第一百一十話
---
【九月三十日・月曜日】
夏休み最後の日。
空はどこまでも澄みきっていて、まるで誰かが磨き上げたみたいに青かった。
陽射しはやわらかく、肌を刺すような強さはない。
夏の終わりらしい、どこか名残惜しさを含んだぬくもりを帯びていた。
石原はマンションの前に立ち、何度も建物の入口へ視線を向ける。
それから、またスマホを見下ろした。
――新着はない。
「お兄ちゃん、何緊張してるの?」
背後から杏がひょいと顔を出した。
リュックには立花たちに持っていくお菓子が詰まっている。
その顔には、全部お見通しだと言いたげな笑みが浮かんでいた。
「今日だって、別にお兄ちゃんが朋奈さんを二人きりで誘ったわけじゃないんでしょ? みんなでご飯なんだから」
「……緊張してない」
「ほんとに~?」
杏はわざとらしく語尾を伸ばし、ぐっと顔を近づけて兄の顔をのぞき込んだ。
「じゃあなんで、さっきからずっと襟直してるの? スマホも何回も見てるし、しかも――」
「杏ちゃん、おはよう」
明るい声が角の向こうから響き、ちょうどいいタイミングで割り込んできた。
緒山が小走りで近づいてくる。
今日はよく似合うワンピース姿だった。
髪は同じ色合いのヘアゴムでゆるくまとめられ、歩くたびにふわりと揺れる。
「おはよう、朋奈さん!」
杏はすぐに兄から離れ、親しげに緒山の腕に絡みついた。
「わあ、今日すごく可愛い! 新しいワンピですか?」
「え、あ……うん。先週末、母と買い物に行ったときに見つけて……」
少し照れたように答えながらも、緒山の視線は一瞬だけ石原のほうへ流れた。
石原は、言葉がうまく出てこない。
「似合ってる」という一言が喉まで出かかって、そこで何度も引っかかった。
喉の奥で何度か転がした末、結局出てきたのは、
「……行こう」
それだけだった。
緒山はくすっと笑い、小さくうなずいた。
---
待ち合わせの店は、家庭料理が売りの小料理屋だった。
二階の長テーブルを貸切にしている。
石原たち三人が着いたときには、春野、花野、立花はすでに来ていて、串焼きを何種類頼むかでメニューを前にわいわいやっていた。
「あ、先輩たち来ました!」
立花が真っ先に手を振った。
「杏ちゃん、こっちこっち!」
杏は嬉しそうに駆け寄り、そのまま立花と並んでデザートメニューを覗き込んだ。
花野は眼鏡を軽く押し上げ、二人に一瞬だけ視線を向けると、すぐにさりげなく逸らす。
春野はメニューを置き、いつものように明るく笑った。
「お、来たな。石原、今日はなんか調子よさそうじゃん」
その視線が石原と緒山のあいだをひと往復した。
どこか含みのある言い方だった。
石原の胸がひやりとした。
椅子を引いて座ると、視界の端に杏と立花がひそひそ話しているのが見えた。
立花は何度も頷きながら、こっそりこちらへ親指を立ててみせる。
(……やっぱりな)
「先輩、何飲みます? ソフトドリンクにしますか、それともウーロン茶?」
隣に座った緒山が、小さな声で尋ねた。
「ウーロン茶でいい」
石原は答えてから、少し間を置いた。
「……ありがとう」
緒山はふっと笑い、彼の前の湯のみをそっと置き直す。
今日はいつもより機嫌がよさそうで、表情も柔らかく、指先の動きまで軽やかだった。
注文は、わいわいしたやり取りの中で決まっていった。
料理を待つ間、立花が夏休みに見たドラマの話をし、花野が冷静にその展開の矛盾を指摘し、春野はこの前、故郷の中部地方に帰って手伝いをしたときの話をしていた。
空気はにぎやかで、気楽で。
このメンバーで集まるときの、いつもの雰囲気だった。
だが石原はすぐに気づいた。
今日のその「にぎやかさ」は、どこか妙に狙いが定まっていた。
「そういえばさ」
立花が湯のみを置き、目をきらきらさせて向かいを見る。
「朋奈ちゃんと先輩、この夏休み、けっこう一緒に行動してましたよね?」
少し唐突だったが、まったくの予想外というわけでもない。
何人かの視線が、一斉に集まった。
緒山は湯のみを持つ手をほんの少し止める。
まつげを伏せたが、声は落ち着いていた。
「えっと……うん。生徒会のことで一緒になることが多くて」
「それだけじゃないでしょ?」
杏が頬杖をつきながら、すぐに口を挟む。
「ね、お兄ちゃん?」
石原は否定しなかった。
緒山の指先が、湯のみの縁をなぞる。
耳のあたりがほんのりと赤く染まっていた。
「……別に、そんな特別なことじゃない」
小さな声でそう言った。
「へぇ〜」
立花がわざとらしく語尾を伸ばし、杏と意味ありげに視線を交わす。
「“そんな特別なことじゃない”って、それもう“何かはあるけど言えません”って意味じゃないですか?」
花野が眼鏡を押し上げ、淡々と言った。
「一般に、プライベートな質問に対する回避は、回避すべき内容が実際に存在することを示す傾向がある」
「真汐ちゃん、そういう学術っぽいノリでゴシップしないでよ!」
立花が笑いながらテーブルを軽く叩いた。
春野は何も言わず、ゆっくりとお茶を飲んでいた。
その視線だけが、石原と緒山の間を行き来している。
何も言わないくせに、全部分かっている顔だった。
石原は、耳のあたりがじわじわと熱くなるのを感じた。
何か言い返そうとした。
それらしい理由を並べて、うまくごまかそうとした。
夏休みの間、実際に生徒会の仕事をしていた時間もある。
それは事実だし、何も後ろめたいことはない。
……なのに。
グラウンドで見た夕焼けも、夜の屋上で見上げた星空も、誰もいない道を並んで歩いた蝉の鳴く夏の夜も――
なぜか口に出せない。
どれも「特別なこと」ではない。
ただ一緒にいて、他愛もない話をして、同じアイスを分けて、自販機の前で同じ飲み物を同じタイミングで買っただけだ。
はっきり「デート」と呼べるような出来事なんて何もない。
それなのに、その一つ一つが夏の夜の蛍みたいに、記憶の中でやけに明るく残っていた。
口を開く。
だが「ただの友達だ」とは言えなかった。
――あまりにも言い訳じみている。
「……別に、悪いことは何もしてない」
結局、そんな言葉しか出てこなかった。
自分でも驚くほど不格好だった。
一瞬、場が静まった。
次の瞬間、笑いが弾けた。
「先輩!」
立花が腹を抱えて笑った。
「それ、完全に何か隠してる人の言い方じゃないですか!」
杏は顔を覆い、肩を震わせていた。
「うわぁ……うちのお兄ちゃん、ほんと……」
緒山は顔を伏せ、湯気に隠れるようにしていた。
赤くなった耳だけが見えてる。
指は湯のみをぎゅっと握りしめていた。
そのとき、春野が口を開いた。
穏やかな声だったが、どこか年上らしい落ち着きがあった。
「石原さ」
湯のみを置いた。
「お前、何か隠そうとするとき、無意識に唇をきゅっと真一文字に結ぶ癖あるの、知ってるか?」
石原は一瞬、言葉を失った。
「あと緒山もな」
春野は軽く笑いながら続ける。
「緊張してるとき、やたら湯のみ握るんだよ。今みたいにさ」
「えっ」
緒山が小さく声を上げ、慌てて手を離した。
再び笑いが広がる。
春野はそれ以上は追及せず、肩をすくめるように笑った。
そして自然に話題を変え、午後の予定について話し始める。
石原は小さく息を吐き、そっと緒山のほうを見た。
彼女は顔を下げたまま、存在しないしわを伸ばすようにスカートを指で整えていた。
まつげが影を落とし、表情は見えにくい。
だが、口元に浮かぶかすかな笑みだけは隠しきれていなかった。
石原は視線を逸らし、冷めきったお茶を一気に飲み干す。
胸の奥が、じわりと熱かった。
石原は小さくため息をつく。
これは杏の仕込みだと分かっていた。
あの細かい誘導も、わざとらしい話の振り方も――全部。
だが同時に、否定もできなかった。
胸の奥に、あたたかいものが静かに広がっていく。
この人たちは、それぞれのやり方で。
不器用で、それでもやさしく。
石原と緒山の背中を、少しずつ前へ押してくれていた。
(……こういうのも、嫌いじゃない)




