第一百一十三話
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石原も何も言わなかった。
ただその絵を見ていた。
手をつないだ二人と、線の先に残った、緊張でかすかに震えた小さな揺れを見る。
そして、自分の鼓動がやけにはっきり聞こえた。
『先輩……大好きです』
それは、あの別の世界で。
すべてが消えようとしていたときに、彼女が残した最後の言葉だった。
石原は、まだその返事を返せずにいる。
あの、いつ消えてもおかしくない作り話みたいな世界じゃなく。
ここで――彼女が初めて泣いて、自分が彼女に希望を渡した、この場所で。
たった今、二人の小さな絵を描いたばかりの耳を夕焼けみたいに赤くした彼女の隣で。
石原は深く息を吸った。
それから、ゆっくりと緒山のほうを向く。
彼女はまだうつむいたまま、まつ毛を伏せていた。
指先が無意識に、ノートの端をそっとなぞっていた。
――言わなきゃいけない。
石原はそう思った。
「好き」なんて一言じゃ、たぶん足りない。
それよりずっと重いものだと思った。
あの壊れた世界から持ち帰った、彼女に返さなきゃいけない返事だった。
今、この瞬間に、ちゃんと渡さなきゃいけないものだった。
石原は口を開く。
「朋奈」
その名前は喉からこぼれた。
思っていたよりずっと軽くて、枝先の葉を驚かせないようにそっと落とした声みたいだった。
緒山が顔を上げる。
彼女の目が、まっすぐ石原の目を捉えた。
午後の陽射しが葉の隙間から差し込み、彼女の瞳の中で細かな金の欠片みたいに砕けていた。
何かを感じ取ったみたいに、彼女は息をわずかに止める。
ノートの端をつまむ指先に、ほんの少しだけ力がこもった。
石原は視線を逸らさなかった。
「お前に、言いたいことがある」
石原はそこで、ひとつ息を継いだ。
「今思いついて言ってるわけじゃない。ずっと前から、言いたかった」
石原はもう一度、深く息を吸った。
「俺は……お前が好きだ」
風が止まった。
蝉の声も、一瞬だけ途切れた気がした。
「いや……ただの“好き”ってだけじゃない」
石原はゆっくりと言葉を選んだ。
ひとつひとつ、その重さを確かめるみたいに。
「お前が笑うたびに、今日ってすごくいい日だったんだって思う」
「夏休みが終わるって考えたときも、惜しいって思ったのは休みのことじゃなくて――お前に毎日会えなくなることだった。……まあ、学校でも会えるんだけど」
そこで、言葉が少し詰まった。
「あの日――」
喉仏がひとつ上下した。
「あの日、あの世界で……お前が俺に『大好き』って言ってくれたとき、思ったのは『ああ、こいつは俺のことが好きなんだ』ってことじゃなくて――」
石原は彼女の目を見つめた。
「俺も、この世界でちゃんとお前に言わなきゃってことだった」
石原は視線を逸らさないまま、続けた。
「だから、好きだ。朋奈」
「お前が先に言ったからじゃない。俺は、最初から――」
そこで、声が少しだけ落ちた。
「……最初から、お前のことがいちばん好きだった」
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その瞬間、緒山の世界はふいに音を失った。
聞こえるのは、自分の心臓の音だけ。
その鼓動は指先がしびれるほど強くて、目の奥が熱くなるほど激しく、胸の中で鳴り続けていた。
(言ってくれた……先輩が、私のこと、いちばん好きだって……)
心臓のあたりで、巨大な幸福が弾けた。
夏祭りの終わりに打ち上がる花火みたいに、視界いっぱいに広がって、くらくらするほど眩しい。
「うん」って言いたかった。
その一言は、もう喉もとまでこみ上げていた。
舌先が上あごに触れて、あとほんの少しで、本当に声になる。
――うん。
――私も、先輩と一緒にいたい。
――ずっと、ずっと前から。
初めて不器用に慰めてくれたときから。
最初のリストを一緒に叶えてくれたときから。
先輩と――
……
一緒にいたい。
……
そう思ったのに。
その瞬間、胸の奥に、あの感覚が走った。
冷たくて、鈍い痛み。
心臓のいちばん奥を、誰かの指先でそっと押されたみたいな感触だった。
ほんの一瞬だった。
けれど、それだけで幸福の渦の中から引き戻されるには十分だった。
いろんなことが、一気によみがえる。
病室の白すぎる天井。
消毒液の匂いが染みついた廊下。
夜中、ドアの隙間から漏れてくる灯りと――
――自分には聞こえていないと思って、ひどく小さく交わされる囁き声。
「……安定期でも、もしかしたら……」
「まだ、あんなに小さいのに……」
「……あと、どれくらい一緒にいられるんだろう……」
それから、あの夢。
春野の能力の余波で見せられた、あまりにも現実に近すぎる夢。
夢の中で、彼女は先輩と一緒にいた。
ようやく全部を打ち明けると、彼は手を握って「大丈夫だ」と言ってくれた。
一緒に向き合おう、と。
それから――
病院。
治療。
少しずつ弱っていく自分の体。
少しずつやつれていく先輩の顔。
それでも変わらない、優しい目。
最後には。
彼女がいなくなったあと、彼は一人で、あの一緒に見た星空の下に立っていた。
夢の中に、音はなかった。
けれど――それでも、彼が泣いているのは分かった。
目が覚めたとき、枕は濡れていた。
……
それでも。
(それでも……私は、本当に先輩のことが好き)
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「朋奈?」
石原の声に、緒山ははっと現実へ引き戻された。
彼はじっと彼女を見ている。
その目にあった期待が、少しずつ不安に染まっていった。
緒山は口を開いた。
断る言葉が、喉の奥に引っかかった。
まるで紙やすりでも挟まっているみたいに、一文字吐き出すたび、ひりひりと痛んだ。
「先輩、私……」
その声は震えていた。
「私……少し、時間がほしいです」
彼の目を見ることができなかった。
視線は彼の襟元へ落ち、握りしめた拳へ移り、それから膝の上に吹き落とされた葉へと逃げていく。
どこでもよかった。
彼の目だけは、どうしても見られなかった。
「違うんです……断るとか、そういうんじゃなくて……」
自分の声が聞こえた。
今にも落ちそうな葉みたいに、ひどくか細い。
「ただ、まだ心の準備ができてなくて。
だから……少しだけ、待ってもらえますか。
ちゃんと準備ができたら、そのとき……」
そのとき、何を言うつもりだったのか。
先輩の気持ちを、受け止めるとでも言うつもりだったのか。
そんな日が来るはずもないのに。
自分には、最初から“準備ができる日”なんて来ない。
どう断ればいいのか、分からないだけだった。
――いや、違う。
断りたいわけじゃない。
誰よりも頷いて、「うん」って言いたかった。
それなのに。
「ごめんなさい」
緒山はうつむいた。
前髪が目元に落ちて、表情を隠す。
「ごめんなさい、先輩……」
爪が掌に食い込んだ。
涙が目の奥で揺れる。
必死にこらえた。
目の奥がつんと痛んで、熱を持つほどだった。
さっき、自分で言ったばかりだった。
先輩とは、きれいな思い出を作りたいって。
もうあんなふうに、わがままに泣いたりしないって。
なのに、また約束を破ってしまった。
沈黙が長く続いた。
時間が止まってしまったんじゃないかと思うほどに。
それから、石原が口を開いた。
「……大丈夫だよ、朋奈」
少しかすれた声だった。けれど、とてもやさしくて、まるで彼女を怖がらせないようにするみたいだった。
「謝らなくていい」
緒山はスカートの裾をぎゅっと握りしめる。
「急にこんなこと言ったのは、俺のほうだ。
お前は……今すぐ返事しなくていい。
俺は待てるから」
彼は、彼女を慰めていた。
断ったのは自分のほうなのに。
それなのに彼は、こんなふうに、壊れものでも扱うみたいに自分を気遣ってくれていた。
胸の奥が、鋭く痛んだ。
さっきまでの鈍い痛みなんかじゃない。
小さな刃物で裂かれるみたいな、はっきりした痛みだった。
たまらず、緒山は顔を上げる。
そして、見てしまった。
石原の目元が、うっすら赤くなっていた。
無理やり押し込めたあとみたいな、浅い赤みがそこに残っている。
彼が一度だけまばたきをした。
まつ毛の先が、ほんの少しだけ湿っている。
次の瞬間には、すぐ顔をそらした。
何かを隠すみたいに。
「お、俺……別に、断られたからこんな顔してるわけじゃない」
声が少し早くなって、そこには、どこか彼らしい不器用な言い訳が混じる。
「ただ……」
そこで一度、言葉を切った。
「お前の顔見てたら、ずっとすごく苦しいことを抱えてるんだろうなって思って」
石原はもう一度、彼女を見た。
目元はまだ赤かい。
それでも、視線は逸らさなかった。
「お前は何も言わないけど。
でも……きっと、すごく重いことなんだろうって思う」
その声はとても静かだった。
あの四月の風みたいに。
「別に、俺に話せって言いたいわけじゃない」
少しだけ間を置いた。
「ただ……いつか、お前が話したくなったら、そのときは俺がちゃんと聞く」
緒山は彼を見た。
そして、ついに涙があふれだす。
今すぐにでも、言いたかった。
全部、話してしまいたかった。
あの腕のバンドの意味も、止まる時間のことも、その代償にまつわる残酷な秘密も。
こんな自分でも、先輩のその「一番好き」に見合うのかって、聞いてみたかった。
でも、できなかった。
さっき自分で断っておいて、今さら「やっぱり違う」なんて言えるはずがない。
こんな出口のない迷路に、先輩を引きずり込むわけにもいかない。
だから、唇を強く噛んで立ち上がった。
「ごめんなさい、先輩……」
その声は震えていた。
どの言葉も、今にも砕けてしまいそうだった。
「……ちょっと、用事があって。先に行きます」
彼を見なかった。
見られなかった。
次の瞬間、世界から色が消えた。
――いや、違う。
色はまだあった。音もあった。風も吹いていて、葉も落ちていた。
ただ、自分だけがもう、この流れの中にはいなかった。
灰白色の世界に、自分だけがいた。
緒山は、止まった蝉の鳴き声の中で立ち尽くしていた。
涙が、頬を伝って静かに落ちていった。
止まった時間には、何の返事もない。
だから、ようやく声を出して泣けた。
手を上げ、手の甲を唇に押し当てた。
「……先輩のこと、いちばん好きです」
その声は、止まった空気の中に溶けていって、何も返ってこない。
「先輩と、一緒にいたい……」
しゃがみ込み、膝に顔を埋めた。
「いたい……ほんとに、いたい……」
でも、その言葉を最後まで言えるのは、こうして時間を止めた隙間の中だけだった。
先輩には見えない場所で、一人きりでしか言えない。
――先輩と一緒にいたい。
――でも、それ以上に怖いのは……
一分後。
時間は、また流れ始めた。
石原は一人、ベンチに座っていた。
風が林を抜け、さっきまで彼女が座っていた場所に葉を落としていく。
彼は膝の上のノートを見下ろした。
あの絵は、まだそこにあった。
小さな二人が手をつなぎ、ベンチに並んで座っていた。
短い髪の小さな男の子の胸には、歪んだ小さなハートが描かれていた。
彼女が忘れていったんだ。
石原は指先を伸ばし、そのハートの輪郭をそっとなぞった。
さっき、彼女も同じように触れていた。
あの指先も、こんなふうにあたたかかったんだろうか。
石原は顔を上げた。
林は静かで、陽射しはまだらに地面へ落ちていて、まるで何事もなかったみたいだ。
彼一人だけが、ここに残っていた。




