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見える感情、見えないまま  作者: 颍川
第二十一章 言えるだろうか――見えないままのふたりの心
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第一百零九話

---


【緒山家】


リビングに足を踏み入れた瞬間、馴染みのある空気がふわりと身を包む。


料理のあたたかな香りと、窓の外の緑の気配が混ざり合っていた。

――何度来ても感じる、どこかほっとする匂い。


壁には新しい家族写真が一枚増えていた。

本棚も、どこか整え直されたように見える。


それでも全体の雰囲気は変わらなかった。

肩の力が抜けるような、ちゃんと人の暮らしがある空間だ。


ローテーブルの上には、いつも通り来客用の果物が並んでいた。

今回は切り分けられたスイカで、照明の下でみずみずしい艶を帯びている。


「こんばんは。おじさん、おばさん」


石原は自然な口調で挨拶しながら、迎えに出てきた緒山の父に手土産を差し出した。


一方、杏はすでに慣れた様子でキッチンのほうへ顔をのぞかせる。


「おばさん! またご飯食べに来ちゃいました! 今日は何があるんですか?」


「あら、杏ちゃん、いらっしゃい」


緒山の母がキッチンから顔を出し、やわらかな笑みを浮かべた。


「今日はね、この前食べてみたいって言ってた牛肉の煮込みを作ったのよ」


「わあ、やったー!」


そのとき、緒山が部屋から出てきた。

シンプルな部屋着のTシャツにショートパンツ姿で、髪はゆるく後ろでまとめられていた。

ほどけた髪が数本、首元にかかっている。


石原たちを見ると、目元がふわっと緩んだ。


「来たんですね。さっきまで、お父さんが出張先から持ち帰ってきた資料の整理を手伝ってて、ちょっと遅れちゃいました」


「いや、気にしなくていい」


石原の視線が、ほんの一瞬だけ彼女の顔に留まった。


照明のせいか、昼間グラウンドで見たときより、わずかに顔色が白く見える。

それでも、その笑顔は変わらず明るかった。


夕食は、いつも通り穏やかで心地よい空気の中で始まった。


食卓にのぼるのは、たわいない日常の話題ばかりだ。

杏は、生徒会で進めている「夏の終わりの食事会」について、楽しそうに話していた。


緒山の両親はそれを丁寧に聞き、ときおりやさしく助言を加えていた。

緒山も、杏が話しきれなかった小話を補いながら笑う。

ときどき石原と目が合い、言葉を交わさなくても通じるような視線が重なった。


あまりにも自然で、あたたかい。

何度も一緒に食卓を囲んできたからこその空気が、そこにはあった。


それでも、石原の意識は何度も緒山のほうへと引き寄せられてしまう。


食卓の空気はあまりにも和やかだった。

杏もすっかり打ち解け、家でのちょっとした変化まで話し始めていた。


「最近、ちょっと新しい料理にも挑戦してるんです! まあ、お兄ちゃんの反応は毎回すごいんですけど」


杏が舌を出して笑うと、緒山の両親もつられて笑った。


「じゃあ今度、朋奈にも手伝わせましょうか」


緒山の母が笑いながら言い、やわらかな視線で石原と娘を見る。


「少なくとも、台所を大惨事にはしないと思うわよ」


「もう、お母さん……」


緒山は少し恥ずかしそうに語尾を伸ばし、耳のあたりをほんのり赤くしていた。


緒山の父も笑いながら、石原の皿に料理を取り分けつつ、さりげなく問いかける。


「石原くんは、将来どこの大学を考えているんだい? 地元に残る予定かな?」


話題は、そのまま自然に先のことへ移っていく。


石原は答えながら、二人の大人の温かな気遣いを感じていた。


胸の奥が、じんわりとあたたかくなると同時、いっそうはっきりと確信する。

――自分はこの温かい場の、もっと長く、もっと深い一部になりたいのだと。


石原は緒山のほうを見た。


彼女は杏と小声で何かを話している。

照明がまつげに細かな影を落としていた。

ときおり軽く咳をし、その度に傍らの白湯を一口飲む。


ただ、ほんの一瞬――杏が面白い話をして、皆が笑いに包まれたその瞬間。


緒山が笑いながら顔を横に向け、石原と視線が重なった。


その瞳はきらきらと輝いていて、笑みで満ちていた。


石原の心臓が、どくんと一度跳ねる。

告白への緊張と、甘い期待が、一気にほかの思考を押し流した。


そのあと、彼はあまり覚えていなかった。

緒山がいつ席を立って、キッチンへ向かったのかも。


ただ、母親と一緒に扉の向こうへ消えたこと。

その奥から、笑い声と小さな水音が聞こえていたことだけが、ぼんやりと残っていた。


しばらくして、彼女はコップを手に戻ってきた。

何事もなかったような顔で席につき、そのまま「食事会でどんなゲームをするか」という話に加わる。


食後、緒山の父が昔の写真をいくつも持ち出してきて、石原に見せてくれた。

その中には、緒山の幼い頃の写真もたくさん混ざっている。


初めて来たときには見つからなかった分を、今になってまとめて見せてもらっているらしかった。


緒山は横から抗議する。


「お父さん、それ出さないでって言ったのに!」


頬をほんのり赤くしたその様子が、妙に印象に残った。


一方、杏は緒山の母のそばにぴったりとくっつき、食後の果物の準備を教わっている。

小さな声で話しながら、ときおり笑い声がこぼれた。


部屋の中には、ゆったりとした蜂蜜色のぬくもりが満ちていた。


石原は、その中で動く緒山の姿を見ていた。

家族と妹のあいだを行き来する自然な仕草。

力の抜けた横顔。

そこに浮かぶ、気負いのない楽しさ。


その笑顔を守りたい。

その未来の中に、自分もいたい。


そんな思いが、胸の奥ではっきりしていった。


――ただ、ほんのわずかな間。


窓辺に寄り、少し離れたところで杏と母が何か話しているのを見ていた、その横顔が――

夜の気配を背にして、一瞬だけ、周囲のぬくもりから切り離されたような静けさを帯びた。


ほんの一瞬だ。石原は、自分の見間違いかとさえ思った。


次の瞬間には、杏が駆け寄り、新しい髪ゴムをつけてみせると、また笑い声が広がる。

空気はすぐに元通りになった。


帰り道。夜風はやさしかった。


杏はまだ興奮した様子で話し続けていた。


「おばさんほんと優しいし、おじさんも面白いよね! 朋奈さんの小さい頃の写真、めっちゃ可愛かった!」


「……今も可愛い」


石原はそう答え、自然と口元が緩んだ。


頭の中に浮かんでいるのは――

「これからも来なさい」と肩を叩いてくれた緒山の父の、あの信頼をにじませた目。

どこか意味ありげだった緒山の母の「お互い、ちゃんと面倒見てあげてね」という言葉。

そして、あの光の中で向けられた、曇りのない笑顔。


食事の途中でふとよぎった、わずかな違和感――いつもより少し頻繁に水を飲んでいたことや、キッチンでの少し長い時間。


それらは今、この満ちあふれる温もりと期待の中で、すっかり薄れていた。

背景に溶ける、ささいな雑音みたいなものに過ぎない。


そのとき、彼の心を占めていたのはただ一つだった。


――この夏休みが終わる前に。


今夜のように星がきれいな夜に、彼女の前に立って、もう見ないふりのできなくなった想いを、きちんと彼女に伝えること。


石原はポケットの中のスマホを軽く握った。


そこには、夕暮れのグラウンドで、残照の中に目を閉じて微笑む緒山の横顔が、こっそり収められていた。


(……早く明日になれ)

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