第一百零八話
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【マンション】
緒山はくるりと振り返り、手を後ろで組んだまま、石原のほうを向いて二歩ほど後ずさった。
その顔には、肩の力が抜けたような、やわらかな笑みが浮かんでいた。
「今日は……楽しかったです。『夏休み計画』は終わっちゃいましたけど、これからも……」
石原は軽くうなずいた。
その視線は、気づけば彼女のわずかに上がった口元に吸い寄せられている。
「じゃあ、また明日ですね? 先輩」
「……ああ。また明日」
グラウンドで固めたあの決意が、胸の奥で静かに脈打っていた。
軽やかに歩いていく緒山の背中が玄関の向こうへ消えるのを見届けてから、石原はようやく自分の部屋へ足を向けた。
空気に残っていた夏の熱気も、少しずつ引いていた。
夕方の風が、かすかな涼しさを運んでくる。
それでも、胸の奥に残ったあたたかな高鳴りだけは、どうしても消えそうになかった。
玄関のドアを開ける。
いつものような晩ごはんの匂いは、今日はしなかった。
代わりに、リビングのほうから杏の明るい声が響いてきた。
隠す気もないはしゃいだ調子が、そのまま声に乗っていた。
「……うんうん! あの企画ほんとに最高! 美里ちゃん、アイデアすごすぎ!
……え? お兄ちゃん? 今ちょうど帰ってきた――お兄ちゃん!」
杏はソファから身を乗り出し、手にしたスマホをこちらへ向ける。
画面には、満面の笑みを浮かべた立花が映っていた。
「先輩、こんばんはー!」
スピーカー越しの声も、いつも通り明るかった。
「……こんばんは」
石原は靴を脱ぎ、リビングに入ってバッグを脇に置く。
盛り上がっている杏と立花を見ながら、何気なく口を開いた。
「何の話してるんだ?」
「生徒会の『夏の終わりの食事会』だよ!」
杏は目をきらきらさせていた。
「美里ちゃんと会長で企画してるの! 夏休みの最後くらい、ぱーっと盛り上がろうって!
お兄ちゃん、何か食べたいものとか、行きたい場所ある?」
「別に何でもいい。任せる」
石原は特にこだわりも好き嫌いもない。
視線が、きれいに片づいているのにどこか空っぽな食卓へ向き、ふと、現実的な問題が頭に浮かんだ。
「そういえば……今日の晩飯、どうするんだ?」
それを聞いた瞬間、杏の表情が目に見えてしぼむ。
「やっぱりね」と言いたげな目で兄をちらりと見た。
「ほらね、絶対聞くと思った」
小さくため息をつき、スマホ越しの立花に話しかけた。
「美里ちゃん見てよ。お兄ちゃん、私がいないとほんとダメなんだから。晩ごはんすら作らないし」
立花が向こうでくすくす笑った。
「おい……俺だって弁当くらい買って帰ることはあるぞ」
石原は力なく反論した。
「で、それを温めすぎて、何が材料だったのかも分からない茶色い物体にするんでしょ?」
杏は容赦なく追撃すると、今度は妙にわかったような顔になった。
「お兄ちゃん、そのままだとダメだよ。将来の相手、絶対料理できる人じゃないと。
じゃないと二人そろって、外食かデリバリーで生きてくことになるよ?
私、ずっと一緒にいて毎日ごはん作ってあげるわけにもいかないんだからね」
石原は言葉に詰まり、反論しかけた。
だが、その前に杏の表情が変わる。
目にいたずらっぽい光が浮かんだ。
「でもさ――」
「朋奈さんって、料理すごく上手なんだよね?
この前おばさんが持ってきてくれたお菓子も、朋奈さんの手作りなんでしょ? めちゃくちゃ美味しかった!」
その名前がそんな形で出てきた瞬間、石原は耳のあたりがじわっと熱くなるのを感じる。
顔をそむけ、わざとらしく咳払いをした。
「……それがどうした」
だが、そのわずかな反応を杏は見逃さなかった。
新しい大陸でも見つけたみたいに、ソファから飛び起きると、ずいっと石原に顔を近づける。
その表情は好奇心とからかいでいっぱいだった。
「ちょっと待って――怪しい!」
目を細め、声をひそめた。
けれどスマホはそのままだったので、当然立花にも聞こえていた。
「お兄ちゃん、最近朋奈さんと二人でいる時間、増えてない?
今日だってこんな時間まで一緒にいたし……グラウンドでデート?」
「ち、違う。デートじゃない」
石原は即座に否定したが、声にはあまり力がなかった。
「ただ……一緒に……」
そこで、ふと二人の“秘密の約束”が頭をよぎった。
「……ちょっと、一緒にいただけだ」
――むしろ余計に怪しくなっていないか?
「へぇ〜、一緒にいただけ〜」
杏はわざとらしく語尾を伸ばし、まるで魚を盗んだ猫みたいににやにやしてみせた。
「で、どうだったの? 雰囲気よかった? それとも……何か特別なこと、あったりした?」
石原は言葉に詰まった。
そのくせ頭の中には、二つの世界を越えて残ったあの告白の言葉が、勝手に蘇ってくる。
心臓が一瞬、跳ねた。
誤魔化すように背を向け、水でも入れに行こうとしたが、その前に杏がひょいと立ちはだかった。
「お兄ちゃん……もしかして」
杏はじっと彼の目を見つめた。
そして次の瞬間、何かに気づいたように表情を変える。
からかう色がすっと薄れ、その代わりに驚きが浮かんだ。
「美里ちゃん、ちょっと切るね〜」
「はーい、またね!」
通話を切ると、杏は声をぐっと落とし、二人だけに聞こえるように囁いた。
「……朋奈さんに、告白するつもりなんでしょ?」
石原の身体がぴたりと固まった。
その反応を見て、杏は確信した。
現実へ戻ったあのとき、あの出来事を覚えていたのは石原だけじゃなかった。
杏の中にも、いくつかの大事な記憶の欠片が残っていた。
「あの世界」が崩れる直前、電話越しに聞いた緒山のあの告白も、そのひとつだ。
石原があの記憶をどれほど大事にしているか、杏は誰よりも知っていた。
「……あっちの世界で、先に言われちゃったからでしょ?」
杏の声はさらにやわらかい。
そこには、理解と背中を押す気持ちが混じっていた。
「だから今度は、この世界で、お兄ちゃんからって思ってるんだよね」
石原は少し黙り込んだあと、ゆっくりとうなずいた。
――妹に対して、隠す必要はない。
「……ああ」
杏はそんな兄の横顔を見つめて、ふっと笑った。
その笑顔には、安心したような、嬉しそうな気配がにじんでいる。
一歩引き、もうからかうのはやめると決めたように、明るい声で言った。
「じゃあちょうどいいじゃん! 絶好のチャンスが来てるよ!」
「……は?」
石原は思わず聞き返した。
「さっきね、お兄ちゃんが帰ってくる前に――」
杏はスマホをひらひらと振り、声のトーンを元に戻した。
「朋奈さんのお母さんから電話があってさ。
いつも朋奈さんと仲よくしてくれてるお礼にって、今夜ご飯に呼んでくれたの!」
杏はぐっと顔を近づけ、にやりと笑った。
「どう? いわゆる“ご挨拶の場”で、いいタイミング見て告白するのって、けっこうドラマチックじゃない? まあプレッシャーはすごそうだけど」
石原は言葉を失った。
こんなにも都合よく話が転がってくるとは思っていなかったし、ましてや杏が「ご挨拶」と「告白」をそのまま結びつけてくるとも思っていなかった。
だが、冷静に考えてみれば――それはたしかに、自然な流れなのかもしれない。
緒山にとって慣れた家の中で、あたたかな食卓を囲んだあとなら――
「考えすぎだって!」
杏はわざと大人ぶった調子で彼の肩をぽんと叩き、思考を断ち切った。
「ただの食事会だと思えばいいんだって。
でも――」
また悪戯っぽく笑う。
「お兄ちゃん、ちゃんといいとこ見せなよ? おじさんとおばさんにいい印象持ってもらうの、大事なんだからね!」
石原は困ったように息を吐いた。
けれど胸の奥にあった決意は、杏の言葉と緒山の家からの招待を前にして、むしろいっそうはっきりしている。
兄妹は顔を見合わせると、それだけで通じたように自然と動き出した。
石原は着替えのために自室へ向かい、杏は手土産によさそうな菓子折りを探し始める。
窓の外では、空がゆっくりと夜へと移り変わり、夏の星がうっすらと瞬き始めていた。
やがて二人は、丁寧に包まれた菓子折りを手に、並んで玄関を出る。
石原は一度、深く息を吸った。
夕方の少しひんやりした空気が、肺の奥まで満ちていく。
「行くぞ」
杏は笑ってうなずき、軽やかな足取りで隣に並んだ。




