第一百一十一話
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食事会も、そろそろ終わりに近づいていた。
石原は湯のみを手にした。
底に残った細い茶の輪をぼんやり見つめながら、耳だけは緒山の声を追う。
――彼女は今、春野と来学期の生徒会の割り振りについて話している。
石原の中には、ひとつの考えがあった。
心臓がやけに大きく鳴る。
だが、全員がいるこの場ではとても言い出せなかった。
……どう切り出せばいい。
視線を落とし、水を飲むふりで鼓動を落ち着けた。
テーブルの下で、そっとスマホを取り出す。
親指が画面の上を迷った。
数秒打っては消し、また打っては消した。
最後に残ったのは、あまりにも短く、不器用な一文だ。
『午後、時間ある? ……一緒に少し歩かないか』
宛先:朋奈
送信。
顔を上げ、何事もなかったようにスマホをテーブルの端に伏せた。画面は下向きのまま。
だが心臓は太鼓みたいに鳴り続け、耳の奥まで響いていた。
テーブル越しに、緒山は杏の話を聞きながら笑っている。
小さくうなずき、柔らかく微笑んだ。
彼女のスマホはテーブルの端に置かれたまま、画面はずっと暗いままだった。
――気づいてない?
――それとも、気づいているけど返せない?
石原は無理やり意識を会話へ戻した。
春野が文化祭の構想を語り、花野はもう予算を計算し始めていた。
相づちは打つ。
だが、視線はどうしても、あの反応のないスマホへと吸い寄せられてしまった。
画面は、まだ暗いまま。
緒山は変わらず杏と話し、料理を取り、時々笑う。
どこにもおかしなところはない。
(……まあ、いいか)
石原は視線を引き戻し、少しだけ残念そうに水を口に含んだ。
(たぶん、本当に気づいてないんだろう)
スマホをもう一度画面が下になるように元に戻して、静かに息を吐いた。
落ち込むほどではない。
ただ、少しだけ胸の奥が空いたような感じが残った。
もう一度、意識をテーブルへ戻す。
杏はデザートを食べながら軽口を叩き、場は相変わらず賑やかだった。
緒山も笑っていた。
頬杖をつきながら、立花が誇張して語る“春野が後輩に教師と間違えられた話”を楽しそうに聞いている。
その横で、スマホはテーブルの端に置かれたまま。
画面は一度も光らなかった。
石原は冷めた唐揚げを一つ取り、ゆっくり噛んだ。
窓の外の光は、白い正午の色から、午後のやわらかな金色へと変わっていく。
話題は次々と移り、コーヒーも一杯、また一杯と継ぎ足されていった。
やがて、立花がカラオケを提案し、花野が資料作成を理由に断り、春野もまだ確認する書類があると言った。
椅子の音、バッグのファスナーの音、重なる「また明日」の声が、店の中で入り混じる。
石原も立ち上がり、自分の前を軽く片づけ始めた。
「先輩」
隣から緒山の声がかかった。
自然で、やわらかな声だった。
「そろそろ帰りますか? 一緒に――」
「……行かないか」
ほとんど反射みたいに、石原の言葉がそれを遮った。
静まり始めた空気の中で、その声だけが少し唐突で張り詰めていた。
「……少し、歩かないか」
一瞬、言葉が途切れた。
喉がかすかに動いた。
「……俺と、二人で」
空気が、ほんの一瞬だけ止まった。
「へえ」
春野が意味ありげに声を漏らした。
立花は口元を押さえ、目を丸くする。
花野は眼鏡を押す手を途中で止めた。
そして杏は――
「うわぁ〜、お兄ちゃんが妹を捨てた〜! 朋奈さんができたらもう妹はいらないんだ〜!」
顔を覆いながら大げさに嘆いた。
だが指の隙間から覗く目は、きらきらと輝いている。
その様子に、立花が思わず吹き出した。
石原は耳まで真っ赤になった。
顔を上げられず、ただテーブルの木目を見つめる。
「……いいか?」
声は小さかった。
ようやく掴んだこの瞬間を、壊してしまわないように。
「もちろんです」
緒山の声が、やさしく返ってきた。
澄んでいて、どこかほんの少しだけ震えていた。
「じゃあ……行きましょう」
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別れ際は、やけに賑やかだった。
杏は何度も「遅くなりすぎないでね」と念を押し。
立花はぶんぶんと手を振り。
花野は珍しく「楽しんできて」と声をかけ。
春野は石原の肩をぽんと叩いて、何も言わずにただ笑った。
石原と緒山は、並んで店を出た。
九月の終わりの陽射しは、もう真夏みたいな鋭さを失っていて、やわらかく、どこかやさしかった。
通りには人が行き交っている。買い物袋を提げた人。子どもの手を引いた人。買ったばかりの花を抱えた人。
――これ以上ないくらい、ありふれた午後の風景だった。
緒山は静かに彼の隣を歩いている。
スカートの裾が、歩くたびにゆるやかに揺れていた。
ずっと何も言わないまま、ときおり空を見上げ、また足元へ視線を落とした。
石原の鼓動は、まだ完全には収まっていなかった。
この先どこへ行くのか。
何を話せばいいのか。
考えようとしても、頭の中は真っ白で、
「うまくいった」
「引き受けてくれた」
その言葉ばかりが何度も巡っていた。
ふいに、緒山がくすっと笑った。
「先輩」
顔をこちらへ向けた。
その目には、どこか悪戯っぽい光が宿っていた。
「スマホ、見ました?」
石原は不思議そうに彼女を見る。
緒山はその場に立ち止まり、両手を背中に回した。
スカートの裾が風に揺れる。
陽の光が髪先をすべり、笑みを含んだ睫毛のあたりで小さく跳ねた。
その顔には、子どもみたいな得意げな色と、少しだけ隠しきれない照れが混ざっている。
「ずっと待ってたんです」
彼女はやわらかい声で言った。
「先輩がいつ気づくかなって。
いつ、自分の口で言ってくれるかなって」
石原は一瞬、言葉を失った。
視線を落としてスマホを見た。
画面には、あの一通だけが残っていた。
『午後、時間ある? ……一緒に少し歩かないか』
既読。
返信なし。
「……気づいてたのか」
声が少しかすれた。
「うん」
「じゃあ、なんで返さなかったんだよ」
緒山は小さく首を傾げた。
「先輩の口から聞きたかったからです」
石原は口を開きかけた。
つまり彼女は、ずっと待っていたのだ。
自分が落ち着かなくなるのを。
勇気を振り絞るのを。
あの連中に見られながら、たどたどしく「二人で」と言うのを。
しかも、自分は本当に言ってしまった。
「……ずるいな、朋奈」
肩の力を抜き、長く息を吐く。
その声に悔しさはなく、ただ、すっかり降参してしまったような響きだけがあった。
「うんうん」
緒山はあっさり認めた。
「……次は、素直に言ってくれればいい」
「それはだめです」
首を横に振り、髪がふわりと揺れた。
「次も、先輩の口から聞きたくなるかもしれないじゃないですか」
石原は顔を上げ、困ったように笑う。
ちょうどそのとき、夏の終わりの風が通りを抜けていった。
ほのかな花の匂いと、季節の名残みたいなさびしさを運びながら。
その風の中で、目の前の少女は、笑みを湛えた瞳でまっすぐ彼を見つめていた。
まるで、彼が自分の方へ歩いてくるのを待っているみたいに。
あるいは、ずっと前からそうしていたみたいに。
そして緒山は、そっと手を伸ばした。
彼の手を、やさしく握った。
指先が彼の指の関節にふれた感触は、羽が一枚落ちたみたいに軽かった。
石原の身体がかちんと固まった。
「大丈夫ですよ」
彼女の声はとても小さかった。
笑いを含んでいたのに、そこにははっきりとした真剣さもあった。
「今は、私たち二人だけですから」
その指先が、ほんの少しだけ強く握られた。
石原が逃げてしまわないように。
それとも、これが夢じゃないと確かめるように。
石原は、重なった二人の手を見下ろした。
彼女の指先は少しひんやりしていて、やわらかく、たしかだった。
何か言おうとした。
けれど喉が詰まり、耳に響くのは自分の鼓動ばかりだ。
だから何も言わず、ただその手を握り返した。
緒山の睫毛が、かすかに震える。
彼女は彼を見なかった。
ただ前の道を見つめたまま、口元の笑みだけを少し深くした。
二人はそのまま並んで歩いていった。
指を絡めたまま。
行き先も決めず、急ぐ理由もないままに。
陽の光が街路樹の葉の隙間からこぼれ、肩のあたりに細かな金色を散らしていった。
夏の終わりの風が吹く。
去っていこうとするぬくもりと、生まれたばかりの新しい期待を、いっしょに運ぶように。
石原は思う。
きっとこの午後のことを、ずっと忘れないだろうと。
ずっとずっと後になっても、思い出すのだろうと。
――ずっと、覚えていたい。




