第一百一十二話
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二人は肩を並べて歩いていた。行き先も決めないまま、なんとなく足を前へ運んでいく。
信号の前で、緒山はようやく気づいたみたいに、そっとつないでいた手を離した。
そして今度は、何でもない顔で石原の隣に並んだ。
石原の指先には、まだ彼女の手のひらの温もりが残っていた。
それは消えずにくすぶる小さな火みたいで、一歩進むたび、かすかに脈打つ熱を伝えてくる。
二人は、いろんなことを話した。
夏休みが始まったばかりのころ、緒山がひとりで競技場の下見に行って、陸上部の器具に足を引っかけて転びかけたこと。しかし、幸い誰にも見られなかったらしい。
石原があの日、緒山に付き合って星を見に行ったら、実は屋上に二十分も早く着いていて、危うく蚊にたかられそうになったこと。
杏がハマってるゲームに夢中で、夜中の二時になってもリビングでにやにや笑っていたせいで、石原に充電器を没収されたこと。
どれも、わざわざ口にするほどでもないような、他愛ない話ばかりだ。
それでも、プラタナスの木陰に覆われたこの通りを歩いていると、そのひとつひとつが夏の終わりの風みたいに、軽やかでやさしく思えた。
気がつけば、いつの間にか見覚えのある道に変わっていた。
石原はふと顔を上げる。
目に入ったのは、見慣れた、少し古びた校門だった。
休み中の泉方新高は、いつもよりずっと静かだ。
校舎は午後の陽射しの中に黙って立ち、窓ガラスには細かな金の光がちらちらと反射していた。
二人は何を言うでもなく、同時に歩く速さを緩めた。
何かを確かめるみたいな息の合い方のまま、中庭を抜け、生徒会棟を回り込み、木々に囲まれた静かな一角へと向かう。
木陰はしだいに濃くなり、蝉の声もまばらになっていった。
葉の隙間からこぼれた陽射しが、石畳の小径に揺れる木漏れ日を落としている。
あのベンチは、変わらずそこにあった。
四月のころより少しだけ塗装はくたびれていたけれど、まだしっかりしていた。
緒山はベンチの前で足を止める。
彼女は静かに立ったまま、背もたれに残った浅い傷へ視線を落とした。
どの代の誰が残したのかも分からない、もうかすれて読めなくなったアルファベットだった。
その横顔はひどく静かで、伏せたまつ毛の奥で、風が葉を抜けていく音にじっと耳を澄ませているみたいだ。
「……ここ、なんですね」
その声はとても小さくて、ひどく久しぶりに確かめるような響きを帯びている。
石原は何も言わなかった。
もちろん、覚えている。
四月のあの昼。人目を避けたくて、彼はこの人気のない林へ入り込んだ。
そこで、彼は彼女を見つけた。
――ベンチにひとりで座って、肩を小さく震わせながら、声もなく涙をこぼしていた少女を。
それが、緒山との最初の出会いだった。
あのときの石原は、まだ彼女の名前も知らなかった。
やがて彼女が副会長になることも、そのあとこんなふうに何度も関わるようになることも、想像すらしていなかった。
彼が見たのは、ただ泣いているひとりの女の子だった。
そして、それを見て見ぬふりはできなかった。
――それだけだったはずなのに。
気づけば、こうして隣を歩くようになっていた。
緒山の声が、石原の意識を今へと引き戻した。
彼女はくるりと振り返り、ベンチに背を向けたまま、少し顔を上げて石原を見た。
それから、目を細めてふっと笑った。
「先輩、前に言ってましたよね。『つらいときは、いつでも俺のところに来ていい』って」
石原の喉仏が小さく上下した。
「……俺、そんなこと言ったっけ」
「言ってませんよ。今、適当にでっち上げました」
緒山は楽しそうに笑う。
風が梢を抜け、葉をさわさわと鳴らした。
石原は彼女を見る。
彼女は四月のあの日と同じ場所に立っていた。九月に似合うワンピースを着て、顔にはいつもの笑みを浮かべて――いや、いつもよりもっとやわらかくて、どこか吹っ切れたような笑みだった。
「朋奈」
石原は口を開く。
気づけば、ごく自然に彼女の名前を呼んでいた。
緒山は軽くまばたきをした。けれど今日は、いつものようにからかってこなかった。
ただ静かに、彼の次の言葉を待つ。
「……あのとき」
石原はそう訊いた。
「どうして、あのとき一人でここで泣いてたんだ」
緒山のまつ毛が、かすかに震える。
沈黙が数秒続いた。
もう答えてはくれないかもしれない――そう思って、石原が「言いたくないなら、それでいい」と口にしかけたとき、彼女はふっと小さく笑った。
「女の子ですから」
まるで天気のことでも話すみたいな、あまりに軽い口調。
「たまには、悲しいことの一つや二つくらいありますよ」
彼女はうつむき、指先で無意識にスカートのひだをなぞった。
葉の隙間からこぼれた陽射しが、髪の上でちらちらと揺れる。
表情は影の中に沈んでいて、よく見えなかった。
石原はそれ以上、聞かなかった。
その代わり、別の光景がふいに脳裏をよぎった。
――朝日葵が退院したあの日。
みんなが笑顔で見送る中、彼女は人波の端に立っていた。
顔には明るい笑みを浮かべながら、涙だけが声もなく頬を伝っていた。
どうしたのかと訊いたときも、彼女は「みんなのことが嬉しくてたまらなかっただけです」と笑って答えた。
あの笑顔と、今こうしてまつ毛を伏せたまま浮かべている微笑みが、石原の中で重なる。
「朋奈」
石原はもう一度、その名を呼んだ。さっきよりも、少しだけやわらかい声で。
彼女は顔を上げた。
「……お前」
石原は少し言葉を選んでから、続けた。
「まだ、俺が聞いてないことも……お前が話してないことも、たくさんあるんじゃないか」
緒山は石原を見つめる。
その目は、とても静かだった。
雨上がりの湖面のように、目をそらしもせず、取り乱すこともなく、ただ静かに彼の視線を受け止める。
それから、彼女は笑った。
今度の笑みはひどく淡くてやわらかくて、何かを驚かせないようにそっと浮かべたものみたいだった。
「先輩、知ってますか。
言わないのって、言ったところで何も変わらないからなんです」
その声はひどく穏やかだった。
「でも、先輩と一緒に作った思い出――楽しくて、きらきらしてて、思い出しただけでつい笑っちゃうようなことを――私はひとつ残らず、ちゃんと覚えていたいんです」
彼女はそこで、ほんの少しだけ言葉を切る。
「だから、もうあんなふうには泣きません」
彼女はふっと目を伏せる。
その声は、少しだけ震えているように聞こえた。
「わがままですよね。
自分で楽しくいようって決めたくせに――先輩に残したいのは、きっと楽しくて綺麗な思い出ばかりなのに」
それでも彼女はまた笑った。
まるで簡単な約束でも口にするみたいな、軽い調子で。
石原は何も言わなかった。
胸の奥を、何かにそっと掴まれたようだ。
「……それは、わがままなんかじゃない」
緒山がまばたきをした。
「泣きたいときは、泣いていいはずだ」
石原はゆっくりと言った。ひとつひとつの言葉の置き場を確かめるみたいに。
「何も変えられないからって、それが大事じゃないってことにはならない」
風が止んだ。
葉擦れもふっと途切れ、蝉の声さえ一瞬だけ止んだようだった。
「俺なら、聞ける。朋奈」
緒山は黙って彼を見た。
「何でもいい。朋奈」
まつ毛はかすかに震えているのに、口元にはまだ笑みが残っていた。
「……うん」
それから彼女はうつむき、椅子に座って、夏の花火が描かれた表紙のノートを鞄から取り出す。
「――はい、この話はおしまいです!」
声はまた、いつものように明るさを取り戻していた。
チェックの入った項目をいくつもめくり、最後の白紙のページまで開いていった。
「せっかくここまでやりきったんですし、ちゃんと記念にしましょう」
彼女はノートを膝の上に広げ、ペンケースから黒い水性ペンを一本取り出した。
石原は彼女の隣に腰を下ろした。
ベンチはちょうど二人で座るのにぴったりで、二人の間も拳ひとつ入るかどうかくらいしか空いていない。
彼女の髪から、ほのかにシャンプーの香りがした。
朝の陽を浴びたみたいな、さらりとした清潔な匂い。
緒山はペンを握ると、真剣な顔で描き始めた。
その筆致は軽くて、ほんの少しだけたどたどしかった。
まず横に一本、線を引いた。ベンチの輪郭だった。
それから左側に、小さな女の子を描いた。髪はポニーテールで、スカートの裾がふわりと揺れている。
右側には男の子。短い髪で、すっとまっすぐ立っていた。
誰かを待っているみたいにも見えた。
彼女はその二人を、数秒じっと見つめた。
それから、ベンチの座面に、細い線を一本だけ描き足した。
その線は、女の子の手と男の子の手をつないでいた。
――手をつないでいる。
小さな二人が、並んで、手をつないでいる。
緒山はペンを置き、ノートを石原のほうへそっと押した。
「……できました」
その声はとても小さかった。
石原はその絵を見た。
線は単純で、たどたどしかった。けれど、女の子も男の子も笑っているのがちゃんと分かった。
画面の上のほうから、斜めに光が差し込んでいた。
はっきりした形はなかった。ただ、短い放射線みたいな線がいくつか添えられているだけだった。
石原には、それが何なのか分かっていた。
それは、屋上で一緒に待った夕焼けであり、競技場の金色に染まるトラックであり、二人で歩いた夏の夕暮れ――その全部だった。
「……可愛いな」
緒山は唇をきゅっと結び、もう一度ノートを彼のほうへ押した。
目はきらきらしていて、何かを待っているみたいだった。
石原は少しためらってから、彼女の手からペンを受け取る。
ペン先を紙の上に浮かせたまま、二秒ほど動かさなかった。
それから、短い髪の小さな男の子の体の中に、そっと小さなハートを描いた。
輪郭は歪んでいて、塗り方だってまばらだった。
それでも、石原はひどく真面目にそれを描く。
まるで、とても大事なものをきちんと残そうとするみたいに。
「それ……」
緒山の声が、少しだけ強張った。
「心臓」
石原は自分の描いた線を見つめたまま、耳まで赤くした。
「今、心臓がすごく速く打ってるから。だから描いた」
その声はとても小さくて、ただどうしようもない事実を口にしているみたいだった。
けれどその奥に、何かをごまかそうとしている気配もあった。
数秒、沈黙が落ちる。
「……っ、ふ」
緒山はこらえきれず、吹き出した。
手の甲で口元を押さえながら、肩が小さく揺れる。
目尻には細かな涙までにじんでいた――笑いすぎたせいで。
石原には何がそんなにおかしいのか分からなかった。
けれどその笑い声は、風に吹かれて散る綿毛みたいに軽くて、細かくて、なかなか止まらなかった。
「先輩」
ようやく呼吸を整えながら、まだ笑いの余韻を残した声で言う。
「そんなふうに描いたら、この子、不整脈になっちゃいますよ」
石原は言葉に詰まった。
反論はしない。
ただ、その歪なハートを見下ろすことしかできなかった。
(それでいいだろ。どうせ今の俺だって、不整脈みたいなものなんだから)
緒山も視線を落とし、二人でその絵を見つめる。
しばらくのあいだ、二人は何も言わなかった。
やがて彼女は指先を伸ばし、その小さなハートの輪郭をそっとなぞった。
「ちゃんと、大事に取っておきますね」
その声はとても小さくて、水面に落ちる羽みたいだった。
彼女は顔を上げない。
それでも石原には分かった。
彼女の耳がうっすらと色づき、少しずつ、夕焼けみたいな赤さへ変わっていくのが見えた。




