、いつも通り淡々と言った。

けれど、少しだけ上がった口元が、その声音のやわらかさを隠しきれていなかった。


「ただし、社会学的に見れば、公言することで達成への動機が強化されるケースもある」


「花野、相変わらず堅いって!」


春野がからりと笑って、大きく手を振った。


「俺は全然アリだと思うぞ、杏ちゃん。言っちゃえよ!

ここにいるのはみんな仲間だ。杏ちゃんの願いなら、みんなで叶えりゃいい!」


「そうそう、みんなで叶えよう!」

朝日葵も勢いよく頷き、隣の朝日守もやさしく微笑んだ。


緒山はカメラを置き、杏のそばまで来ると、そっと腰を落として目線を合わせた。


その瞳は、星の光を溶かしたみたいに、澄んでいてあたたかい。


「どう? 今日の主役さん。どんなお願いしたの?」


杏は、ゆっくりとみんなの顔を見ていった。


春野の頼もしさ。

花野の冷静さ。

立花の明るさ。

朝日兄妹のやさしさ。

緒山のぬくもり。

そして、隣にいる兄の、言葉にしなくても分かる確かな支え。


長い“物語”の中には、執着の霧もあった。

作りもののぬくもりもあった。

苦しくて、どうしようもない引っ張り合いもあった。


それでも最後には、この人たちが、それぞれのやり方で、自分をあの悪い夢の中から、ちゃんとこの灯りのある場所まで連れ戻してくれたのだ。


鼻の奥がつんと痛くなった。

目の奥が、熱を持って潤む。


杏は深く息を吸い込んだ。


そして、ありったけの力で、いちばん大きく、いちばん明るい笑顔を浮かべた。

涙はそのまま、きらきらと睫毛の上に残ったままで。


はっきりと。

力強く。

今の自分の中にある、たった一つの、最後の願いを。


「わたし――」


みんなをもう一度見渡した。

最後に、兄と緒山へ視線を止めた。


一語一語を、宝物みたいに大事にしながら。


「ずっと、みんなと一緒にいたい!」


ほんの短い静けさのあと。


「いいねっ!」

真っ先に春野が大きな声を上げ、手を叩いた。


「もちろん、ずっと一緒だよ!」

立花が歓声を上げながらクラッカーを鳴らし、色とりどりの紙吹雪がぱっと舞う。


「願い事、確かに受理した」

花野が頷き、口元の笑みを少しだけ深くした。


朝日葵は楽しそうに手を叩き、朝日守も笑いながら拍手を送っていた。


緒山は立ち上がり、笑顔をそのまま石原へ向ける。


二人の視線が重なった。

そこに流れたものは、もう言葉にしなくてもよかった。


石原は、生き生きと輝きを取り戻した妹を見た。

それから、目の前にいる、騒がしくて、愛おしくて、この上なく本物の仲間たちを見た。


ずっと張りつめていた心が、ようやくほどける。


そっと手を伸ばし、妹の髪をくしゃりと撫でた。


「……ああ。約束だ」


灯りはあたたかく。

笑い声は部屋いっぱいに満ちていて。

ケーキは甘い香りを漂わせていた。


現実の世界は、細かな悩みも、ありふれた嬉しさも、不完全なままの本当らしさも、そして何より、かけがえのないつながりも――その全部を抱えていた。


まるで大きくてあたたかな腕のように、帰ってきた少女と、彼女をここまで連れてきたみんなを、やさしく包み込んでいるようだった。


これから先も、道はまだ長い。

きっと、風の強い日だってある。


けれど今は。


消えたのはろうそくの火だけだった。

胸の中の灯りは、もう消えない。

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