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見える感情、見えないまま  作者: 颍川
第二十一章 言えるだろうか――見えないままのふたりの心
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第一百一十二話

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二人は肩を並べて歩いていた。行き先も決めないまま、なんとなく足を前へ運んでいく。


信号の前で、緒山はようやく気づいたみたいに、そっとつないでいた手を離した。

そして今度は、何でもない顔で石原の隣に並んだ。


石原の指先には、まだ彼女の手のひらの温もりが残っていた。

それは消えずにくすぶる小さな火みたいで、一歩進むたび、かすかに脈打つ熱を伝えてくる。


二人は、いろんなことを話した。


夏休みが始まったばかりのころ、緒山がひとりで競技場の下見に行って、陸上部の器具に足を引っかけて転びかけたこと。しかし、幸い誰にも見られなかったらしい。


石原があの日、緒山に付き合って星を見に行ったら、実は屋上に二十分も早く着いていて、危うく蚊にたかられそうになったこと。


杏がハマってるゲームに夢中で、夜中の二時になってもリビングでにやにや笑っていたせいで、石原に充電器を没収されたこと。


どれも、わざわざ口にするほどでもないような、他愛ない話ばかりだ。

それでも、プラタナスの木陰に覆われたこの通りを歩いていると、そのひとつひとつが夏の終わりの風みたいに、軽やかでやさしく思えた。


気がつけば、いつの間にか見覚えのある道に変わっていた。


石原はふと顔を上げる。

目に入ったのは、見慣れた、少し古びた校門だった。


休み中の泉方新高は、いつもよりずっと静かだ。

校舎は午後の陽射しの中に黙って立ち、窓ガラスには細かな金の光がちらちらと反射していた。


二人は何を言うでもなく、同時に歩く速さを緩めた。

何かを確かめるみたいな息の合い方のまま、中庭を抜け、生徒会棟を回り込み、木々に囲まれた静かな一角へと向かう。


木陰はしだいに濃くなり、蝉の声もまばらになっていった。

葉の隙間からこぼれた陽射しが、石畳の小径に揺れる木漏れ日を落としている。


あのベンチは、変わらずそこにあった。

四月のころより少しだけ塗装はくたびれていたけれど、まだしっかりしていた。


緒山はベンチの前で足を止める。


彼女は静かに立ったまま、背もたれに残った浅い傷へ視線を落とした。

どの代の誰が残したのかも分からない、もうかすれて読めなくなったアルファベットだった。


その横顔はひどく静かで、伏せたまつ毛の奥で、風が葉を抜けていく音にじっと耳を澄ませているみたいだ。


「……ここ、なんですね」


その声はとても小さくて、ひどく久しぶりに確かめるような響きを帯びている。


石原は何も言わなかった。


もちろん、覚えている。

四月のあの昼。人目を避けたくて、彼はこの人気のない林へ入り込んだ。


そこで、彼は彼女を見つけた。


――ベンチにひとりで座って、肩を小さく震わせながら、声もなく涙をこぼしていた少女を。


それが、緒山との最初の出会いだった。


あのときの石原は、まだ彼女の名前も知らなかった。

やがて彼女が副会長になることも、そのあとこんなふうに何度も関わるようになることも、想像すらしていなかった。


彼が見たのは、ただ泣いているひとりの女の子だった。

そして、それを見て見ぬふりはできなかった。


――それだけだったはずなのに。

気づけば、こうして隣を歩くようになっていた。


緒山の声が、石原の意識を今へと引き戻した。


彼女はくるりと振り返り、ベンチに背を向けたまま、少し顔を上げて石原を見た。

それから、目を細めてふっと笑った。


「先輩、前に言ってましたよね。『つらいときは、いつでも俺のところに来ていい』って」


石原の喉仏が小さく上下した。


「……俺、そんなこと言ったっけ」


「言ってませんよ。今、適当にでっち上げました」


緒山は楽しそうに笑う。


風が梢を抜け、葉をさわさわと鳴らした。


石原は彼女を見る。

彼女は四月のあの日と同じ場所に立っていた。九月に似合うワンピースを着て、顔にはいつもの笑みを浮かべて――いや、いつもよりもっとやわらかくて、どこか吹っ切れたような笑みだった。


「朋奈」


石原は口を開く。

気づけば、ごく自然に彼女の名前を呼んでいた。


緒山は軽くまばたきをした。けれど今日は、いつものようにからかってこなかった。

ただ静かに、彼の次の言葉を待つ。


「……あのとき」

石原はそう訊いた。


「どうして、あのとき一人でここで泣いてたんだ」


緒山のまつ毛が、かすかに震える。


沈黙が数秒続いた。

もう答えてはくれないかもしれない――そう思って、石原が「言いたくないなら、それでいい」と口にしかけたとき、彼女はふっと小さく笑った。


「女の子ですから」

まるで天気のことでも話すみたいな、あまりに軽い口調。

「たまには、悲しいことの一つや二つくらいありますよ」


彼女はうつむき、指先で無意識にスカートのひだをなぞった。

葉の隙間からこぼれた陽射しが、髪の上でちらちらと揺れる。


表情は影の中に沈んでいて、よく見えなかった。


石原はそれ以上、聞かなかった。

その代わり、別の光景がふいに脳裏をよぎった。


――朝日葵が退院したあの日。

みんなが笑顔で見送る中、彼女は人波の端に立っていた。

顔には明るい笑みを浮かべながら、涙だけが声もなく頬を伝っていた。


どうしたのかと訊いたときも、彼女は「みんなのことが嬉しくてたまらなかっただけです」と笑って答えた。


あの笑顔と、今こうしてまつ毛を伏せたまま浮かべている微笑みが、石原の中で重なる。


「朋奈」

石原はもう一度、その名を呼んだ。さっきよりも、少しだけやわらかい声で。


彼女は顔を上げた。


「……お前」

石原は少し言葉を選んでから、続けた。

「まだ、俺が聞いてないことも……お前が話してないことも、たくさんあるんじゃないか」


緒山は石原を見つめる。


その目は、とても静かだった。

雨上がりの湖面のように、目をそらしもせず、取り乱すこともなく、ただ静かに彼の視線を受け止める。


それから、彼女は笑った。

今度の笑みはひどく淡くてやわらかくて、何かを驚かせないようにそっと浮かべたものみたいだった。


「先輩、知ってますか。

言わないのって、言ったところで何も変わらないからなんです」


その声はひどく穏やかだった。


「でも、先輩と一緒に作った思い出――楽しくて、きらきらしてて、思い出しただけでつい笑っちゃうようなことを――私はひとつ残らず、ちゃんと覚えていたいんです」


彼女はそこで、ほんの少しだけ言葉を切る。


「だから、もうあんなふうには泣きません」


彼女はふっと目を伏せる。

その声は、少しだけ震えているように聞こえた。


「わがままですよね。

自分で楽しくいようって決めたくせに――先輩に残したいのは、きっと楽しくて綺麗な思い出ばかりなのに」


それでも彼女はまた笑った。

まるで簡単な約束でも口にするみたいな、軽い調子で。


石原は何も言わなかった。

胸の奥を、何かにそっと掴まれたようだ。


「……それは、わがままなんかじゃない」


緒山がまばたきをした。


「泣きたいときは、泣いていいはずだ」

石原はゆっくりと言った。ひとつひとつの言葉の置き場を確かめるみたいに。

「何も変えられないからって、それが大事じゃないってことにはならない」


風が止んだ。

葉擦れもふっと途切れ、蝉の声さえ一瞬だけ止んだようだった。


「俺なら、聞ける。朋奈」


緒山は黙って彼を見た。


「何でもいい。朋奈」


まつ毛はかすかに震えているのに、口元にはまだ笑みが残っていた。


「……うん」


それから彼女はうつむき、椅子に座って、夏の花火が描かれた表紙のノートを鞄から取り出す。


「――はい、この話はおしまいです!」


声はまた、いつものように明るさを取り戻していた。

チェックの入った項目をいくつもめくり、最後の白紙のページまで開いていった。


「せっかくここまでやりきったんですし、ちゃんと記念にしましょう」


彼女はノートを膝の上に広げ、ペンケースから黒い水性ペンを一本取り出した。


石原は彼女の隣に腰を下ろした。

ベンチはちょうど二人で座るのにぴったりで、二人の間も拳ひとつ入るかどうかくらいしか空いていない。


彼女の髪から、ほのかにシャンプーの香りがした。

朝の陽を浴びたみたいな、さらりとした清潔な匂い。


緒山はペンを握ると、真剣な顔で描き始めた。


その筆致は軽くて、ほんの少しだけたどたどしかった。


まず横に一本、線を引いた。ベンチの輪郭だった。

それから左側に、小さな女の子を描いた。髪はポニーテールで、スカートの裾がふわりと揺れている。


右側には男の子。短い髪で、すっとまっすぐ立っていた。

誰かを待っているみたいにも見えた。


彼女はその二人を、数秒じっと見つめた。


それから、ベンチの座面に、細い線を一本だけ描き足した。


その線は、女の子の手と男の子の手をつないでいた。


――手をつないでいる。

小さな二人が、並んで、手をつないでいる。


緒山はペンを置き、ノートを石原のほうへそっと押した。


「……できました」

その声はとても小さかった。


石原はその絵を見た。


線は単純で、たどたどしかった。けれど、女の子も男の子も笑っているのがちゃんと分かった。


画面の上のほうから、斜めに光が差し込んでいた。

はっきりした形はなかった。ただ、短い放射線みたいな線がいくつか添えられているだけだった。


石原には、それが何なのか分かっていた。

それは、屋上で一緒に待った夕焼けであり、競技場の金色に染まるトラックであり、二人で歩いた夏の夕暮れ――その全部だった。


「……可愛いな」


緒山は唇をきゅっと結び、もう一度ノートを彼のほうへ押した。

目はきらきらしていて、何かを待っているみたいだった。


石原は少しためらってから、彼女の手からペンを受け取る。


ペン先を紙の上に浮かせたまま、二秒ほど動かさなかった。


それから、短い髪の小さな男の子の体の中に、そっと小さなハートを描いた。


輪郭は歪んでいて、塗り方だってまばらだった。

それでも、石原はひどく真面目にそれを描く。

まるで、とても大事なものをきちんと残そうとするみたいに。


「それ……」

緒山の声が、少しだけ強張った。


「心臓」

石原は自分の描いた線を見つめたまま、耳まで赤くした。

「今、心臓がすごく速く打ってるから。だから描いた」


その声はとても小さくて、ただどうしようもない事実を口にしているみたいだった。

けれどその奥に、何かをごまかそうとしている気配もあった。


数秒、沈黙が落ちる。


「……っ、ふ」

緒山はこらえきれず、吹き出した。


手の甲で口元を押さえながら、肩が小さく揺れる。

目尻には細かな涙までにじんでいた――笑いすぎたせいで。


石原には何がそんなにおかしいのか分からなかった。

けれどその笑い声は、風に吹かれて散る綿毛みたいに軽くて、細かくて、なかなか止まらなかった。


「先輩」

ようやく呼吸を整えながら、まだ笑いの余韻を残した声で言う。

「そんなふうに描いたら、この子、不整脈になっちゃいますよ」


石原は言葉に詰まった。


反論はしない。

ただ、その歪なハートを見下ろすことしかできなかった。


(それでいいだろ。どうせ今の俺だって、不整脈みたいなものなんだから)


緒山も視線を落とし、二人でその絵を見つめる。


しばらくのあいだ、二人は何も言わなかった。


やがて彼女は指先を伸ばし、その小さなハートの輪郭をそっとなぞった。


「ちゃんと、大事に取っておきますね」

その声はとても小さくて、水面に落ちる羽みたいだった。


彼女は顔を上げない。

それでも石原には分かった。


彼女の耳がうっすらと色づき、少しずつ、夕焼けみたいな赤さへ変わっていくのが見えた。

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