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見える感情、見えないまま  作者: 颍川
第二十一章 言えるだろうか――見えないままのふたりの心
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第一百零七話

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【九月二十七日・金曜日・夕方】


夏休みの終わりは、夕陽に引き伸ばされた影のように、泉方新高の校内にけだるく引きずられていた。


昼間の喧騒はとっくに消え、残っているのは蝉の声と、風が木の葉を抜けていく細かな葉擦れだけ。


グラウンドの赤いトラックは、夕陽に染められてやわらかな橙色を帯びていた。

スタンドはがらんとしていて、そこには石原と緒山だけが肩を並べて座っていた。


緒山はそっとバッグを開け、夏の思い出が詰まったあのノートを取り出すと、中ほどのページを開いた。


その指先が、一行の文字をなぞる。

その口元が、ふっとゆるんだ。


それから彼女はペンを取り、すぐ横に小さなチェックを、ことさらに丁寧に書き添えた。


「私たちしかいないグラウンドで、思いきり叫ぶ――達成ですっ!」


彼女はノートを閉じ、それを胸の前でぎゅっと抱きしめた。

それから石原のほうを振り向き、夕陽を映した目をきらきらと光らせながら、屈託のない笑顔を向ける。


「成功しましたね! 『夏休み計画』も、これで無事に全部達成です……」


その声には、さっき大声を出したあとのかすかな掠れが、まだ少し残っていた。

それでも、その声にはただただ満ち足りた思いが滲んでいる。


「でも……さっき、先輩にずっと『この子、大丈夫かな』って顔で見られてた気がして、ちょっと恥ずかしかったですけど」


石原はそんな彼女を見て、つられるように笑う。


夕陽は、まるで彼女のことを特別扱いしているみたいだった。

やわらかな髪の上で光が跳ね、彼女の輪郭をふわりとあたたかな金色で縁取る。

鼻先にはうっすら汗がにじみ、興奮のせいか頬もうっすら赤くなっていた。


緒山は目を閉じ、顔を上げて、頬をなでる風を気持ちよさそうに受ける。


石原はそっと自分の胸元に手を当てた。

穏やかで満ち足りたぬくもりが、ゆっくりと彼の心臓を包み込んでくる。


彼女と一緒に、子どもっぽかったり、妙だったり、どこかロマンチックだったりする「夏の願い」を、ひとつずつ叶えてきたのだ。

夜明け前の海辺で日の出を待ったことも、深夜の屋上で星座を探したことも、そして今、誰もいないグラウンドで馬鹿みたいに叫んだことも――


そのどの瞬間も、まるで欠けていたひとつのピースみたいに、かつて単調で灰色だった彼の世界を少しずつ埋めていった。

「色」や「音」が、少しずつ確かなかたちを持ち始めている――そんな気がする。


自分の声が、思っていたよりずっとやわらかく聞こえた。


「俺は……いいと思う。そういうの、元気があって」


少し間を置いて、石原は言い足した。


「それに、朋奈がやりたかったことだろ。それで十分だ」


最後のひと言だけは、いつになく真剣な響きを帯びていた。


緒山はぱちりと瞬きをする。

その頬の赤みが、さっきより少しだけ濃くなった気がした。


彼女はもう何も言わず、ただ手で顎を支えた。

視線は金と紅に染まったトラックの先へ向けられ、口元には淡い、安らいだ笑みが浮かんでいる。


石原も静かになった。

けれど、その視線は知らないうちに、彼女の穏やかな横顔へと引き寄せられていく。


だが、そのあたたかく穏やかな空気の底では、まるで消えきらない雑音のように、まったく別の「声」が、彼の心の奥でいつまでも響き続けていた。


――記憶の中の残響。

ほんの一秒前に聞いたばかりみたいに、鮮明だった。


『先輩……大好きですよ』


電話の向こうから届いた、少女のやわらかく、それでいて揺るがない告白。

それは世界が崩れていく音とともに、虚構と現実の境目を突き抜けて、彼の聴覚の記憶に深く焼きついていた。

どうしても、消えてくれない。


緒山は覚えていない。


杏のノートと一緒に砕けた「あの世界」で起きたすべては、彼女にとっては、たぶん輪郭のぼやけた夢のようなものなのだろう。


けれど、石原は覚えている。


ひとつひとつの言葉を。

その声音に滲んでいたやさしさも、覚悟も、そしてどこか別れを思わせるあのかすかな悲しさも。

石原は、そのすべてをはっきりと覚えていた。


彼には、彼女に返さなければならない答えがあった。

いつ消えてしまってもおかしくない、あの偽物みたいな物語の中じゃない。夕焼けの風も、互いの体温もたしかにある、この現実でこそ。


強い衝動が喉元までせり上がってきた。

どれだけ長く胸の奥でくすぶっていたのか分からないその言葉が、今にもこぼれそうになった。


「朋奈、俺……」


「ん? 先輩?」


緒山がふいに振り向き、不思議そうに彼を見た。


「どうしたんですか? 急にそんな真面目な顔して」


石原はその瞬間、はっと我に返る。

気づけば、いつの間にか拳を握りしめ、身体までわずかにこわばっていた。


慌てて力を抜き、気まずさをごまかすように視線をそらす。


「いや、なんでもない。ただ……新学期のことを考えてただけだ」


ひどく不器用な言い訳だった。

けれど、緒山はそれを受け入れたように、ふっと微笑む。


「そうですね。もうすぐ新学期ですし、生徒会もまた忙しくなりますね」


彼女はぐっと伸びをして、夕陽の中に、伸びやかなシルエットを描き出す。


「でも、夏休みはまだあと少しありますよ!

私たち、『しっかり楽しもう』って約束したじゃないですか!」


「……ああ」


石原はうなずき、もう一度彼女の顔を見た。

さっきの衝動は胸の奥へ押し戻される。けれどそのぶん、もっと確かな決意へと変わっていた。


――この場所で。この夏休みが終わる前に。


「あの世界」から続いてきた想いも、自分の中に積み重なってきた気持ちも、ちゃんと彼女に伝えよう。


そのためには、もっとふさわしいタイミングが必要だった。

もっとちゃんとした場所で。

どんな異常にも邪魔されない、きちんとした言葉で、彼女にこの想いを伝えたかった。


夕暮れの風は少しずつ冷たさを帯び、空の橙色はゆっくりと紫がかった青へと移り変わっていく。


「そろそろ帰るか」


石原は立ち上がり、まだ座ったままの緒山へ手を差し出した。


緒山は顔を上げて彼を見る。

夕陽の残光が、その澄んだ瞳の奥に映っていた。


彼女は小さく微笑むと、ノートを抱えたまま、もう片方の手を彼に差し出す。


「うぅ……先輩、引っ張ってください。ちょっと足がしびれちゃってて」


石原は彼女の手を取った。

指先は少しひんやりとしていたが、やわらかい。

少しだけ力を込めて、彼女をスタンドから引き起こした。


二人の距離は、ひどく近かった。

髪からは、陽の匂いと青草が混ざったような淡い香りが、かすかに漂う。


緒山は立ち上がっても、すぐには手を離さなかった。

そのまま、つないだ手を軽く揺らす。


その顔には、いたずらがうまくいった子どもみたいな笑みが浮かんでいた。


「ありがとうございます、先輩。帰りましょう!」


記憶と決意でざわついていた胸の内が、不思議なくらいすっと静まっていった。


「……ああ。帰ろう」


石原は低くそう返し、今度は自分から彼女の手を握り返した。

手をつないだまま、がらんとしたスタンドを一段ずつ下りていく。


夕陽は二人の影を長く引き伸ばし、寄り添うようにぴたりと重ねていた。

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