第一百零九話
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【緒山家】
リビングに足を踏み入れた瞬間、馴染みのある空気がふわりと身を包む。
料理のあたたかな香りと、窓の外の緑の気配が混ざり合っていた。
――何度来ても感じる、どこかほっとする匂い。
壁には新しい家族写真が一枚増えていた。
本棚も、どこか整え直されたように見える。
それでも全体の雰囲気は変わらなかった。
肩の力が抜けるような、ちゃんと人の暮らしがある空間だ。
ローテーブルの上には、いつも通り来客用の果物が並んでいた。
今回は切り分けられたスイカで、照明の下でみずみずしい艶を帯びている。
「こんばんは。おじさん、おばさん」
石原は自然な口調で挨拶しながら、迎えに出てきた緒山の父に手土産を差し出した。
一方、杏はすでに慣れた様子でキッチンのほうへ顔をのぞかせる。
「おばさん! またご飯食べに来ちゃいました! 今日は何があるんですか?」
「あら、杏ちゃん、いらっしゃい」
緒山の母がキッチンから顔を出し、やわらかな笑みを浮かべた。
「今日はね、この前食べてみたいって言ってた牛肉の煮込みを作ったのよ」
「わあ、やったー!」
そのとき、緒山が部屋から出てきた。
シンプルな部屋着のTシャツにショートパンツ姿で、髪はゆるく後ろでまとめられていた。
ほどけた髪が数本、首元にかかっている。
石原たちを見ると、目元がふわっと緩んだ。
「来たんですね。さっきまで、お父さんが出張先から持ち帰ってきた資料の整理を手伝ってて、ちょっと遅れちゃいました」
「いや、気にしなくていい」
石原の視線が、ほんの一瞬だけ彼女の顔に留まった。
照明のせいか、昼間グラウンドで見たときより、わずかに顔色が白く見える。
それでも、その笑顔は変わらず明るかった。
夕食は、いつも通り穏やかで心地よい空気の中で始まった。
食卓にのぼるのは、たわいない日常の話題ばかりだ。
杏は、生徒会で進めている「夏の終わりの食事会」について、楽しそうに話していた。
緒山の両親はそれを丁寧に聞き、ときおりやさしく助言を加えていた。
緒山も、杏が話しきれなかった小話を補いながら笑う。
ときどき石原と目が合い、言葉を交わさなくても通じるような視線が重なった。
あまりにも自然で、あたたかい。
何度も一緒に食卓を囲んできたからこその空気が、そこにはあった。
それでも、石原の意識は何度も緒山のほうへと引き寄せられてしまう。
食卓の空気はあまりにも和やかだった。
杏もすっかり打ち解け、家でのちょっとした変化まで話し始めていた。
「最近、ちょっと新しい料理にも挑戦してるんです! まあ、お兄ちゃんの反応は毎回すごいんですけど」
杏が舌を出して笑うと、緒山の両親もつられて笑った。
「じゃあ今度、朋奈にも手伝わせましょうか」
緒山の母が笑いながら言い、やわらかな視線で石原と娘を見る。
「少なくとも、台所を大惨事にはしないと思うわよ」
「もう、お母さん……」
緒山は少し恥ずかしそうに語尾を伸ばし、耳のあたりをほんのり赤くしていた。
緒山の父も笑いながら、石原の皿に料理を取り分けつつ、さりげなく問いかける。
「石原くんは、将来どこの大学を考えているんだい? 地元に残る予定かな?」
話題は、そのまま自然に先のことへ移っていく。
石原は答えながら、二人の大人の温かな気遣いを感じていた。
胸の奥が、じんわりとあたたかくなると同時、いっそうはっきりと確信する。
――自分はこの温かい場の、もっと長く、もっと深い一部になりたいのだと。
石原は緒山のほうを見た。
彼女は杏と小声で何かを話している。
照明がまつげに細かな影を落としていた。
ときおり軽く咳をし、その度に傍らの白湯を一口飲む。
ただ、ほんの一瞬――杏が面白い話をして、皆が笑いに包まれたその瞬間。
緒山が笑いながら顔を横に向け、石原と視線が重なった。
その瞳はきらきらと輝いていて、笑みで満ちていた。
石原の心臓が、どくんと一度跳ねる。
告白への緊張と、甘い期待が、一気にほかの思考を押し流した。
そのあと、彼はあまり覚えていなかった。
緒山がいつ席を立って、キッチンへ向かったのかも。
ただ、母親と一緒に扉の向こうへ消えたこと。
その奥から、笑い声と小さな水音が聞こえていたことだけが、ぼんやりと残っていた。
しばらくして、彼女はコップを手に戻ってきた。
何事もなかったような顔で席につき、そのまま「食事会でどんなゲームをするか」という話に加わる。
食後、緒山の父が昔の写真をいくつも持ち出してきて、石原に見せてくれた。
その中には、緒山の幼い頃の写真もたくさん混ざっている。
初めて来たときには見つからなかった分を、今になってまとめて見せてもらっているらしかった。
緒山は横から抗議する。
「お父さん、それ出さないでって言ったのに!」
頬をほんのり赤くしたその様子が、妙に印象に残った。
一方、杏は緒山の母のそばにぴったりとくっつき、食後の果物の準備を教わっている。
小さな声で話しながら、ときおり笑い声がこぼれた。
部屋の中には、ゆったりとした蜂蜜色のぬくもりが満ちていた。
石原は、その中で動く緒山の姿を見ていた。
家族と妹のあいだを行き来する自然な仕草。
力の抜けた横顔。
そこに浮かぶ、気負いのない楽しさ。
その笑顔を守りたい。
その未来の中に、自分もいたい。
そんな思いが、胸の奥ではっきりしていった。
――ただ、ほんのわずかな間。
窓辺に寄り、少し離れたところで杏と母が何か話しているのを見ていた、その横顔が――
夜の気配を背にして、一瞬だけ、周囲のぬくもりから切り離されたような静けさを帯びた。
ほんの一瞬だ。石原は、自分の見間違いかとさえ思った。
次の瞬間には、杏が駆け寄り、新しい髪ゴムをつけてみせると、また笑い声が広がる。
空気はすぐに元通りになった。
帰り道。夜風はやさしかった。
杏はまだ興奮した様子で話し続けていた。
「おばさんほんと優しいし、おじさんも面白いよね! 朋奈さんの小さい頃の写真、めっちゃ可愛かった!」
「……今も可愛い」
石原はそう答え、自然と口元が緩んだ。
頭の中に浮かんでいるのは――
「これからも来なさい」と肩を叩いてくれた緒山の父の、あの信頼をにじませた目。
どこか意味ありげだった緒山の母の「お互い、ちゃんと面倒見てあげてね」という言葉。
そして、あの光の中で向けられた、曇りのない笑顔。
食事の途中でふとよぎった、わずかな違和感――いつもより少し頻繁に水を飲んでいたことや、キッチンでの少し長い時間。
それらは今、この満ちあふれる温もりと期待の中で、すっかり薄れていた。
背景に溶ける、ささいな雑音みたいなものに過ぎない。
そのとき、彼の心を占めていたのはただ一つだった。
――この夏休みが終わる前に。
今夜のように星がきれいな夜に、彼女の前に立って、もう見ないふりのできなくなった想いを、きちんと彼女に伝えること。
石原はポケットの中のスマホを軽く握った。
そこには、夕暮れのグラウンドで、残照の中に目を閉じて微笑む緒山の横顔が、こっそり収められていた。
(……早く明日になれ)




