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見える感情、見えないまま  作者: 颍川
第二十一章 言えるだろうか――見えないままのふたりの心
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第一百一十一話

---


食事会も、そろそろ終わりに近づいていた。


石原は湯のみを手にした。

底に残った細い茶の輪をぼんやり見つめながら、耳だけは緒山の声を追う。

――彼女は今、春野と来学期の生徒会の割り振りについて話している。


石原の中には、ひとつの考えがあった。

心臓がやけに大きく鳴る。


だが、全員がいるこの場ではとても言い出せなかった。


……どう切り出せばいい。


視線を落とし、水を飲むふりで鼓動を落ち着けた。


テーブルの下で、そっとスマホを取り出す。


親指が画面の上を迷った。

数秒打っては消し、また打っては消した。


最後に残ったのは、あまりにも短く、不器用な一文だ。


『午後、時間ある? ……一緒に少し歩かないか』


宛先:朋奈

送信。


顔を上げ、何事もなかったようにスマホをテーブルの端に伏せた。画面は下向きのまま。

だが心臓は太鼓みたいに鳴り続け、耳の奥まで響いていた。


テーブル越しに、緒山は杏の話を聞きながら笑っている。

小さくうなずき、柔らかく微笑んだ。


彼女のスマホはテーブルの端に置かれたまま、画面はずっと暗いままだった。


――気づいてない?

――それとも、気づいているけど返せない?


石原は無理やり意識を会話へ戻した。


春野が文化祭の構想を語り、花野はもう予算を計算し始めていた。


相づちは打つ。

だが、視線はどうしても、あの反応のないスマホへと吸い寄せられてしまった。


画面は、まだ暗いまま。


緒山は変わらず杏と話し、料理を取り、時々笑う。

どこにもおかしなところはない。


(……まあ、いいか)


石原は視線を引き戻し、少しだけ残念そうに水を口に含んだ。


(たぶん、本当に気づいてないんだろう)


スマホをもう一度画面が下になるように元に戻して、静かに息を吐いた。


落ち込むほどではない。

ただ、少しだけ胸の奥が空いたような感じが残った。


もう一度、意識をテーブルへ戻す。


杏はデザートを食べながら軽口を叩き、場は相変わらず賑やかだった。


緒山も笑っていた。

頬杖をつきながら、立花が誇張して語る“春野が後輩に教師と間違えられた話”を楽しそうに聞いている。


その横で、スマホはテーブルの端に置かれたまま。

画面は一度も光らなかった。


石原は冷めた唐揚げを一つ取り、ゆっくり噛んだ。


窓の外の光は、白い正午の色から、午後のやわらかな金色へと変わっていく。

話題は次々と移り、コーヒーも一杯、また一杯と継ぎ足されていった。


やがて、立花がカラオケを提案し、花野が資料作成を理由に断り、春野もまだ確認する書類があると言った。


椅子の音、バッグのファスナーの音、重なる「また明日」の声が、店の中で入り混じる。


石原も立ち上がり、自分の前を軽く片づけ始めた。


「先輩」


隣から緒山の声がかかった。

自然で、やわらかな声だった。


「そろそろ帰りますか? 一緒に――」


「……行かないか」


ほとんど反射みたいに、石原の言葉がそれを遮った。

静まり始めた空気の中で、その声だけが少し唐突で張り詰めていた。


「……少し、歩かないか」


一瞬、言葉が途切れた。

喉がかすかに動いた。


「……俺と、二人で」


空気が、ほんの一瞬だけ止まった。


「へえ」


春野が意味ありげに声を漏らした。


立花は口元を押さえ、目を丸くする。

花野は眼鏡を押す手を途中で止めた。


そして杏は――


「うわぁ〜、お兄ちゃんが妹を捨てた〜! 朋奈さんができたらもう妹はいらないんだ〜!」


顔を覆いながら大げさに嘆いた。

だが指の隙間から覗く目は、きらきらと輝いている。


その様子に、立花が思わず吹き出した。


石原は耳まで真っ赤になった。

顔を上げられず、ただテーブルの木目を見つめる。


「……いいか?」


声は小さかった。

ようやく掴んだこの瞬間を、壊してしまわないように。


「もちろんです」


緒山の声が、やさしく返ってきた。

澄んでいて、どこかほんの少しだけ震えていた。


「じゃあ……行きましょう」


---


別れ際は、やけに賑やかだった。


杏は何度も「遅くなりすぎないでね」と念を押し。

立花はぶんぶんと手を振り。

花野は珍しく「楽しんできて」と声をかけ。

春野は石原の肩をぽんと叩いて、何も言わずにただ笑った。


石原と緒山は、並んで店を出た。


九月の終わりの陽射しは、もう真夏みたいな鋭さを失っていて、やわらかく、どこかやさしかった。


通りには人が行き交っている。買い物袋を提げた人。子どもの手を引いた人。買ったばかりの花を抱えた人。

――これ以上ないくらい、ありふれた午後の風景だった。


緒山は静かに彼の隣を歩いている。

スカートの裾が、歩くたびにゆるやかに揺れていた。


ずっと何も言わないまま、ときおり空を見上げ、また足元へ視線を落とした。


石原の鼓動は、まだ完全には収まっていなかった。


この先どこへ行くのか。

何を話せばいいのか。

考えようとしても、頭の中は真っ白で、

「うまくいった」

「引き受けてくれた」

その言葉ばかりが何度も巡っていた。


ふいに、緒山がくすっと笑った。


「先輩」


顔をこちらへ向けた。

その目には、どこか悪戯っぽい光が宿っていた。


「スマホ、見ました?」


石原は不思議そうに彼女を見る。


緒山はその場に立ち止まり、両手を背中に回した。

スカートの裾が風に揺れる。

陽の光が髪先をすべり、笑みを含んだ睫毛のあたりで小さく跳ねた。


その顔には、子どもみたいな得意げな色と、少しだけ隠しきれない照れが混ざっている。


「ずっと待ってたんです」


彼女はやわらかい声で言った。


「先輩がいつ気づくかなって。

いつ、自分の口で言ってくれるかなって」


石原は一瞬、言葉を失った。


視線を落としてスマホを見た。

画面には、あの一通だけが残っていた。


『午後、時間ある? ……一緒に少し歩かないか』


既読。

返信なし。


「……気づいてたのか」


声が少しかすれた。


「うん」


「じゃあ、なんで返さなかったんだよ」


緒山は小さく首を傾げた。


「先輩の口から聞きたかったからです」


石原は口を開きかけた。


つまり彼女は、ずっと待っていたのだ。

自分が落ち着かなくなるのを。

勇気を振り絞るのを。

あの連中に見られながら、たどたどしく「二人で」と言うのを。

しかも、自分は本当に言ってしまった。


「……ずるいな、朋奈」


肩の力を抜き、長く息を吐く。

その声に悔しさはなく、ただ、すっかり降参してしまったような響きだけがあった。


「うんうん」


緒山はあっさり認めた。


「……次は、素直に言ってくれればいい」


「それはだめです」


首を横に振り、髪がふわりと揺れた。


「次も、先輩の口から聞きたくなるかもしれないじゃないですか」


石原は顔を上げ、困ったように笑う。


ちょうどそのとき、夏の終わりの風が通りを抜けていった。

ほのかな花の匂いと、季節の名残みたいなさびしさを運びながら。


その風の中で、目の前の少女は、笑みを湛えた瞳でまっすぐ彼を見つめていた。

まるで、彼が自分の方へ歩いてくるのを待っているみたいに。

あるいは、ずっと前からそうしていたみたいに。


そして緒山は、そっと手を伸ばした。

彼の手を、やさしく握った。


指先が彼の指の関節にふれた感触は、羽が一枚落ちたみたいに軽かった。


石原の身体がかちんと固まった。


「大丈夫ですよ」


彼女の声はとても小さかった。

笑いを含んでいたのに、そこにははっきりとした真剣さもあった。


「今は、私たち二人だけですから」


その指先が、ほんの少しだけ強く握られた。

石原が逃げてしまわないように。

それとも、これが夢じゃないと確かめるように。


石原は、重なった二人の手を見下ろした。

彼女の指先は少しひんやりしていて、やわらかく、たしかだった。


何か言おうとした。

けれど喉が詰まり、耳に響くのは自分の鼓動ばかりだ。


だから何も言わず、ただその手を握り返した。


緒山の睫毛が、かすかに震える。

彼女は彼を見なかった。

ただ前の道を見つめたまま、口元の笑みだけを少し深くした。


二人はそのまま並んで歩いていった。

指を絡めたまま。

行き先も決めず、急ぐ理由もないままに。


陽の光が街路樹の葉の隙間からこぼれ、肩のあたりに細かな金色を散らしていった。


夏の終わりの風が吹く。

去っていこうとするぬくもりと、生まれたばかりの新しい期待を、いっしょに運ぶように。


石原は思う。

きっとこの午後のことを、ずっと忘れないだろうと。


ずっとずっと後になっても、思い出すのだろうと。


――ずっと、覚えていたい。

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